第3件 真実の愛の鑑定申立て
心が変わった、と女は言った。
変えられたのだ、と男は言った。法廷に持ち込まれたのは、その二つの言葉の、どちらが正しいかを量れという申し立てである。
第1項 事案と争点
本件は、王国歴1663年、学都ヴェレンにおける、婚約解消の効力と、精神に作用する魔導の施術をめぐる裁定である。
香辛料商カッセル家の娘リディア・カッセルと、学都の魔導学院の助手オスカー・ブレントとの婚約が、リディアの願いにより解かれた。オスカーは、リディアの心変わりは、婚約中に受けた白魔導の施術によって引き起こされたものであり、本人の意思によるものではないと主張して、解消の取り消しを求めた。あわせて、リディアの心を施術の前の状態に戻すための施術を命じるよう求めた。
争点は三つ。
リディアが受けた施術は、何を変えたと証明できるか。
その施術が、婚約を解く意思まで作り出したといえるか。
相手方の心を施術によって「戻す」ことを、法廷が命じうるか。
なお、施術を行った治療師の資格と、施術が機構の規程の内にあったことは、審理の前に機構の照会によって確認されており、争点に含まれない。
第2項 成立した約定と施術の記録
一、婚約証書の抄。
王国歴1662年 花冠の月 18の日、カッセル家とブレント家、婚約を定む。
婚姻の儀は、翌年の青葉の月とす。
本人いずれかの願いにより縁を解かんとするときは、その旨を書に記し、相手方および両家に示すべし。相手方の承諾を要せず。ただし、婚約の印として交わしたる品は、互いに返すべし。
末尾に、両家当主と本人二人の署名がある。
編者注。相手方の承諾を要せず、という一条は、学都の商家の婚約証書に近年多く見られる。両家が示談で定めた条項であり、国の法ではない。本件でこの一条の効力そのものは争われていない。
二、婚約の印の受取書。
オスカーよりリディアへ、銀の指輪一。リディアよりオスカーへ、学院の紋を刺した襟布一。いずれも受取書がある。
三、施術記録の抄。
人類魔導管理統一機構ヴェレン監理局に届け出のある白魔導治療師ヨハンナ・メルクの施術帳より、リディア・カッセルにかかわる記載を写す。
王国歴1662年 白霜の月 8の日。求め、不眠。施術、鎮静。頭に手を置き、眠りを促す術式一回。刻限、小半刻。当夜の眠りを得たと翌日に本人より聞く。
白霜の月15の日。同じ求め。同じ施術。
白霜の月22の日。同じ求め。同じ施術。以後、求めなし。
施術帳には、いずれの回にも、術式の名、機構の許可番号、本人の同意の署名が付いている。
編者注。鎮静の術式は、機構の分類において精神に作用する白魔導の初歩にあたり、眠りを促し、心の波立ちを鎮めるものとされる。記憶や好悪を書き換える術式ではない、と機構の照会状は述べている。ただし、この照会状は術式の定めを述べたものであって、リディア一人の心に何が起きたかを述べたものではない。
四、往復書簡。
リディアがダレに嫁いだ姉に宛てた書簡が、姉の側から法廷に提出された。日付のある七通のうち、争点にかかわる三通を抄する。
刈入れの月30の日。「オスカー様は良い方です。でも私は、あの方の話す魔導のことが、半分も分かりません。分からないまま一生を過ごすのかと思うと、夜、眠れなくなります」
白霜の月24の日。「治療師のメルク様のところへ三度通いました。よく眠れるようになりました。眠れるようになると、昼に考える時間ができて、それが良いのか悪いのか、分かりません」
聖燭の月12の日。「決めました。芽吹きの月に、家に話します」
オスカーからリディアへの書簡も、リディアの側から提出された。日付のある四通は、いずれも施術より前のもので、学院の仕事と、婚礼の日取りの相談である。心変わりを疑う言葉は、この四通にはない。
第3項 婚約の解消と申し立ての経緯
王国歴1663年 芽吹きの月 9の日、リディアは、婚約証書の定めに従い、縁を解く旨の書を両家とオスカーに示した。書には、理由として「私の心が、この縁に向いていないことが分かったため」とある。カッセル家は当日、書に家印を置いた。
芽吹きの月11の日、オスカーは書を返した。要旨を写す。
「リディア殿の心は、白霜の月の施術の前と後で、別のものになっている。施術の前、あの方は私を愛していた。施術の後、あの方は私を愛さなくなった。これは心変わりではなく、術によって心を変えられたのである。変えられた心でなした解消は、あの方の意思ではない。私は、あの方の真の意思を守るために、この解消を認めない」
オスカーは学都の裁き所に、解消の無効を訴えた。裁き所は、婚約証書が本人の願いによる解消を認めており、書式に欠けるところもないとして、訴えを退けた。愛の真偽については、裁き所の量るところではない、と付した。
芽吹きの月20の日、オスカーは欽定緑律教団の神前法廷に訴え出た。訴状は、施術によって作られた意思による解消は契の律にかなわず、施術以前の意思を回復することが座の律にかなう、と述べる。
第4項 双方の申し立て
一、オスカー・ブレントの申し立て。
施術の前、リディアは自分を愛していた。施術の後、愛さなくなった。二つのあいだにあったのは、施術だけである。ゆえに施術が心を変えた。
治療師に悪意があったとは言わない。だが、鎮静の術が、眠りとともに、自分への思いも鎮めてしまったのだと考える。
求めるのは、解消の取り消しと、リディアの心を施術の前の状態に戻すための施術である。施術は、機構の許可を得た治療師が行えばよい。自分は魔導学院の助手であり、術式の選び方について、法廷に助言する用意がある。
二、リディア・カッセルの申し立て。
施術を受けたことは認める。施術で眠れるようになったことも認める。
だが、縁に向いていないと思い始めたのは、施術より前である。姉への書簡がそれを示す。眠れなかったのは、そのためである。眠れるようになって、考える時間ができ、決めた。
オスカー様への思いがどうであったかを、法廷で量られることは望まない。量れるものだとも思わない。
求めるのは、解消が有効であるとの確認と、婚約の印の返し合いである。施術を受けよという求めについては、いかなる術式であれ、受けない。
三、治療師ヨハンナ・メルクの陳述書の抄。
「三度とも、求めは不眠、施術は鎮静でございます。鎮静の術は眠りを促し、心の波立ちを鎮めます。人の好悪を作ることも消すことも、この術にはできません。それは私が申すのではなく、機構の分類が申すことです。
ただ、一つだけ申し添えます。よく眠った人は、眠れなかったときとは違うことを考えます。それは術のせいではなく、眠りのせいです」
第5項 神前審理の抄
花冠の月4の日、ヴェレンの教団広場にて開廷。
裁定者セリン、原告オスカー・ブレント、被告リディア・カッセルは、いずれも本人が白き貫頭衣を着し、欽定緑律の法のもとに立った。三者の手に緑の茨の証が現れたことを、法廷日録は記している。治療師メルクは証人として立った。
裁定者、治療師に問う。
「鎮静の術は、眠りを変えるか」
答え。
「変えます」
「好悪を変えるか」
「変えません。変える術式は別にあり、私はそれを許されておりません」
「眠りが変われば、考えが変わることはあるか」
「ございます。それは術ではなく、眠りの働きです」
裁定者、原告に問う。
「施術より前に、被告が縁に迷いを持っていた証しとして、刈入れの月30の日の書簡がある。これを読んだか」
答え。
「読みました」
「そこに書かれた迷いは、施術が作ったものか」
「施術の前ですから、違います」
「では、施術の前に迷いがあり、施術の後に決めた。そのあいだに施術があった。施術が迷いを決心に変えたと、何によって示すか」
「示す証文はありません。しかし、あの方の変わりようは、施術のほかに説明がつきません」
「説明がつかぬことと、施術のせいであることとは、同じか」
原告、しばらく答えず。その後、同じではありません、と述べる。
裁定者、原告に続けて問う。
「求めのうち、被告の心を施術の前の状態に戻す、とは、何をすることか」
「被告が私を愛していた状態に戻すことです」
「それは、被告の心を、いまの被告が望まぬ形に変えることか」
「いまの被告の心は、術で変えられたものです。戻すのです」
「変えられたことは、示されなかった。示されぬまま、被告の望まぬ施術を命じよというのが、求めか」
原告、答えず。
裁定者、被告に問う。
「施術より前、原告を愛していたか」
答え。
「分かりません。愛していると思っていました。分からなくなったのは、施術より前です」
「いま、原告を愛しているか」
「いいえ」
「その、いいえ、は、あなたのものか」
「私のものです。誰のものでもないなら、私のものです」
裁定者、双方に問う。
「婚約証書は本人の願いによる解消を認め、解消の書は書式を満たし、両家の印がある。施術が被告の好悪を変えたことは示されず、施術の前に被告の迷いがあったことは示された。この三つについて、異議はあるか」
被告、なし。原告、施術が変えたことは示せずとも、変えなかったことも示されていない、と述べる。
裁定者、告げる。
「示されなかったことを、示されたものとして扱う法廷ではない」
第6項 裁定
花冠の月7の日、裁定書を交付す。主文ならびに理由の要部を写す。
一、リディア・カッセルの受けた施術は、機構の分類にいう鎮静の術であり、その効は眠りを促し心の波立ちを鎮めることにある。施術がその効を生じたことは、施術帳と本人の陳述により認める。施術が本人の好悪を変えたことは、いかなる証文によっても示されていない。
一、施術より前に本人が縁への迷いを持っていたことは、刈入れの月30の日の書簡により認める。施術の後に本人が決心に至ったことは、聖燭の月12の日の書簡により認める。迷いから決心に至る過程に施術が介在したことをもって、施術が決心を作ったとはいえない。よく眠った者が考えを改めることは、術の働きではなく、眠りの働きである。
一、婚約証書は、本人いずれかの願いによる解消を、相手方の承諾を要せず認めている。解消の書は書式を満たし、両家の印がある。解消は有効である。契の律は、約したことを守ることを求めるが、本件の約定は解消の手順そのものを含んでおり、その手順に従った解消は契の律に背かない。
一、原告は、被告の心を施術の前の状態に戻す施術を求める。被告はこれを拒む。示されていない変化を前提として、本人の望まぬ施術を本人の心に加えることは、本人の座を守るのではなく、本人の座を奪うものである。座の律は、各人がその座において自らの意思を持つことを守る。原告の求めは、座の律の名を借りて座の律に背く。これを認めない。
一、婚約の印として交わした指輪と襟布は、証書の定めにより互いに返すべし。
一、原告が学院の助手として法廷に術式を助言する用意があると述べた点について、法廷は助言を求めない。
一、これは、施術の効の範囲と、解消の手順の確認であり、被告が原告を愛したか否かを量ったものではない。法廷は、それを量る秤を持たない。
第7項 履行の記録
本件の履行には、私が検分人として立ち会った。以下は私の控えによる。
花冠の月12の日、教団の詰所にて、指輪と襟布の返し合い。指輪は銀、内側に両名の頭文字あり。襟布は紺、学院の紋の刺繍あり。双方の受取書あり。
原告オスカー・ブレントは、返し合いの席で、被告に言葉をかけようとした。裁定者の付添人がこれを止め、法廷の外で申し出るよう告げた。被告は席を立ち、詰所を出た。
同じ月の20の日、機構ヴェレン監理局より法廷に、治療師メルクの施術帳の再検を終え、規程に反する点なし、との通知が届いた。
リディア・カッセルは、その年の刈入れの月、家の商いを手伝ってオルメの港へ下り、以後、ヴェレンと港とを往き来している。婚姻はしていない。カッセル家の家令によれば、本人は、まだ決めていない、と言っているという。
オスカー・ブレントは、翌年の芽吹きの月、学院の助手を辞し、リンデンの機構第4研究院に移った。学院の名簿にその記載がある。理由は名簿にない。
第8項 編者考
この案件を、魔導が心を変えたかどうかの争い、と紹介する者がいる。半分は正しい。もう半分は、変えたと示せないものを、変えたことにして相手の心に手を入れてよいか、という争いだった。裁定者は後の半分を切った。私も、後の半分のほうが重いと思う。
施術帳は正確だった。三度の施術、術式の名、刻限、同意の署名。愛の帳面は、誰も付けていない。だから法廷が読めたのは施術帳と書簡で、読めなかったのは、二人の胸の内である。読めなかったものを、読めなかったと書いた裁定を、私は良い裁定だと思う。
書庫にいたころ、師のところへ、あなたがたは嘘をつけないのだから分かるでしょう、と訊きに来る人を何人も見た。師は毎度、分からないと答えた。オスカー・ブレントは、師のところへは来なかった。代わりに法廷へ来て、分からないものを術で分かるものに変えてくれ、と言った。それは、師に訊くより、ずっと悪い訊き方だと思う。
もう一つ。被告が法廷で言った、誰のものでもないなら私のものです、という言葉を、私は控えに写して持っている。裁定書には載っていない。裁定に要らなかったからである。だが、この案件で要らなかった言葉の中で、いちばん重い言葉だと思うので、ここに置いておく。




