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望は槃瓠を近くの川に向かわせる。大きな蛙が、水面から顔を出した。
「あの位置じゃ矢が届かない。跳べるか?」
蛙たちは、目をきょろきょろさせて目配せしあう。
「熱いの苦手なんでさあ。一回こっきりですぜ」
そう言って、ひときわ大きな一匹が、ばしゃりと威勢よく飛び出してきた。望は柔らかな毛並みを滑り降りると、その背を叩く。
「蝋梅を頼んだ」
忠犬は、一も二もなく頷いた。
「待ってください。俺も行きます。あなたに何かあっては困ります」
梧桐が慌てて身を乗り出す。しかし小さな蛇を抱えたままだ。望はそれを押し留めた。
「お前は重要参考人だ。ここで死なれちゃ困る」
「陽動が必要でしょう。石を詰め込んだ袋でも、気を引ければ何でもいい」
梧桐の申し出に、彼はかぶりを振った。
「二人が落ちないように支えててくれ。退却する時に槃瓠から振り落とされたら困るだろ」
矢に霊符をくくりつけながら、そう返す。すると、「陽動なら私が」と馬上ならぬ犬上から声がかかった。
望は眉根を寄せる。
「雨を降らせます。恨みは、相手の呪いのもとにもなり、自分を堕とす呪いでもある。あれほどの恨みです。一度消しても仇敵を前にすぐに復活するでしょうが、一瞬気の抜けた状態になるはず。その隙に止めてください」
そう告げて、蝋梅も半ば落ちるようにして降りてきた。そうして望を抱きしめる。ふわりと淡い花の香が、鼻をくすぐった。それがほんの僅か、緊張をほぐす。
「どうか、ご武運を」
汗に湿った指が、霊符を、矢を、弓を撫でてゆく。何ものもこれに災いをもたらさぬように。そうして、北斗を踏んで光の剣を呼ぶ。
もう冠はない。けれどその凜とした姿に、望は見惚れた。守りたい気持ちは、同じだから。
「……ああ」
返事をするやいなや、望は蛙の背に飛び乗った。
願いの雨が、天空から鳴蛇へ局地的に降り注ぐ。それに洗い流されて、呆けたように動きが止まった。
それとほぼ同時に、ためて、ためて、大蛙は中空に飛び出す。
空は月が出ている。けれどあの星からの加護を受けるのは、兄王ひとりであるべきだ。
ならば祈るべきは?
望はただ一人、唯一の人を胸に描く。
すぐには引かないはずの熱風の余韻は、ほとんど感じられなかった。どこかに霊符が仕込まれていて、そして彼女がそれを災厄として引き受けてくれているのだろう。
一回きりだ。同じことはそうできまい。何より、長引かせたくはない。
望は弓を引き絞った。狙うは目。鍛えたり硬化したりできない弱点。
安定しない足場。風の抵抗。一発勝負。ただの人の身の身体。何もかもが逆境だ。けれど。胸に護りたいものがあるから。
――神を敵に回しても我が弓を取る気概はあるか?
突然、時が凍る。
(誰だ?)
――あるのなら、
「時間がない、何でも寄越せ!」
叫ぶとほぼ同時に、手の内が熱くなる。黒かった弓は紅色に、矢は白い羽根飾りのついたものに変わっていった。しかし、それを気にしている場合ではない。
狙いを定めて矢を放つ。慌てて発された熱風をものともせず、屈することなく飛んでゆく。矢は違わず相手の目を打ち抜いた。霊符に込められた術が、文字列となって鳴蛇の体を駆け巡る。瞬間、中空に留め置いていた術が解けて二大大蛇は落ちていった。あたりに土煙が立ち昇る。
「しっかり掴まってくだせえー」
大蛙の声に、望は我に返った。興奮冷めやらぬまま、蝋梅を探す。人間の目に、本来なら夜の探索は厳しい。しかし、彼女の手にした煌めきが、すぐにその場所を教えてくれた。駆け寄って抱きかかえながら、土埃がひいてゆくのを待つ。
光の蝶たちも集まってきて、ほのかにあたりを照らした。その中心で、押さえつけられ、ぐったりしている鳴蛇がいる。
「封印します。離れて」
蝋梅は望に支えられながら近寄ろうとする。それを鈎蛇が制した。
「お嬢はあいつにとって神気の詰まったご馳走だ。近づかない方がいい。そもそも封印ってーのは、問題の先送りなんだよ。たまたまその後解決でも和解でもできればいい。でもこれは違う。憎しみを募らせて俺を殺すまで止まらない。俺亡きあと、俺の子孫を狙わないとも限らない。いや、今のこいつを見る限り、狙い続けるだろうな」
負傷して息の荒い大蛇は、目の端で玫瑰を見やる。
「俺の喧嘩だ。俺に落とし前はつけさせろ」
「わかった」
望は蝋梅を抱き上げた。そのまま踵を返す。梧桐に、玫瑰を衣で包むよう指示して、蝋梅を下ろすとその耳を塞ごうとする。しかし蝋梅は、その手を止めた。結末をしっかりと見届ける。そんな顔で。
しばらくして、ずりずりと巨体を引きずる音がして、声がかけられた。蝋梅が手元の煌めきを消すと、彼の姿はかき消えて、あとには幻のように儚い男の姿が残った。近くの木の根元に座り込んで、体を預ける。それに子蛇が擦り寄った。
「ありがとうございました」
男は、深く息を吐くとその頭に手をやる。撫でるような仕草をすると、蛇は次第に人の姿に変わっていった。梧桐が慌てて衣をかける。羽織るものをとりあえず羽織って、玫瑰は鈎蛇の前に正座した。
「治療は?」
「できるわけねえだろ。このまま安静にさせてもらうっきゃねえな」
ぷいと彼はそっぽを向いている。不機嫌というよりは、恥ずかしいとか、どうしたらいいかわからないとかで、目が合わせられないようだ。
「……怖えだろ。血も出てる。あんときゃ必死だったかもしれないけど、落ち着いたら後悔するさ。さっきの話はいいから、もう帰んな」
玫瑰は負けない。ぐいぐいと膝を前に進めた。
「嫌です。回復したら、はぐらかさないでちゃんと話を聞かせてください。母は料理を、人を喜ばせるためのものだと言ってました。それを教えてくださったのは、あなたでしょう。今だって守ってくださった。あなたは呪いだと言うけれど、何かあるはずです。昼間は取り乱してしまいましたけど、考えれば考えるほど違和感を覚えるのです」
「鈎蛇、彼女はあなたが思うよりずっと強いと思います」
横から蝋梅が助け舟を出す。彼はしばらく沈黙していたが、やがてどうにでもなれというふうに息を吐いた。
「……あんたは俺の娘だ。俺の力で人間の姿になってるが、離れると力が及ばなくなって、悪いことが起きる。恨むなら俺を恨め」
それでも言い方はぶっきらぼうだ。まだ目線を合わせようとしない。玫瑰はそれに更に近づいた。
「会話を打ち切るな! 逃げるな!」
驚くとか、固まるとか、そういう反応を予想していたのだろう。逆にぐいぐい来られて、鈎蛇は面食らう。顔を寄せる彼女を、戸惑ったようにその目に映した。
映り込んだ娘は、目を潤ませている。戸惑うこともできたはずだ。けれどこれを逃せば機を逸する。
「あなたは、本当に父なのですね?」
「……そうだよ」
「嘘、ついてないですね? 私、先の陛下の子じゃないかって言われたんですけど」
「俺の子だよ。王は一度だって手出ししなかったらしいからな。それに、期間が合わねえ」
ぼろ、と彼女の目から大粒の涙が溢れる。それでも目を離さない。拭うこともしない。
逆に鈎蛇の方が慌てた。拭おうとして、何も手元にないのに頭をかいた。
「どうして教えてくれなかったんですか」
「……人は、俺を恐れる。お前の母親くらいだ。俺の料理を教わりにくるような物好きは。――いや、お前もか」
玫瑰は目を見張った。
「やっぱり、会ってますよね。何か術を使ったんですか?」
「いやいや、人間が気安く入り浸っちゃマズいだろ」
彼はもう仕方なしに、袖で頬の涙を拭った。玫瑰は唇をぎゅっと結ぶ。その目に彼の姿を焼きつけるように、じっと瞬きもせず見つめる。その中には、畏怖などなかった。
「……ご飯が食べたいです。家族三人で。ずっと、そうしたかったんです。叶えてください」
「……わかったよ」
幼子にするように、しかしどこかおそるおそる、頭を撫でる。玫瑰はついに袖で顔を覆った。
「ありがとうな、槃瓠」
玫瑰たちから離れながら、望はその頭を撫でる。大犬は、いいえとかぶりを振って、そうして長く長く息をつく。
「私としても、叶って良かったと思っております。違う種でも、想いを交わすことができるのだとわかりましたから。もっと、より心を、言葉を交わせていたのなら」
その眼差しは、父子の方へ向けられつつ、意識は遠くにあるようだった。或いは在りし日へ。
わしゃりと、首のあたりを撫でる。すると彼は顔を上げた。
「……つまらぬことを申しました」
尻尾は垂れている。
「つまらぬことなんかじゃないよ。お前にとっては大切なことだ」
望は再び頭を撫でた。
蛙たちは、水辺で功労者の大蛙に頭から水をかけてやっている。槃瓠もそれにならった。ぷるぷると体を震わせて水滴を飛ばすのを小さな蛙たちが楽しげに浴びている。梧桐はそれを足を浸しながら眺めていた。額には、小さな蛙がちょこんと乗っている。
同じく水辺の離れたところで足を冷やしながら、望はひと息ついた。蝋梅を膝に乗せて頬を寄せる。既に祠に石はしっかり納めてきていた。あとは撤収だけ。胸に顔を埋めて、蝋梅は見上げてくる。
「殿下、先程の一撃は尋常ではありませんでした。いったい何が起きたのです? 呪いの類ではなさそうですが」
心配そうな彼女を、望は撫でた。
「俺もよくわからん。何かの力を借りたらしいが……。おそらく星の目にも、これは織り込み済みなんだろ。戻ったら問い詰める。とにかく蝋梅は休め。俺の分も引き受けただろう」
蝋梅は目を伏せた。指を、彼のそれに絡め、すり寄せる。すりすりと、感触を確かめるようなやわっこい触れ方だ。どこかくすぐったくなるような。ややあって、口を開いた。
「殿下ほどの方です。他の神が魅入られてしまってもおかしくありません」
暗がりにいるせいで、頬が染まっているのかはわからない。けれどその声音は、熱を含んでいた。望は笑みをこぼす。
「安心しろ。男の声だったから。おっさんだったな」
軽くそう返す唇を、腕の中の花は突然自分のもので塞いだ。中の気を、全部自分のもので入れ替えかねない勢いで、続ける。急速に身体の中が浄化されていく気がした。それなのに、逆に鳴蛇から浴びたものではない熱は湧き上がってくる。
「私、結構嫉妬深いんですよ。ご存知ないかもしれませんけど」
飲まれてしまいそうだ。この香に。何て甘美な。
「……はは、とんでもないご褒美だ」
僅かばかり離れて告白してきた唇を、望は今度は自ら塞ぎにいった。我慢していたのに。水で冷まそうとしていたのに。もう、自制できなくなってしまいそう。
(早くどこか休めるところに――)
望はぎゅっとぎゅっと、蝋梅を抱きしめた。




