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第4件 母が誓い、娘が逃げた


 誓ったのは母である。逃げたのは娘である。


 法廷が問われたのは、母の誓いが、娘のどこまでを縛るかであった。


第1項 事案と争点


 本件は、王国歴1660年、サルメア公領の丘陵、ファルネ村における、幼時に結ばれた縁組みの履行をめぐる裁定である。


 寡婦ロージア・ファルネは、王国歴1647年、当時三つであった娘ビアンカを、隣家コルヴィ家の長男エンツォ(当時六つ)に嫁がせる旨を誓い、その持参財として葡萄畑一つを約した。十二年ののち、ビアンカは承けの署名を拒み、村を出た。コルヴィ家は、縁組みの履行、それが成らぬときは葡萄畑の引き渡しと、十二年のあいだの損害の弁済を求めた。


 争点は三つ。


 母の誓いは、娘の婚姻への同意に代わるか。


 母が娘の名代として署名した承け書は、有効か。


 縁が成らぬとき、約された葡萄畑と、コルヴィ家が畑に費やした手間は、どう清算されるか。


 なお、ビアンカが誰かを愛していたか、エンツォがビアンカを望んでいたかは、争点に含まれない。双方とも、その点の判断を求めていない。


第2項 地の法と、成立した約定


 一、サルメア公領の婚姻の定めの抄。


 本件にかかわる公領の定めは、次の二条である。


 子の縁組みは、親が結ぶことを妨げず。ただし、婚の約は、本人が十五に達したる年のうちに、本人の名にて承け書に署名することをもって成る。


 財の約は、約したる者の署名をもって成り、名代の署名を妨げず。


 編者注。公領では、幼い子の縁組みを「揺り籠の約」と呼び、丘の村々では珍しくない。承け書は、その約を本人が受け入れる印であり、公領の定めは、婚の約と財の約とを、署名する者の違いによって分けている。この二条は公領の法であり、王国のほかの土地の法ではない。


 二、誓約書の抄。


 王国歴1647年 実りの月 9の日、ロージア・ファルネ、娘ビアンカを、コルヴィ家長男エンツォに嫁がせることを誓う。


 持参財として、ファルネ家の南の葡萄畑(畝四十列)を、婚姻の儀の日に、コルヴィ家に引き渡す。


 引き渡しの日まで、畑の手入れはコルヴィ家がこれを行い、収穫の半ばをその手間の代とし、半ばをファルネ家のものとす。


 末尾に、ロージアの署名と、コルヴィ家当主マッテオの署名、村長の立会印がある。


 三、承け書。


 王国歴1659年 実りの月 20の日付の承け書がある。署名欄には「ビアンカ・ファルネ 名代 母ロージア」とある。本人の署名はない。


 四、畑の帳。


 コルヴィ家の畑の帳によれば、王国歴1647年から1659年までの十二年、南の畑の収穫は年に葡萄酒にして十二樽から二十二樽で、その半ばがコルヴィ家に、半ばがファルネ家に渡された。双方の帳の数は一致する。


 王国歴1652年、コルヴィ家は畑の北の畝十列を古い株から新しい株に植え替えた。挿し木と支柱の代は銀貨六十枚で、コルヴィ家の出納控えに受取書が綴じてある。植え替えについて、ファルネ家の承諾を示す書はない。


第3項 娘の出奔と申し立ての経緯


 王国歴1659年、ビアンカは十五になった。公領の定めにより、承け書に署名すべき年である。


 実りの月15の日、コルヴィ家は承け書を持ってファルネ家を訪ねた。ビアンカは署名を拒んだ。同じ日の村長の覚え書きに、次のようにある。


 「娘は、私はその約を知らなかった、と言う。母は、知らせなかったのは私だ、と言う。コルヴィの当主は、知る知らぬにかかわらず約は約だ、と言う」


 実りの月20の日、ロージアは、娘の名代として承け書に署名した。コルヴィ家はこれを受け取った。


 実りの月23の日、ビアンカは村を出た。行き先は後に、マハルーナの門前町と分かった。巡礼宿の下働きをしている。


 コルヴィ家は、王国歴1660年 芽吹きの月 4の日、サルメアの公領裁き所に訴えた。裁き所は、承け書の名代署名について、公領の定めが名代を認めるのは財の約に限る、と述べたうえで、婚の約が成っていない以上、畑の引き渡しの条件も成っていないとして、コルヴィ家の訴えを退けた。


 コルヴィ家は、公領の定めが丘の村々の習わしに背くとして、芽吹きの月21の日、欽定緑律教団の神前法廷に訴え出た。


第4項 双方の申し立て


 一、コルヴィ家の申し立て。


 揺り籠の約は、丘の村々で二百年続いた習わしである。親が結んだ約を、子が十五になって覆せるなら、約は約でない。


 承け書の名代署名は、娘が署名を拒んだために母がなしたものであり、娘の不在のときは親が名代となる習わしがある。


 十二年、畑を手入れした。植え替えもした。それは、この畑がやがて当家のものになるからである。縁が成らぬなら、畑は当家に渡されるべきであり、渡されぬなら、十二年の手間と、当家の長男が他の縁を待ったことの損害として、銀貨四百枚を求める。


 二、ロージア・ファルネの申し立て。


 誓ったことは認める。娘に知らせなかったことも認める。名代として署名したことも認める。


 だが、娘が村を出た以上、婚姻は成らない。畑を渡すのは婚姻の日と誓約書にある。婚姻がないなら、畑は渡さない。


 十二年の手間については、収穫の半ばがその代であると誓約書にある。すでに払われている。


 三、ビアンカ・ファルネの陳述書の抄。


 マハルーナの教団の証人の面前で書かれ、封をして法廷に届いた。


 「三つのときのことを、私は覚えておりません。母が誓ったことを、私は十五になるまで聞かされておりませんでした。


 エンツォに恨みはありません。コルヴィのおじさまにも、畑の手入れをしてくださったことについては、感謝しております。


 ただ、私は一度も、誰にも、嫁ぐと約しておりません。約していないことを、約したことにされるのが、恐ろしくて、村を出ました。


 法廷に出向くことはいたしません。出向けば、承け書に署名させられると思うからです。この陳述書に、私の名で署名いたします。私の名を、私以外の者が書くことは、これからはお断りいたします」


 四、エンツォ・コルヴィの陳述書の抄。


 「私も、六つのときのことは覚えておりません。ビアンカが逃げたと聞いたとき、驚きましたが、腹は立ちませんでした。


 畑のことは父の言うとおりです。植え替えは、私がやりました。


 ビアンカが戻らないなら、私は別の縁を探します。父はまだ、畑と言っております」


 編者注。コルヴィ家の申し立てと長男の陳述書は、同じ日に提出された。第2件と同じく、同じ家から出た二通が食い違っている。この本を編みながら気づいたことだが、家の申し立てと本人の陳述が食い違う案件は、珍しくない。家は財を言い、本人は別のことを言う。


第5項 神前審理の抄


 花冠の月12の日、サルメアの教団広場にて開廷。


 裁定者オルタ、原告たるコルヴィ家当主マッテオ、被告ロージア・ファルネは、白き貫頭衣を着し、欽定緑律の法のもとに立った。三者の手に緑の茨の証が現れたことを、法廷日録は記している。ビアンカは出廷せず、陳述書が読み上げられた。


 裁定者、原告に問う。


 「揺り籠の約において、本人が十五の年に承け書に署名する、という公領の定めを、原告は知っていたか」


 答え。


 「知っておりました。丘の村では、誰でも署名します。拒む者はおりません」


 「拒む者がいなかったことと、拒めないこととは、同じか」


 「習わしでは同じです」


 「習わしが定めに勝るか」


 原告、しばらく答えず。その後、丘ではそうです、と述べる。


 裁定者、続けて問う。


 「承け書に、ビアンカ・ファルネの名を書いたのは誰か」


 「母親です」


 「ビアンカ本人は、その日、どこにいたか」


 「家におりました。奥の部屋に」


 「家にいる者の名を、不在のときの名代として、母が書いた。それが原告の言う習わしか」


 原告、答えず。


 裁定者、被告に問う。


 「娘の名で、娘の承けを書いたとき、娘が承けていないことを知っていたか」


 答え。


 「知っておりました」


 「なぜ書いたか」


 「コルヴィの家には、亭主が死んだ年から、世話になりました。畑も、あの家が手入れをしなければ荒れておりました。誓ったのは私で、破るのも私では、村にいられません」


 「娘が承けていないと知って書いた名は、娘の名か、あなたの名か」


 被告、しばらく答えず。その後、私の名です、と述べる。


 裁定者、原告に、畑について問う。


 「誓約書によれば、手入れの代は収穫の半ばである。十二年、半ばを受け取ったか」


 「受け取りました」


 「では、手入れの代は払われている。植え替えについては、ファルネ家の承諾を得たか」


 「得ておりません。やがて当家の畑になるのですから、承諾は要らぬと考えました」


 「やがて当家の畑になる、という条件は、何であったか」


 「婚姻の儀です」


 「儀は成ったか」


 「成っておりません」


 裁定者、双方に問う。


 「婚の約は本人の署名を要し、本人は署名せず、名代の署名は本人の不在を偽ってなされた。畑の引き渡しは婚姻の儀を条件とし、儀は成っていない。手入れの代は収穫の半ばとして払われた。この三つについて、異議はあるか」


 被告、なし。原告、植え替えの六十枚は払われていない、と述べる。裁定者、それは裁定において検める、と告げる。


第6項 裁定


 花冠の月15の日、裁定書を交付す。主文ならびに理由の要部を写す。


 一、公領の定めは、婚の約を本人の署名をもって成るものとし、財の約を約したる者の署名をもって成るものとする。この分け方は、根源八法のうち、名の律と座の律にかなう。婚姻は本人の座にかかわり、本人の名をもってのみ承けうる。財は約したる者の座にかかわり、約したる者の名をもって成る。丘の習わしがこれと異なるとしても、習わしは定めに勝らず、定めは律に背いていない。


 一、ロージア・ファルネが娘の名代として承け書に記した署名は、本人が家におり、承けを拒んでいることを知りながら、本人の名を書いたものである。これは名代ではなく、他者の名の僭用であり、名の律に背く。承け書は無効である。


 一、ゆえに、ビアンカ・ファルネとエンツォ・コルヴィとの婚の約は、成っていない。法廷は、成っていない婚姻を成らせることを命じない。


 一、南の葡萄畑の引き渡しは、婚姻の儀を条件とする。条件は成らず、畑はファルネ家に留まる。


 一、十二年の手入れの代は、誓約書の定めにより収穫の半ばをもって払われており、別途の弁済を要しない。原告が求めた長男の待ちの損害については、待つことを約した書がなく、認めない。


 一、王国歴1652年の植え替えは、ファルネ家の承諾なくなされたが、その利益は畑に留まり、ファルネ家がこれを受けている。均の律により、ファルネ家は植え替えの代銀貨六十枚をコルヴィ家に払うべし。


 一、ロージア・ファルネの誓約書は、母の財についての約として有効であったが、その条件たる婚姻が成らぬことにより、履行を要しない。母の誓いは母の財を縛る。娘の座を縛らない。


 一、これは、幼時の縁組みの効の範囲と、畑にかかわる清算の裁定であり、ビアンカ・ファルネの出奔の是非、コルヴィ家の十二年の善意の是非を量ったものではない。


第7項 履行の記録


 本件の履行には、私が検分人として立ち会った。以下は私の控えによる。


 花冠の月28の日、ファルネ村にて、ロージア・ファルネよりコルヴィ家へ銀貨六十枚。コルヴィ家の受取書あり。ロージアは、その年のファルネ家の取り分の葡萄酒六樽を村の酒商に売ってこれを調達した。酒商の受取書あり。


 同日、南の葡萄畑を検分。畝四十列。北の十列は若い株で、支柱が新しい。残る三十列は古い株。手入れの跡あり。


 誓約書は、村長の立会いのもと、双方の面前で、婚の約にかかわる部分に線を引き、無効の旨を書き添えた。財の約にかかわる部分は、条件不成就により履行を要せぬ旨を書き添えた。双方の署名あり。


 畑の手入れについては、裁定に含まれないが、双方の合意により、翌年から三年、コルヴィ家が引き続き手入れをし、収穫の半ばを受ける旨の新しい約定が、その場で結ばれた。村長の立会印あり。この約定に、婚姻にかかわる条項はない。


 ビアンカ・ファルネは、王国歴1661年の春、マハルーナより村に戻り、母と暮らしている。村長の覚え書きによる。婚姻はしていない。


 エンツォ・コルヴィは、王国歴1662年、隣村の酒商の娘と婚姻した。婚書に、本人二人の署名がある。


第8項 編者考


 この案件を、親の決めた縁を娘が蹴った話、と紹介する者がいる。娘が蹴ったのは縁ではない。自分の名を、自分以外の者が書くことである。


 母の誓いは、無効ではなかった。裁定書もそう言っている。母は自分の財を約し、その約は母を縛った。婚姻が成らなかったから、履行を要しなくなっただけである。母の誓いが縛れなかったのは、娘の座だけで、そこは初めから母の名で縛れる場所ではなかった。丘の習わしは二百年、そこを縛れるふりをしていた。拒む者がいなかったからである。


 畑のことも書いておく。コルヴィ家は十二年、他人の畑に手をかけた。やがて自分の畑になると思っていたからで、その思いは、誓約書が与えたものである。裁定は、手間の代は収穫の半ばで払われたとし、植え替えの六十枚だけを認めた。私は畑を見て、若い株の十列が、古い株の三十列より背が高いのを見た。六十枚は、あの十列の値としては安いと思う。だが、誓約書が定めた払い方は収穫の半ばで、コルヴィ家は十二年、それを受け取り続けていた。安いと思うことと、裁定を変えることとは、別である。


 履行の日、誓約書に線を引いたのは、村長だった。線を引いたあと、村長は、丘の村で承け書に線を引いたのは初めてだ、と言った。私は控えに、その言葉を書かなかった。裁定に要らなかったからである。ここに書くのは、次に線を引く者のためである。


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