第三十九話 「蝮が見た若き虎」
謁見が終わった。
織田家の広間を出た利政は、しばらく無言のまま廊下を歩いていた。
その後ろを、十兵衛が付き従う。
やがて利政が足を止めた。
「……十兵衛」
「はっ」
「お前は、あの男をどう見る?」
利政が問うたのは、当然ながら信長のことであった。
十兵衛はすぐには答えなかった。
先ほどまで目の前にいた信長。
正式な装束を身に纏った姿は、若き当主としての威厳を備えていた。
だが、その前。
利政が密かに見ていた、普段の信長の姿。
あれこそが、十兵衛の知る歴史上の織田信長に近かった。
「……少々、危ういお方かと」
利政の眉が動く。
「危うい?」
「はい。ただの若殿ではございませぬ」
十兵衛は慎重に言葉を選んだ。
「人の目を恐れず、自らの思うところを押し通す。されど、ただの無鉄砲とも違う」
「ほう」
「先ほどの謁見でも、殿に対して必要以上にへりくだることはありませんでした。」
利政は黙っている。
「ですが、無礼でもありません。」
「……そこだ」
利政が低く呟いた。
「わしも同じことを考えておった」
利政は振り返った。
「わしが見たかったのは、あの男が作法を知っているかではない」
「では?」
「人前で己をどう見せるかだ」
利政の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「普段の姿と、当主としての姿。その二つを使い分けておる」
十兵衛は黙って頷いた。
「それだけなら、珍しくはない」
利政は再び歩き始める。
「だが、あの男には妙なところがある」
「妙なところとは……?」
「己が周囲からどう見られているかを、さほど気にしておらぬように見える」
十兵衛は、その言葉に少し考え込んだ。
「……それは、強みでしょうか」
「強みにもなる。弱みにもなる」
利政の声が低くなる。
「己を信じすぎる者は、時に国を滅ぼす」
そこで利政は足を止めた。
「だが――」
目を細める。
「己を信じ抜ける者だけが、国を変えることもある」
十兵衛は、その言葉を聞いていた。
やはり利政は、信長をただの若造とは見ていない。
むしろ、その才覚を認め始めている。
「殿は、信長様を気に入られましたか?」
十兵衛が問う。
「気に入った?」
利政が鼻で笑った。
「そんな簡単な話ではない」
そして、少し間を置いて続けた。
「……面白い男だと思った」
その言葉には、道三らしい警戒が滲んでいた。
「信長は、これから変わるぞ」
「はい」
「織田家もな」
利政は空を見上げた。
「信秀が死んだことで、織田家は弱ると思う者も多かろう」
「実際、家中も揺れているでしょう」
「だが、あの男は違う」
利政は断言した。
「あの若さで、すでに自分が何をすべきかを考えておる」
十兵衛は黙って聞いていた。
「ならば、今のうちに織田との関係を固めておくべきでしょうか」
利政は十兵衛を見る。
「お前なら、どうする?」
「私は……」
十兵衛は少し考えた。
「織田家とは敵対せず、しかし近づきすぎぬことが肝要かと」
「理由は?」
「信長殿が、これからどのような当主になられるか。まだ誰にも分かりませぬ」
十兵衛は続ける。
「ですが、あの方がただの凡庸な当主ではないことだけは確かです」
利政は満足そうに頷いた。
「その通りだ」
そして、静かに告げる。
「織田信長という男を、これからよく見ておけ」
「はっ」
「敵になるか、味方になるか。それを決めるのはまだ早い」
利政は前を向いた。
「だが――」
一瞬だけ、その表情から笑みが消える。
「いずれ、美濃の行く末を左右する男になるやもしれぬ」
十兵衛はその言葉を胸に刻んだ。
歴史が、少しずつ動き始めている。
かつて自分が知っていた歴史とは、違う形で。
そしてその中心には――
織田信長がいる。
十兵衛は、静かに拳を握った。




