第四十話 若き虎が見た蝮
信長は馬に跨がったまま、しばらく黙っていた。
やがて、傍らの帰蝶へ視線を向ける。
「帰蝶」
「はい」
「あれが、そなたの父か」
「はい。斎藤利政にございます」
「なるほどな」
「何か?」
「蝮と呼ばれる理由が分かった」
帰蝶が僅かに眉を動かす。
「父上が、何か失礼なことを?」
「いや。俺を試していた」
信長は口元を僅かに上げた。
「だが、俺も同じだ。あの男を見ていた」
利政は、家臣の数から所作、言葉遣いまで、信長を値踏みしていた。信長もまた、利政の視線の奥を見ていた。
「恐ろしい男ですか?」
「恐ろしい」
即答だった。だが、嫌悪はない。
「だからこそ、面白い。美濃を二代でまとめ上げた男だ。あれほど人の心を読む者は、そうはいない」
「父は、信長様をどう見たでしょう」
「さあな。だが、悪くは思われていない」
「なぜ、そう思われるのです?」
「気に入らなければ、あんな目では見ない。あれは敵を見る目ではない。将来、関わるかもしれぬ者を見る目だ」
帰蝶は少しだけ笑った。
「父上らしい判断です」
「そなたは、やはりあの男の娘だな」
「……どういう意味でしょう?」
「今の笑い方が似ていた」
「まあ」
信長は、それ以上言わなかった。
しばしの沈黙の後、帰蝶が尋ねる。
「では、十兵衛殿はいかがでしたか?」
信長の表情が変わった。
「……妙な男だ。初めて会ったというのに、俺を恐れていなかった」
「十兵衛様は、そういう方なのかもしれません」
「それだけではない」
信長は窓の外へ目を向ける。
「俺が何を言い、何を考えるか。先回りして見ているようだった」
帰蝶の胸が僅かにざわめいた。
「十兵衛様は、父上をどう見ていたのでしょう」
「俺と同じだろう。互いに相手を測っていた」
「では、十兵衛様は何を?」
「あの男は、俺と利政の間に立つつもりなのだろう」
帰蝶は目を伏せた。
「美濃と織田が争わぬように、考えているのだと思います。私が嫁いだことで、両家には縁ができましたから」
信長はしばらく黙り、ふっと笑った。
「そなたは、あの男をよく見ているな」
「長く知る方ですから」
「ならば、覚えておこう。明智十兵衛という男を」
「十兵衛様を?」
「ああ。ただの斎藤家の家臣なら、それでいい」
信長の目が鋭くなる。
「だが、もし違うのなら――いつか、必ず分かる」
帰蝶は何も答えなかった。
信長は父・利政を警戒し、同時に十兵衛にも興味を持ち始めている。
それが何を意味するのか、帰蝶にはまだ分からない。
ただ一つ、今日の対面によって、美濃と尾張の関係が変わり始めたことだけは、はっきりと感じていた。




