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どれくらい時間が過ぎただろうか。玫瑰はぼんやり壁のシミを見つめていた。古びた納屋はあちこち隙間があいていて、外が暗いことだけはわかる。兵たちは時折巡回してくるものの、常駐してはいないようだった。
牢屋代わりに入れられはしたものの、彼らはこれまでのゴロツキ兵と違って乱暴に扱うことはしなかった。水と饅頭、それから灯りが用意され、外にかんぬきこそかけられたものの、縛られたりはしていない。
(逃げてもお見通しだものね)
だから妙な気は起こさない。
玫瑰は膝を抱える。奥では梧桐が柱にもたれて足を投げ出していた。気を遣ってか、話しかけてくる様子はない。
静かだ。お行儀が良すぎるくらいに。それが余計に玫瑰の心をすさぶらせた。
(どうか、母へは罪が及びませんように――)
廟の方角へ、彼女はひたすらに祈る。
しばらくして複数の足音が近づいてきた。こちらです、と案内する声も聞こえる。かんぬきが外される音がして、扉が開いた。玫瑰は慌てて膝を下ろす。
入ってきたのはこの旅の主。粗末な衣から着替えていないが、ひと目でそれが相応しくないとわかる。白磁の肌は、大切に温室で育てられた花のみに許されるものだ。晴空がかった銀糸のような髪が、灯りを映して夕陽のように色づいている。
すぐ後ろには、彼女の夫だと名乗った青年が控えていた。兵の格好をしていても、年頃の娘たちが黄色い声を上げるのも頷ける、端正な顔立ちは変わらない。先王陛下と似ておられるのだろうか。そんなふうに眺めていると、白魚の指がひらひら視界を遮るように揺れた。
「蝋梅さま」
「ちょっと話をしてもいい?」
彼女は躊躇いもなく玫瑰の横に腰掛ける。慌てて手巾を取り出して下に敷こうとするが、なぜと言わんばかりに首を傾げた。
外で待ってると告げる声と共に、王弟の姿は消える。蝋梅はその背に微笑んだ。
ここにいるのは、結果的に彼女を陥れようとした危険人物二人。それなのに。何でもないかのように、彼女は小さな包みを渡してくる。
玫瑰は、幾分躊躇いながらも、礼を言って受け取った。中からはころりと小さな緑豆糕が出てきた。ひと口含むと、懐かしい味がほんのり広がる。それに涙が出そうになった。
「もう食べられないかと思ってました」
蝋梅は視線を痛んだ壁に移す。
「どうして、あなたは女官に?」
「聞いてどうするんです」
「聞いてみたかったから」
薄墨衣の女官は、ぽかんと口が開いたままになった。あまりにも直球。深謀遠慮の必要な宮殿で、あの星守の塔にいる花々は、それとは無縁。だからこんなふうに、いとも簡単に騙されてしまう。こぼれそうになるため息を、すんでのところで飲み込んだ。
「じゃあ、このお菓子のお代ってことで」
星守見習いは、包みを示す。いつの間にか菓子は全て腹の中。
(まあ、もう話すこともなくなるだろうし)
諦めの境地で、玫瑰は水で喉を潤した。扉は開け放たれたままだが、青年や兵の姿は見えない。気休め程度にそれを確かめて、彼女は口を開いた。
「……小さい頃、私は他と違うんだって気づいたんです。いるべきはずの人が、一人いない。母は好きでしたが、その人のことを少しも口にしないのは、そして家の中にひとつとしてその痕跡がないのは、だんだんと違和感を覚えて。ついに素知らぬふりして聞いてみたのです。私のお父さまは、って。母は、何も言わずにただ私の顔をよく覗き込んで、頭をなでました。その時、子ども心に察したのです。父のことは禁句なのだと。だからそれ以来、口をつぐみました。他の家の両親の話を聞くたびに、胸がきゅっと苦しくなるのは治らなかったのですが」
話しながら玫瑰は、包みを一回、二回と折ってゆく。
「そうしてある時、街で耳にしたのです。うちの店が、陛下からの援助があってできたこと、そんな畏れ多い縁ができたのは、母が後宮で贔屓にされていたからだってことを。あの娘さんはそれじゃあって言われた時、息が止まりそうでした。そんなこと、考えもしなかった」
小さく畳まれた包みを、手の中で握り込んだ。柔らかなそれは、傷つけることなく手になじむ。
「私は、父に会ってみたかったのです。父を知らぬままいたくなかったから。とはいえ、陛下にお目通りできるほどの身分ではありません。先王陛下の気をひけるようにと声がかかった時には、一も二もなく飛びつきました。けれど、先王陛下は寵姫の元にしか通われませんでした。遠い宮から、小さなお姿を眺めるだけ。やっと、代替わりののちにいらっしゃることになったのに。私は不運だからと外されました」
「会ってどうするつもりだったの」
それまでじっと聞いていた蝋梅が尋ねてくる。それはそうだ。こんなこと。
「……問うことなどできないでしょう。そうなりたい人は山のようにいて。そしてそもそも認めていただけるのであれば、後宮から出る必要などなかったのですから。それでも、会えばわかるものなのかもしれないと。物好きな噂なのか、真実なのか。せめてそれだけでも知れるのではないかと。小さな泡沫のような気持ちを抱いていました。本当は父だと打ち明けてほしい。母と共に食事をとりたい。そんなこと、叶いっこありません。けど」
いつしか握る力は強くなっていた。包みはもう、くしゃくしゃだ。視界を向けるあてがなくて、ただそれを眺める。
隣に座っていた少女は、膝を彼女の女官の方へと傾ける。それに気づいて、玫瑰は顔を上げた。銀糸の髪の持ち主は、煌めく冠でも戴いたかのように冴え冴えとしている。柔らかさも、憐れみも、慰めもそこにはない。
「あなたの願いは、諦めてほしい」
ただひと言、そう告げる。
ひゅっと、息が詰まった。ぎゅっと、更に強く手を握る。ぶるぶると、それは震えていた。
「わかってます。こんなことしでかしたんですから」
少しもわかってなんかいないけれど、震える声はそう紡ぐ。
蝋梅はそれに、緩くかぶりを振った。
「そうじゃなくて、あなたには後宮ではない場所で幸せになってほしい。そう願う人たちがいるから」
背中の丸まった玫瑰とは逆にしゃんと背を伸ばして、彼女はそう続ける。
「鈎蛇は正式に星神の下につく代わりに、あなたの助命を求めてきた。できないのなら、この地の実りの保証はできないと」
「……どうしてそこまで」
乱暴に感情をぶつけてきた後だ。それなのに。人間の姿と化した彼が、玫瑰の眼裏に浮かぶ。
「それほどあなたが得難い人だということ。ここならば呪いも気にならないのでしょう。一度都へは行ってもらうけれど。とにかく、気を確かに」
(そういえば、虫のひとつも落ちて来そうなものなのに、こない。これは、帰ってきたから?)
あまりにも衝撃が強すぎて、忘れていた。埃をかぶることも、ネズミと目が合うこともなく。そもそも街についてから、変なところで転んだり物を落としたりもしていない。
(でも、それを思うなら)
玫瑰は主を見つめる。
(蝋梅さまと出かけている時はいつも、何もなかった)
何も言わず、呪いを引き受けてきた少女。
その彼女は、玫瑰の握りしめていた包み紙を貰い受ける。触れた指は、朝に肌を滑らせる絹のようだった。
あの、と玫瑰は声にしかける。しかしそれは喉の奥で引っかかった。
「そろそろ行くぞ」
扉の向こうから、青眼の青年が顔をのぞかせる。蝋梅は立ち上がると、小走りで彼の元へ行ってしまった。かんぬきをする音がして、残ったのは空気に徹してくれていた梧桐だけ。玫瑰は再び膝を抱える。
(あの、大蛇。あの美味しかった料理)
彼女は思案を巡らせる。
(そういえば、あの蛇の店、うちの店とそっくりだった……。そんなにうちの店を気に入ってくれてたのかしら)
安堵から、疲れがどっと体を重くする。死ぬかもしれない、母を巻き込むかもしれない。そんな緊張の連続から解放されて。
視界が落ちてゆく。
体が重い。動きづらい。
(この感覚、子どもの頃に熱が出た時みたい)
小さくなって布団の海に溺れる夢。小さな身体はその海を這っていて、それはまさしく……
「――あんた、蛇だったのか?」
異変に気づいて駆け寄ってきた梧桐は、驚きに目を見開いていた。
「うそ、わたし、」
重い頭を無理に持ち上げて、身体を見やる。抜け殻となった衣の中に、細長い爬虫類の体があった。手を上げてそれがそこにあることを確認しようにも、存在しないものを上げることはできない。
ここで出くわした不運ではない。悲鳴が喉から迸る。慣れない体感に倒れ込みそうになるのを、大きな手が支えた。厚みのあるその手は、動転して息を荒くする小さな蛇を巻き取って抱える。温かく感じるはずの人の温もりが、今はあまり心地よくない。それでも触れてくれるのが、拒絶しないでくれるのが、僅かな正気を保たせる。
「私、わたしは、何者なの? これも呪いなの?」
声が震える。なけなしの正気をかき集めて、抱きしめて。答えが返ってくるはずのない問いを挙げる。そうしていないと、何もかも手放してしまいそうだ。
「何の騒ぎだ?」
悲鳴を聞きつけたのか、兵が慌ただしく鍵を開けるのが聞こえる。梧桐は扉の脇の死角に潜み、その背後をとる。そうしてすまんと謝ってから、至極暴力的な方法で兵を昏倒させた。頭の中がぐちゃぐちゃで、それを咎める言葉も出てこない。
「――聞いてみようぜ。連れてってやる」
素早く彼は玫瑰の衣をまとめると、蛇の体をくるんだ。
「……ありがとう」
やっとの思いで絞り出せたのは、それだけだった。




