第四十ニ話 利政の死
長良川の戦いが終わった。
斎藤高政は、美濃の新たな主となった。
父・斎藤利政は討死。
それが、世間に伝えられた事実だった。
戦場から戻った高政は、居城の一室に一人で座っていた。
誰もいない。
静かな部屋だった。
だが、高政の耳には、未だに戦場の音が残っていた。
鬨の声。
鉄砲の音。
馬の嘶き。
そして――
父の名を叫ぶ兵たちの声。
「……父上」
気がつけば、その名を口にしていた。
高政は自らの手を見る。
血はもう付いていない。
何度も洗った。
それでも、血の臭いが消えない気がした。
「私は……本当にこれで良かったのか」
誰も答えない。
高政は目を閉じた。
父とは、長い間、折り合わなかった。
美濃の国主としてのやり方。
家臣への接し方。
そして、土岐氏を追放したこと。
何もかもが気に入らなかった。
だからこそ、戦った。
父を討つことになっても、美濃を守らねばならない。
そう、自分に言い聞かせてきた。
「美濃のためだった……」
呟く。
「そうだ。美濃のためだ」
だが、その言葉を繰り返すほど、胸の奥が重くなる。
父を倒した。
そして、自分が美濃の主となった。
本来ならば、喜ぶべきなのだ。
幼い頃から望んでいたものを、手に入れたのだから。
だが――
嬉しくなかった。
高政は立ち上がり、部屋の外へ出た。
廊下を歩く。
家臣たちが頭を下げる。
「殿」
「……うむ」
そう答える自分の声が、ひどく遠く感じられた。
ふと、高政は庭へ目を向けた。
以前、父と話したことを思い出す。
叱られたこと。
認められたこと。
幼い頃、父の背中を追いかけたこと。
そして、いつしかその背中が憎くなったこと。
「……私は、父上を憎んでいた」
高政は呟く。
「だが……」
言葉が続かなかった。
憎んでいた。
それは確かだ。
しかし、父がいなくなった途端、その憎しみの行き場がなくなった。
残ったのは、ただの空白だった。
「父上……」
高政は空を見上げた。
返事はない。
当然だった。
長良川で討たれたのだから。
――そう、高政は信じている。
その頃。
高政の知らぬ場所で、本物の利政は生きていた。
だが、その事実を知る者は、ごく僅か。
高政には届かない。
いや。
届いてはならない。
十兵衛がそう決めたのだ。
高政は再び部屋へ戻った。
机の上には、美濃の地図が置かれている。
これからは、自分がこの国を治める。
父とは違う国にする。
そう決めたはずだった。
「私は、父上とは違う」
高政は地図を見つめる。
「必ず、美濃をまとめてみせる」
その言葉には、決意があった。
だが同時に、恐れもあった。
父のようになれるのか。
父よりも優れた国主になれるのか。
それとも――
父を倒しただけの男として終わるのか。
高政は拳を握った。
「……負けるわけにはいかぬ」
父を討った以上、自分には逃げ道などない。
これから先、どれほど苦しいことがあろうとも。
どれほど父を思い出そうとも。
美濃を治める責任から逃れることはできない。
高政は立ち上がった。
「父上……」
最後にもう一度だけ、呟く。
「私は、私の道を行きます」
それが父への決別なのか。
それとも、最後の言葉なのか。
高政自身にも分からなかった。
ただ一つ。
長良川で父を失ったその日から――
斎藤高政の胸には、生涯消えることのない傷が残った。




