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第6件 嘘をつけない証人



 カノールが見た、と人は言った。カノールは嘘をつけない。だから本当だ、と。


 カノールが何を見たのかを、誰も訊いていなかった。


第1項 事案と争点


 本件は、王国歴1658年、ある王都における、不貞を理由とする婚約解消の裁定である。王都の名は、証人の求めにより記さない。証人は、自分の言葉がこれ以上遠くへ運ばれることを望まなかった。


 羊毛商バルト家の長男ディルク・バルトと、騎士家シュタルク家の娘ヘレナ・シュタルクとの婚約が、バルト家の側から解かれた。理由は、ヘレナの不貞である。その証しとして挙げられたのは、公定秤場の量り手であるカノール、ロイクの目撃であった。ロイクは、白霜の月のある夕暮れ、ヘレナが男と宿の二階へ上がるのを見た、と隣人に語った。この言葉は、カノールが見たのだから確かだ、という形で王都に広まった。


 争点は三つ。


 証人が見たことは、何であったか。


 証人の言葉と、王都に広まった言葉とは、同じものか。


 バルト家の解消は、不行跡を理由とするものとして成り立つか。成り立たぬなら、清算はどうなるか。


 なお、ヘレナがディルクを愛していたか、ディルクがヘレナを愛していたかは、争点に含まれない。双方とも、その点の判断を求めていない。


第2項 成立した約定と、証言の記録


 一、婚約証書の抄。


 王国歴1657年 実りの月 4の日、バルト家とシュタルク家、婚約を定む。


 バルト家は、婚約の印として銀貨二百枚をシュタルク家に渡す。縁を解くときは、いずれの側の願いによるかを問わず、これをバルト家に返す。


 縁を解きたる側は、相手方が婚礼の支度に費やしたる銭を負う。ただし、相手方の重大な不行跡を理由に解きたるときは、この限りにあらず。


 末尾に、両家当主の署名と家印がある。婚約の印の受取書に、シュタルク家の家印がある。


 二、ロイクが隣人に語った言葉。


 ロイクの隣人、油屋の女房が、法廷に提出した書き付けの抄。ロイクの言葉を聞いた翌日に、自分で書き留めたものだという。


 「白霜の月6の日の夕暮れ、鶴の宿の前で、シュタルクの嬢さんが男と宿に入り、二階へ上がるのを見た」


 三、王都に広まった言葉。


 バルト家がシュタルク家に送った解消の書に、次のようにある。


 「ご息女は、白霜の月6の日の夜、鶴の宿の二階の部屋に男と入り、夜半まで出て来なかった。これを見たのは天秤の民であり、天秤の民は偽りを言わぬ」


 編者注。隣人の書き付けにあるのは、宿に入り、二階へ上がるのを見た、である。解消の書にあるのは、部屋に入り、夜半まで出て来なかった、である。二つのあいだで、部屋と、夜半とが、加わっている。


 四、鶴の宿の宿帳の抄。


 白霜の月6の日。二階小部屋。質屋メール。市の日の常。夕暮れより宵まで。


 編者注。鶴の宿の宿帳によれば、質屋ヨスト・メールは、十日ごとの市の日に二階の小部屋を借り、そこで質を取る商いをしている。宿の主人の陳述書によれば、質屋は市の日の夕暮れに帳箱を抱えて来て、客を一人ずつ二階に通し、宵の鐘の前に帰る。


 五、質屋の帳の抄。


 白霜の月6の日。ヘレナ・シュタルク。銀の首飾り、青い石七つ。三百二十枚にて預かる。請け出しの期限、二年。本人の署名あり。


 六、穀物商の受取書。


 白霜の月7の日。シュタルク家より、貸麦の代として銀貨三百枚を受領。穀物商の署名と印あり。


 編者注。シュタルク家の当主、すなわちヘレナの父は、前の年の不作の折に穀物商から麦を借りていた。この受取書は、その借りを娘が首飾りで払ったことを示す。首飾りは母の形見で、婚約証書の持参財の目録には載っていない。


第3項 解消と申し立ての経緯


 白霜の月7の日、油屋の女房が、市でロイクの言葉を人に話した。同じ日の夕方までに、言葉はバルト家に届いた。バルト家の家令の日録に「ロイク殿がシュタルク家の娘御の不貞を見たとの由」とある。


 白霜の月9の日、バルト家はシュタルク家に解消の書を送った。不貞を理由とし、婚約の印二百枚の返還と、婚礼の支度に費やした百枚の弁済を求めた。


 白霜の月12の日、シュタルク家は、不貞の事実を否み、ロイクに直に問い質すことを求めた。バルト家は、天秤の民に問い質すまでもない、と答えた。


 シュタルク家は王都の裁き所に訴えた。裁き所は、証人ロイクを呼ばず、天秤の民の言葉は真であるとして、バルト家の解消を不行跡によるものと認めた。


 聖燭の月2の日、シュタルク家は欽定緑律教団の神前法廷に訴え出た。訴状は、証人が語った言葉と、解消の書に記された言葉とが異なること、裁き所が証人を呼ばなかったことを挙げている。


第4項 双方の申し立て


 一、シュタルク家の申し立て。


 ヘレナは白霜の月6の日の夕暮れ、鶴の宿の二階で質屋に首飾りを預けた。質屋の帳と穀物商の受取書がそれを示す。宿の二階へ上がったのは事実で、男と上がったのも事実である。男は質屋であり、二階は質屋の商いの場である。


 不貞はない。ゆえに解消は不行跡によるものではなく、バルト家の一方の願いによるものである。証書の定めにより、婚約の印は返すが、シュタルク家が婚礼の支度に費やした八十枚は、バルト家が負うべきである。


 あわせて、裁定書に、不貞は示されなかった旨を記すことを求める。娘の名のためである。


 二、バルト家の申し立て。


 カノールのロイクが、ヘレナが男と宿の二階へ上がるのを見た。天秤の民は偽りを言わない。ゆえにこれは事実である。


 宿の二階に男と上がることは、嫁ぐ前の娘の行いとして、それだけで不行跡である。質屋であったというのは、後から付けた言い訳である。


 求めるのは、婚約の印二百枚の返還と、支度の費え百枚である。


 三、ヘレナ・シュタルクの陳述書の抄。


 「父の借りを、婚礼の前に済ませておきたかったのです。バルトの家に、借りのある家の娘を迎えさせたくなかった。母の首飾りは私のもので、持参財の目録には入れておりません。ですから、私の一存で預けました。


 質屋のところへ行ったことを、誰にも言わなかったのは、父に知られたくなかったからです。父は、首飾りを売るなら自分の剣を売ると言うに決まっておりました。


 ロイク殿が見たことは、そのとおりです。私は男と宿の二階へ上がりました。ロイク殿は、私が何をしに上がったかは、見ておりません。見ていないことを、ロイク殿は言っておりません」


第5項 神前審理の抄


 聖燭の月16の日、王都の教団広場にて開廷。


 裁定者ネル、原告たるシュタルク家当主、被告たるバルト家当主は、白き貫頭衣を着し、欽定緑律の法のもとに立った。三者の手に緑の茨の証が現れたことを、法廷日録は記している。証人として、カノールのロイク、油屋の女房、質屋ヨスト・メール、鶴の宿の主人が立った。


 裁定者、ロイクに問う。


 「白霜の月6の日の夕暮れ、何を見たか」


 答え。


 「鶴の宿の前を通りました。ヘレナ・シュタルク殿が、男と一緒に宿の戸を入り、二階への階段を上がるのを見ました」


 「男は誰か」


 「知りません。帳箱を抱えていました」


 「二人が部屋に入るのを見たか」


 「見ていません。階段の途中までです」


 「夜半まで出て来なかったことを、見たか」


 「見ていません。私はそのまま家に帰りました」


 「隣人に、何と言ったか」


 「いま申したとおりに言いました。宿に入り、二階へ上がるのを見た、と」


 「隣人が、それを人にどう伝えたかを、知っているか」


 「知りません。私が言ったことは私の言葉で、隣人が言ったことは隣人の言葉です」


 「なぜ隣人に言ったか」


 ロイク、しばらく答えず。その後、答える。


 「訊かれたからです。今日、市で何か見なかったか、と。私は見たものを答えました。答えるべきでなかったかもしれません。ですが、見たものを見なかったと言うことは、私にはできません」


 裁定者、油屋の女房に問う。


 「ロイクの言葉を、そのとおりに人に伝えたか」


 答え。


 「そのつもりでした。ですが、宿の二階に男と上がった、と言えば、誰でもその先を思います。私も思いました。思ったことを、口にしたかもしれません」


 裁定者、質屋メールに問う。


 「白霜の月6の日の夕暮れ、鶴の宿の二階で、ヘレナ・シュタルクから首飾りを預かったか」


 答え。


 「預かりました。帳にあるとおりです。嬢さんは階段を上がって、帳箱の前に座って、首飾りを出して、三百二十枚を受け取って、署名して、下りました。小半刻もかかっておりません」


 「そのあいだ、部屋に二人きりであったか」


 「私の手代が帳箱の脇におりました。質屋は二人きりで商いをしません。銭のことですから」


 裁定者、宿の主人に問う。


 「白霜の月6の日、二階の小部屋を質屋に貸したか」


 答え。


 「市の日は毎度貸しております。宿帳にあるとおりです」


 裁定者、被告に問う。


 「証人ロイクは、宿に入り二階へ上がるのを見たと言った。部屋に入るのも、夜半まで出て来なかったのも、見ていないと言った。解消の書に、部屋と夜半とを書いたのは誰か」


 答え。


 「当家の家令です。市で聞いたとおりに書きました」


 「市で聞いた言葉は、ロイクの言葉か」


 「天秤の民が見たと聞きました。天秤の民は偽りを言いません」


 「偽りを言わぬ者の言葉に、偽りを言わぬ者が言っていないことを加えたのは、誰か」


 被告、答えず。


 裁定者、続けて問う。


 「解消の前に、ロイク本人に問い質したか」


 「問い質しておりません。問い質すまでもないと考えました」


 「問い質すまでもない、と考えたのは、ロイクの言葉を信じたからか、ロイクの言葉を確かめたくなかったからか」


 被告、しばらく答えず。その後、確かめるべきでした、と述べる。


 裁定者、双方に問う。


 「証人が見たのは、宿に入り二階へ上がるまでである。二階には質屋の商いがあり、その帳がある。解消の書に記された、部屋と夜半とは、証人の言葉にない。この三つについて、異議はあるか」


 被告、なし。原告、なし。


第6項 裁定


 聖燭の月19の日、裁定書を交付す。主文ならびに理由の要部を写す。


 一、証人ロイクの証言は、ヘレナ・シュタルクが白霜の月6の日の夕暮れ、鶴の宿に男と入り、二階へ上がるのを見た、というものである。証言はそこで終わる。証人は、部屋に入るのを見ておらず、夜半まで出て来なかったことも見ていない。証人はそのとおりに述べ、法廷はそのとおりに認める。


 一、王都に広まり、解消の書に記された言葉は、証人の証言に、部屋と夜半とを加えたものである。加えたのは証人ではない。天秤の民が偽りを言わぬことは、天秤の民の言葉に他の者が加えた言葉までを真にしない。カノールの証言の確かさは、その証言の範囲においてのみ確かである。


 一、ヘレナ・シュタルクが二階へ上がった先には、質屋の商いがあった。質屋の帳、宿帳、質屋と手代の証言、穀物商の受取書は、いずれも同じ日と同じ事柄を示す。不貞は、いかなる証しによっても示されていない。


 一、よって、バルト家の解消は、相手方の重大な不行跡を理由とするものとして成り立たない。解消は、バルト家の一方の願いによるものである。婚約証書の定めにより、婚約の印二百枚はシュタルク家よりバルト家に返し、シュタルク家が婚礼の支度に費やした八十枚は、バルト家が負う。差し引き、シュタルク家はバルト家に百二十枚を払うべし。バルト家の求めた支度の費え百枚は、認めない。


 一、原告の求めにより記す。本件において、ヘレナ・シュタルクの不貞は示されなかった。名の律により、示されなかったことを示されたものとして人の名に付すことを、法廷は認めない。この一条は、原告の求めに応じ、教団広場に十日のあいだ掲げる。


 一、王都の裁き所が証人を呼ばずに証言の中身を認めたことは、手続きを踏まぬものであった。この裁きを、本件を終える裁きとして認めない。


 一、これは、証言の範囲と、解消の理由の有無とを確かめた裁定であり、ヘレナ・シュタルクが父の借りを娘の首飾りで払ったことの是非を量ったものではない。


第7項 履行の記録


 本件の履行には、私が検分人として立ち会った。着任して間もないころの案件である。以下は私の控えによる。


 聖燭の月24の日、教団の詰所にて、シュタルク家よりバルト家に銀貨百二十枚。受取書あり。バルト家の家令が受け取りに来た。当主は来なかった。


 同じ日より十日のあいだ、教団広場の掲示板に、裁定書の第五の一条を掲げる。私は初日と最終日に掲示を確かめた。初日、掲示の前に人だかりがあった。最終日、なかった。


 油屋の女房は、掲示の初日に、掲示を写して自分の店の戸に貼った。頼まれたわけではない、と本人が言った。私はこれを控えに書いたが、履行の一部ではない。


 王国歴1660年 白霜の月 6の日、質屋メールの帳に、ヘレナ・シュタルクの首飾りの請け出しの記載がある。三百二十枚と、二年の利。払ったのはヘレナ本人で、その二年、公定秤場の帳付けとして働いた賃金による。秤場の帳にその名がある。帳付けに雇ったのは、量り手ロイクである。


 ヘレナ・シュタルクは、王国歴1664年の春の時点で、婚姻していない。秤場に勤めている。


 ディルク・バルトは、王国歴1659年、王都の別の商家の娘と婚姻した。


第8項 編者考


 この案件を、カノールの証言で娘が不貞にされた話、と紹介する者がいる。違う。カノールの証言は、娘を不貞にしていない。カノールの証言に人が付け足した言葉が、娘を不貞にした。付け足した者は、油屋の女房と、バルト家の家令と、それを聞いた王都の人たちで、誰も嘘をついたつもりはなかったと思う。宿の二階に男と上がった、と聞けば、誰でもその先を思う。油屋の女房は法廷でそう言った。正直な言葉だと思う。


 私は、この案件の前の年に検分人になった。師の書庫を出て間もない私には、師の言葉がまだ耳に残っていた。嘘をつけぬことと、他人の胸の内を知ることとは、別の性質である。この案件では、その言葉の続きを見た。嘘をつけぬ者の言葉は、その者が見たところまでしか届かない。その先を届けるのは、嘘をつける者たちである。


 ロイクは、法廷で、答えるべきでなかったかもしれない、と言った。私はそうは思わない。訊かれて見たものを答えることは、悪いことではない。悪かったのは、答えの先を訊かなかったことである。バルト家は、ロイクに何を見たかを訊く前に、解消の書を書いた。訊けば、階段の途中までです、と答えたはずの人が、同じ王都にいた。


 首飾りは二年で戻った。戻したのは、秤場の帳付けの賃金で、雇ったのはロイクである。私は秤場の帳にその名があるのを見て、控えに書いた。裁定に要らない。だが、名を削られた者が次の帳面にどのような名で載ったかを追うのが、この本の決まりである。載っていたのは、帳付けの名だった。


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