第02話 選定の季節
選定の朝は、よく晴れていた。
ティアナは、広間のいちばん端――柱の陰に身を寄せて、その光景を眺めていた。両親から、そこがお前の立ち位置だと指示されたから。
磨き上げられた大理石の床。壁を飾る歴代当主の肖像。アーデンフェル家の大広間は、今日というただ一日のためだけに隅々まで整えられている。
曜獣の新たな世話係となるパートナーを選定する。王国にとっても、曜獣にもっとも近しい一族にとっても、何より重い儀式が、まもなく幕を開けようとしていた。
「いいこと、ティアナ。あなたはそこで控えていなさい。この大事な儀式の邪魔をしたりしないように」
厳しく釘を刺した母ミレーユの声は、娘に向けるにしては硬すぎた。
ティアナは「はい」と小さく頷く。言われるまでもなかった。役立たずと言われてきた自分の居場所がいつだって隅であることは、誰よりも自覚している。
広間の中央には、姉のイザドラが立っている。深く胸元の開いた絹のドレス、結い上げた髪に揺れる宝石。誰の目にも、彼女こそが今日の主役だった。
イザドラの傍らには、ひとりの青年がいた。ヴァルディアの第二王子、ジークハルト。整った面差しに、生まれながらの傲りをにじませた男。イザドラが彼を見上げて、甘い声で名を呼ぶ。
「ジーク」
「ああ。今日で、すべて決まる」
曜獣のパートナーとは、生涯をかけて曜獣に仕えると誓う存在だ。見返りとして、曜獣は国を守護する。
だが、その本来の意義は徐々に廃れていった。今や彼らにとっては、パートナーという立場そのものを得ることこそが、最優先の目的となっている。
その座に就いた者は、王族と婚を結ぶ。それが、この国の古いならわしだった。つまりイザドラがパートナーに選ばれれば、彼女はそのままジークハルトの妃となる。二人にとって、この選定はただの儀式ではない。望んだ未来を手に入れるための、最後のひと押しなのだ。
やがて広間の奥の大扉が、ひとりでに開いた。
部屋中に強い風が吹き込む。星の匂いがした。
現れたのは、銀の光をまとう巨大な獣――曜獣レグルス。屋根を支える梁にも届かんばかりに身を大きくし、悠然と広間へ歩み入る。その威容に、居並ぶ者たちが一斉に頭を垂れた。
「ようこそ、銀星の御方さま」
イザドラが進み出る。声音を蜜のように甘く溶かし、上目づかいに曜獣を見上げた。胸元をことさらに見せつけるように身をかがめ、しなを作る。
「どうか、わたくしをお選びくださいませ。この生涯を、あなたさまに捧げますわ」
レグルスは、答えなかった。
星を宿した瞳が、イザドラを一瞥する。ただ、それだけだった。興も、関心も、そこには欠片もない。まるで床の染みでも見るような無関心さで、レグルスは視線を巡らせていく。
そして――その瞳が、柱の陰へほんの一瞬だけ向けられた。
顔を上げたティアナと、目が合う。
星の奥が、やわらかく和んだのをティアナは見た。誰にも気づかれぬほどの、けれど確かなぬくもり。胸が、きゅう、と締めつけられる。レグルス、と声に出しそうになるのを、ティアナは必死にこらえた。
次の瞬間には、曜獣はもう何事もなかったように身を翻していた。儀式めいた所作をいくつか残し、銀の光は再び森の奥へと去っていく。
「え?」
呆然とした声を漏らすイザドラ。広間に重い沈黙が落ちた。
「……どういうこと」
イザドラの美貌が、屈辱に歪んでいる。
「わたくしを、見向きもしなかった。あの獣、わたくしを――」
「声を抑えろ、イザドラ!」
父アルドリックが慌てて制した。だがその額にも、隠しきれぬ脂汗が浮いている。
どう見ても儀式は失敗だった。ジークハルトは舌打ちをひとつ残し、苛立ちもあらわに広間を出ていった。
ティアナは息をひそめていた。誰にも気づかれなかったはずだ。あの一瞬のまなざしも、自分が曜獣にとって特別であることも――まだ、誰も。
***
その夜、ティアナは誰にも気づかれないように森へ向かった。
「よう来た」
人の背丈ほどに身を縮めたレグルスが、うろの前で待っていた。ティアナは駆け寄り、銀の鬣に顔を埋める。
「……今日、どうしてあんなことを。姉さまを、パートナーに選ばなかったの?」
「あんなのを選ぶ気がなかったから」
あっさりと、レグルスは言ってのけた。
「あの娘も、お前の両親も、王子もな。何を企んでおるか、我はとうに見抜いておる。お前を遠ざけ、媚びへつらう者を我に据えようという、浅ましい算段も」
喉の奥で、レグルスがふと笑う。
「だが、どうでもよい。我が望むのは、初めからお前ひとりだけだ。誰が何を仕組もうと、それだけは変わらぬ。――だから、儀式は失敗に終わった。彼らの目論見が崩れた。ただ、それだけのことよ」
星の瞳が、まっすぐにティアナを映した。
「いいか、ティアナ。我は、欲しいものを欲しいと言うただけだ。お前がそれを背負う必要はない。――覚えておけ。何があっても、我はお前の味方だ」
その言葉の意味を、このときのティアナは、まだ深くは理解していなかった。
ただ、温かかった。屋敷のどこにもない、たしかな居場所が、この銀の光の中にだけある。それだけで、十分だった。
***
一方、その頃。
アーデンフェル邸の一室では、灯りを落とした密談が続いていた。
「なぜ、イザドラは選ばれなかったのか……」
アルドリックが苦々しく呟く。
曜獣レグルスが妹の方を望んでいるという言葉を何度か聞いてきた。だが、どう考えても貧相で役立たずな妹より、優秀で美しいイザドラのほうが、曜獣のパートナーにふさわしい存在。そう信じて疑わず、何度もティアナを貶めては、イザドラを持ち上げ続けてきたというのに。
この期に及んで、レグルスはイザドラを選ばなかった。
「家の面目は丸潰れだ」
「父さま」
イザドラの声は、冷たく研ぎ澄まされていた。
「あの獣、儀式の最中に、たしかに誰かを見ていましたわ。柱の、陰のほうを」
それを聞いたミレーユが息を呑む。三人の視線が、ひとつの方向へ――屋敷の奥、末娘の部屋のある側へと、吸い寄せられるように向けられた。
「……まさか、あの獣は本気で、わたくしよりもあの役立たずを選ぶというの?」
夜は、まだ明けない。




