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日が昇りきらぬうちに、銀杏は目を覚ました。自分の邸ほどの豪華さはない天井だ。
それもそのはず、昨夜は慣れぬ宿営地を避け、近隣の黄家の者を頼っていったのだから。本来なら、王弟殿下を招き、宴を催す予定だった。が、それは叶わなかった。あちこち忙しなく動き回る殿下に、使者が翻弄されたらしい。
どうにもうまくいかない。先の黄妃は、序列で言えば下の方。新たに輿入れした黄妃も、正妃の座を射止められなかった。王子を産めれば逆転の目もあるが、どうにも先んじている様子はない。息子たちでどうにか上の位を埋めなければ。そう息巻いて、青家の後釜に捩じ込んでもみたが、まだまだ若い芽だ。そしてわざわざ出向いたのに、つかまらない王弟。苛立ちで酒は進んだ。
頭が痛い、重い。
「安酒が……」
聞こえぬように独りごちる。せめて自分は、完璧であらねば。使者を飛ばすと、すぐに返事が返ってきた。
曰く、昼間は予定が詰まっている。夜に宮殿へ報告に戻るのでその時に席を用意する、と。
「無駄足ではないか!」
銀杏は報告した使者に当たる。それでも、一夜の約束を取り付けたことに変わりはない。この、条件の整った一夜を。
念入りに着飾らせた娘と宮殿へ赴くと、話が通っていたようで、すぐに一室に案内された。用意されていたのは、三人分の席。日は暮れて、燭台の灯りが娘の顔を照らしている。唇を結ぶさまは、いささか緊張しているようだった。流行の甘い香が、いつもよりも強く香ってくる。
やがて足音がして、扉が開かれた。さっと二人して首を垂れる。顔を上げると、傍らで感嘆の息がもれるのが聞こえた。
王と瓜二つの顔だ。娘に言わせれば、香だの服の趣味が違うだのあるらしいが、お行儀よくした公の場では特に、見分けがつかない。
「すまないな。あちこち呼ばれて槃瓠で移動していた」
「いいえ、お忙しい中時間をとってくださり、ありがとうございます。黄家領で獲れた旬のものを、是非にご賞味いただき、体を養っていただければ幸いです」
まずは食材の売り込み。連日の暑さで疲れた体にしみるような品々だ。そして特上の美酒。
「まずは蜂蜜酒を。滋養強壮に良いと言われております」
黄金色のきらめきは、黄家の色でもある。王弟はそれをくいと口に含む。
「かなり濃厚な甘さだな」
二口目、三口目と、立て続けに彼は飲んだ。好感触だ。
「女性にはこの甘さが好まれております。殿下の秘蔵の花も、お気に召すのではありませんか。……失礼、余計なことを申しました」
「余計なこと?」
青年が釣り針にかかる。銀杏は迷うような素振りをみせた。たっぷり逡巡してみせて、そうして言いづらそうに続ける。
「妃候補が、兵とかけおちしたという噂を耳にいたしまして。お忙しい殿下の目を盗んで裏切るなど、もってのほかでございます」
「……まさかとは思ったよ。こんな時に、こんなことになるなんて」
彼はふっと目の光が消えたように、表情を翳らせる。娘は裾を滑らせて彼の隣に移ると、それに寄り添う。王弟はその手を払わなかった。娘はそのまま彼にぴったりと体を寄せた。
「殿下、この世の花は一つではございません。知らぬ花の名を、香りを知ってはいかがでしょう」
ねだるような上目遣いで、彼女は王弟を誘う。しゃなりしゃなりと、指が袖を上っていった。舞踊が仕込まれているだけあって、指先までその動きは美しい。彼の目はそれを追う。
「殿下、今、世は大いに乱れております。呪いによる恐怖から連日廟で供物や祈りを捧げております」
銀杏は改めて身を正した。
「日照りには祈雨の祭祀を行ったり、急な被害のあったところには派兵したりしている。儀礼もなるべく簡素にしているから、民に新たな負担も強いていない。呪いも大事になっているものはないと聞くぞ」
そのせいで、王弟自らあちこち指示を出すべく飛び回っているのだ。最近評価が変わってきているが、もともと政には無関心、文武ともによい評判を聞かない王子。
(担ぐ神輿は軽い方がよい)
彼は大仰に頷いてみせた。
「一連の儀式が終わり、即位が正式なものとなれば、加護は強力なものとなる。そううかがっております。されど、本当にそうでしょうか」
食事も酒も、少しも手をつけられる様子はない。ただ燭台の明かりだけが、それをねぶる。そして青年の瞳も。
「どういうことだ」
瞳は、少女の姿ではなく銀杏を捉えている。
「陛下や星守さまが呪いに打ち克たれた――それは喜ばしいことと存じます。しかし、これまでは清らな身で星神の加護を受けるのが常。噂を耳にした民は、囁いております。これで本当に強固な加護を得られるのかと」
旅の劇団員も真っ青になる演技力。彼は自分自身を誉めそやして鼓舞する。一世一代の大勝負。これまで青、赤の下で辛酸を舐めてきたのを、次代に繋げるわけにはいかない。
「殿下、私はただ秘蔵の花を廃すようお願いしているわけではございません。あれは妖婦。妖しげな術で、男たちを魅了していると聞きます。殿下もその術中に嵌っておられるに違いありません。目をお覚ましになり、そうして民心を安らかにするため、あなたさまが王位につくべきです。武力を以て簒奪するのではありません。ただ、事実を。呪われた身で世を乱す者が、神や歴代の王に仕えるに相応しいか、そう問われませ。娘を連れて参りましたのは、その苦難の道を共に歩む者がいるべきではないかと考えた次第でございます。どうかご一考を」
「そうか、そのように考えていたのか」
青年は静かに告げた。そこに感情は込められていない。横を向くと、ついと娘の顎をもたげて、至近距離まで寄っていった。娘の方は目を潤ませて、頬を紅潮させた。
「殿下……」
口づけでもねだるように、甘い声が彼女の口から漏れる。しかし。
「何だ、こんなに近くてもわからないのか」
相手の声は驚くほど冷めていた。潤んでいた瞳が、わけもわからず瞬かれる。
「俺が望でないことに」
娘は目を見張って息をのむ。その顔には、しかと覚えがある。ならば影武者か。それとも。ふと、銀杏の脳裏を花朝節での出来事がよぎる。彼は弟のふりをして、周囲をからかっていたと。そんな報告があった。
「まさか、陛下?」
青年は娘を捕らえたまま、銀杏の方を見やる。
「我が星守は、よからぬ企みなど見抜いているぞ。何せ見抜くことにかけては星神さまのお墨付きだからな。兵やごろつき、眠り薬の手配。随分まわりくどく手を回したようだが、彼女の目は誤魔化されない。墓を追加で暴き、瘴気を濃くしたのもそちらの指示だと下手人の筋の言質をとってあるからな。民? 自領の状況報告も聞かぬ男が何を言う。報告を上げようにも、そなたがよからぬ酒席ばかりで捕まらぬと嘆かれていたぞ」
お父さま、と娘は口をぱくつかせる。しかし銀杏の思考回路も凍りついていた。
史上最高の星守。だからこその栄華。それが落ちて、代わりに他の星が昇ったとて、容易く代われるものではない。ましてや呪いに曇った者など。そのはずなのに。
「さて、このまま俺が手を出せば、黄妃は、お前の愛娘はどう思うかな。自分を捨てて妹に乗り換えたと思うのが普通だな。他の家もどう出るか」
「うるさい! 呪われた星守に王め! 先代の星守さまを砕いたのはお前たちだろう! この国を憂うなら、王弟殿下を奉じるべきだ! 玉座を呪いで染める偽王が!」
もう隠すことはできない。銀杏はやけになってがなりたてる。
「ならばなぜ、蝋梅を追いやろうとした? 国を思い、加護を受けるなら彼女を正妃とすべきだろう」
「あの娘はもう加護を失った身。冠がないのは、不要だからこその姿だ! その上で他の男に走るなど、言語道断!」
「あの娘が望以外に絆されることなどあり得ない。だからこそ囮に使った」
冷ややかに、この青年王はねめつける。宮殿を生き抜いてきた老練な男を、冴えた星の力を借りて。
「そなた、もういい年だろう。裏で糸を引いた先の黄妃と共に罪を認め、表舞台から身を引けば、子まで責任は問わない。俺は寛大だからな。これからは俺の為に尽くしてもらおうか。貸しは大きいぞ」
三日月に唇をもたげて、彼は笑む。纏う衣はいち王族のものであるのに、唯一頂点に立つ者のすごみがあった。それは確かに、紛れもない王その人だった。




