第四十一話 長良川合戦
美濃に、再び戦雲が立ち込めていた。
斎藤高政。
後の義龍。
父・利政との対立は、もはや修復できぬところまで来ていた。
そして――
高政が兵を挙げた。
「……来たか」
明智城に届いた報せを聞き、十兵衛は静かに呟いた。
長良川を挟み、父と子が相対する。
美濃を巡る戦いが、始まろうとしていた。
十兵衛はすぐさま利政のもとへ向かった。
「殿」
「十兵衛か」
利政は地図から顔を上げた。
「高政が兵を挙げました」
「知っておる」
利政の声に動揺はない。
「これで、親子の話し合いでは済まぬな」
「……はい」
十兵衛は利政を見つめた。
歴史を知る者として、十兵衛はこの先を知っている。
長良川。
斎藤利政は、ここで死ぬ。
史実では。
だが――
この世界の歴史まで、同じになる必要はない。
「殿」
「なんだ」
「一つ、具申がございます」
「申してみよ」
「この戦に、殿ご自身が出る必要はございません」
利政が眉をひそめる。
「何を言う。わしが出ねば、兵はまとまらぬ」
「だからこそです」
十兵衛は声を落とした。
「殿には、別の場所にいていただきたい」
「……別の場所?」
「はい」
十兵衛は、利政の目をまっすぐ見た。
「影武者を立てます」
しばし、沈黙が落ちた。
「影武者だと?」
「殿と背格好の近い者を選び、装束を整えます」
「そして?」
「戦場では、その者を殿として振る舞わせる」
利政の目が細くなる。
「わしが死んだことにするつもりか」
「はい」
迷いのない返答だった。
利政はしばらく十兵衛を見つめていた。
「……なぜ、そこまでしてわしを生かす」
「殿が死ねば、美濃は高政殿のものになります」
「それだけか?」
「いいえ」
十兵衛は首を横に振った。
「殿には、まだ果たしていただく役目がございます」
利政は黙った。
「美濃の表から消えていただきます」
「……」
「そして、生きていることを知る者を極力減らします」
十兵衛は地図を指した。
「戦が終われば、世間は『斎藤利政は長良川で討死した』と信じるでしょう」
「その裏で、わしは生きる」
「はい」
「どこでだ?」
「明智家が用意いたします」
利政は小さく笑った。
「なるほど」
その笑みは、いつもの蝮のものだった。
「わしを死んだことにして、敵の目を欺くか」
「高政殿だけではありません」
十兵衛は続ける。
「尾張にも、越前にも、京にも知られてはなりません」
「……信長にもか」
「はい」
その言葉に、利政の表情が変わった。
「帰蝶がおる」
「だからこそです」
十兵衛は答えた。
「帰蝶様にさえ、今は知らせません」
「娘にも?」
「知らない方が、演技に綻びが生じません」
利政は長く黙っていた。
やがて――
「あい分かった」
そう言った。
「あとは十兵衛。そなたに任せる」
「はっ」
長良川。
戦場では、斎藤利政の姿をした男が兵を率いる。
そして本物の利政は、明智家が用意した密かな退路を使い、戦場を離れる。
すべては、利政が討死したように見せるためだった。
――そして、戦の日が来た。
長良川を挟み、両軍が激突する。
鬨の声。
鉄砲の音。
馬蹄。
怒号。
美濃の大地が血に染まっていく。
「利政様がおられるぞ!」
斎藤軍の中で声が上がった。
その先に、利政の姿があった。
赤い夕陽を背負い、馬上から戦場を見渡している。
だが――
それは、本物ではない。
影武者だった。
十兵衛は少し離れた場所から、その姿を見ていた。
影武者は見事だった。
兜も。
装束も。
馬も。
遠目から見れば、誰も偽物だとは思わない。
そして戦いは、次第に斎藤軍に押し込まれていく。
「利政様が危ない!」
誰かが叫んだ。
影武者が馬から落ちる。
その周囲に敵兵が殺到した。
「討ち取ったぞ!」
戦場に響く声。
十兵衛は目を閉じた。
――これでいい。
これで、斎藤利政は死んだ。
少なくとも、世間の歴史では。
その夜。
戦場から離れた山中。
粗末な小屋の中に、利政はいた。
鎧を脱ぎ、質素な衣服に身を包んでいる。
「……長かったな」
利政が呟く。
「まだ終わってはおりません」
十兵衛が答えた。
「そうだったな」
利政は笑った。
「これで、わしは死んだことになった」
「はい」
「ならば、これより先は死人として生きるか」
「その通りです」
十兵衛は深く頭を下げた。
「殿には、これから表には出ぬ戦をしていただきます」
利政は十兵衛を見る。
「死人が何をする?」
「死人だからこそ、できることがございます」
利政の目が鋭くなった。
「……面白い」
その夜。
美濃では、斎藤利政討死の報が駆け巡った。
長良川にて。
蝮は死んだ。
誰もが、そう信じた。
だが――
その死は、偽りだった。
そして一人の男が、歴史の表舞台から姿を消した。
斎藤利政。
美濃の蝮。
その男は死んだ。
――そう、歴史には刻まれる。
しかし、本当の蝮は。
闇の中で、まだ生きていた。




