第04話 旅立ち
夜が明けきる前に、ティアナは屋敷を出た。
持ち出したのは、ささやかな荷だけだった。着替えが少しと、わずかな路銀。それに、旅の道中で役立つだろう小物をいくつか。豪奢なドレスも宝飾品も、もとよりティアナには無縁のものだった。貴族の身分を剥奪されても、失うものなど、ほとんどなかったのだ。
当然のように、誰も見送りには来なかった。
それでよかった。むしろ、ありがたかった。涙を見られずに済む。追い出される家とはいえ、生まれ育った場所には違いない。去り際、ほんの少しだけ、後ろ髪を引かれた。
そしてなにより――もう二度と、レグルスに会えない。その事実だけは、覚悟していたよりもずっと重く、胸の底に沈んでいた。
門をくぐる手前で、ティアナは一度だけ足を止め、屋敷の奥を振り返った。朝もやの向こう、あの森が、青い影となって横たわっている。銀の光の住まう、あの御方の居場所。
(……さようなら、レグルス)
声には、出さなかった。会いに行けば、別れがつらくなる。それ以上に――去り際にこそこそと忍び込めば、また「掟を破った」と、あの御方の周りを騒がしくしてしまうかもしれない。それは絶対に嫌だった。
だから、黙って行く。もうこれ以上、迷惑をかけないように。
ティアナは前を向き、まだ薄暗い街道へと足を踏み出した。
***
王都が背後に遠のくにつれ、空が白み、やがて朝日が街道を染めていった。
一歩ごとに、屋敷の冷たい空気が、少しずつ身体から抜けていく気がした。悲しいはずなのに、不思議と、息がしやすかった。あの家で、ずっと俯いて生きてきた。けれど、これからは違う。
(大丈夫。きっと、なんとかなる)
レグルスから授かった回復の力がある。いざとなれば逃げきるすべも、生き延びるための知恵も、この身に刻まれている。どこへ行っても、生きていけるだろう。そう思える自分が、確かにいた。
それは、あの森で過ごした日々が、ティアナにくれた最大の贈り物だった。
――そのときだった。
背後の草むらが、さわり、と揺れた。
野犬か、それとも追っ手か。ティアナは反射的に身構え、半歩、後ずさる。教えられたとおり、まずは逃げる用意を――そう思った、次の瞬間。
朝日の中を、銀色の影が、跳ねた。
「えっ……」
それは、子犬ほどの大きさの獣だった。けれど、見間違えるはずがない。さざめく鬣。星を宿した瞳。星屑を溶かしたような、あの光。
「レ、レグルス……?」
小さな銀の獣は、とん、とティアナの足元に降り立つと、得意げに胸を反らした。
「よく警戒している。いいぞ。だが、我を置いていくな」
声は、まぎれもなく、あの涼やかな響きだった。
「どうして……! だって、あなたはあの森に……それに、わたし、もう会っちゃいけない身で……!」
「たわけ。誰が、会ってはいけないと言った。我は、そんなこと認めていないぞ」
レグルスは、ふん、と鼻を鳴らした。
「それに、これは我の分身よ。本体は、変わらずあの地に在る。役目もある。歪みの報せが来れば、駆けつけねばならぬからな。――だが、この身は別だ。この身は、お前と共に行く」
ティアナは、その場に膝をついた。小さな獣を、そっと両手で抱き上げる。毛並みはやわらかく、温かい。それは、あの森で感じていた温もりだった。
「いい、の……? わたしなんかと、一緒で」
「何度も言わせるな」
レグルスの星の瞳が、まっすぐにティアナを射た。
「我が一緒にいたいと思うのは、お前だけだと。――追い出されたのなら、ちょうどよい。これからは、誰に遠慮することもなく、共にいられる」
こらえていたものが、とうとう溢れた。
ぽろぽろと、涙がこぼれ落ちる。悲しいからではなかった。あんなにつらかった別れが、別れではなくなった。ひとりで歩くのだと思っていた道の隣に、もう二度と会えないと諦めていたはずの温もりが、当たり前のような顔で寄り添っていた。
「……うんっ。一緒に、行こう。レグルス」
「うむ。よい返事だ」
小さな獣は満足げに目を細め、ひらりとティアナの肩へと飛び乗った。ちょうど、そこが定位置だと、ずっと前から決まっていたかのように、ぴたりと収まった。
「さて。まずは、当面の路銀を稼がねばなるまいな」
レグルスが、どこか世話焼きな調子で言う。
「お前の力なら、食いはぐれることもあるまい。世間は広いぞ、ティアナ。お前が必要とされる場所など、いくらでもある」
「……うん」
涙を拭い、ティアナは笑った。ここしばらく忘れていた、久しぶりの笑顔だった。それを見てレグルスも、ふ、と喉を鳴らして笑った。
朝日が二人を照らしていた。前へ続く街道は、どこまでも明るく果てがない。
実家から追い出された少女と、気ままな銀星の曜獣。
ふたりの旅は、こうして始まった。




