第十九話 手詰まり
桜華を乗せた車が見えなくなってから、誰も工場の前を動こうとしなかった。
霜山さんが「中に入りましょう」と言うまで、たぶん十分近く、全員が同じ道の先を見ていたと思う。
事務所に集まって、各自が適当な椅子に座った。
誰も口を開かない。
壁の時計の針が動く音だけが、やけにはっきり聞こえた。
香織さんは腕を組んで、床を睨んでいる。
坂本は何度もスマホを見ては、画面を消している。
霜山さんは、さっきから同じ書類を三回ぐらいめくっていた。
重いな、と思った。
負けたあとの控室でも、ここまでじゃない。
俺は、一番聞きたかったことを、シオンに向けた。
「シオン。一つ確認したい」
「何」
「お前は、どうやってサツキを抜けたんだ?」
シオンは、少しだけ視線を上げた。
「契約を破棄した。普通に」
「普通に、できたのか」
「できた。ボクの契約書には条項があったから」
シオンは、指で机の上を軽く叩きながら、ゆっくり言った。
「管理体制に不備があって、選手に重大なトラブルが起きた場合は、選手側から契約を破棄できるっていう条項だ。ボクは怪我をした。出力設定を上げられて、管制室には誰もいなかった。診断書もある。向こうの弁護士は文句を言ってきたけど、条項が揃ってたから押し通した」
「契約の中身、よく覚えてたな」
「辞めるつもりで読み直した。入団のときは、読んでもいなかったけど」
読んでなかったのか、という顔を、たぶん俺はしていたと思う。
「じゃあ、桜華も同じ手が使えるんじゃないのか」
そう聞くと、シオンは首を横に振った。
「桜華は無理。逆なんだよ」
「逆?」
「あの条項は、管理ができていなかったときの話だ。桜華の場合、足りないんじゃない。むしろ、管理されすぎてる。つまり、あの条項には当てはまらない」
黙ってしまった。
閉じ込められて、見張りをつけられて、外に出られなかった。
傍目に見るとやりすぎにしか見えない。
だが向こうは「きちんと管理していた」と言い張れる。
「警察は? 被害届とか、出せないんですか」
香織さんが顔を上げた。
「出せる。でも向こうは、保護だと言い張る。証拠になるのは桜華の証言と、さっき撮った映像くらいだ。マンションの防犯カメラは、サツキの物件にある」
シオンが答えた。
「……ダメかあ」
誰かが、舌打ちした。
☆
「小山さん」
坂本が、おずおずと手を上げた。
「あの、これ。見てもらえますか」
差し出されたスマホには、ツイータの画面が映っていた。
シオンが回していた映像の切り抜きが、いくつも投稿されている。
桜華が黒服に両腕を取られている場面。
雄介の『丁重に』という声。
『契約を盾に連れ戻す』という発言。
それぞれの投稿の下に、インプレッション数が表示されていた。
一万を越えている。
別の投稿は、もう二万に届きそうだった。
「リポストも、どんどん増えてます」
「中身はどうなってる?」
「ほとんどが、サツキネクサスと雄介への非難です。擁護してる人は、ほぼいません」
スクロールする。
『サツキネクサス、これはさすがに引く』
『契約で縛って連れ戻すって、人身売買と変わらないだろ』
『桜華ちゃん可哀想すぎる』
『御曹司、顔は笑ってるのに目が笑ってない』
『ここのスポンサー、これでも契約続けるの?』
ひと通り眺めてから、スマホを返した。
「もっと炎上すれば、動くかもしれないな」
口に出したら、考えていたより重かった。
「世論が動けば、スポンサーが離れる。会社にダメージが出れば、契約を盾にしたままでいるのは、向こうも難しくなる」
「人の不幸を燃料にするみたいで、あんまりいい気分じゃないですけど」
「でも、他に手がないわ」
香織さんが小声で言った。
「ボクたちが何もしなくても、あいつは桜華を閉じ込め続ける。使えるものは、使わないと」
シオンが、はっきりと言った。
☆
ドアが開いたのは、昼前だった。
司さんが、上着も脱がずに入ってきた。
眉間にシワが寄っている。
「霜山から聞いた」
部屋の全員を見渡してから、司さんは低い声で言った。
「鳳来さんが、連れていかれたそうだな」
「……はい」
「止められなかったのか」
「止められませんでした」
司さんは、少しだけ黙っていた。
それから、近くの椅子を引いて、どさりと座った。
「そうか。悪い話がもう一つある。亀裂の件だ」
全員の視線が、司さんに集まった。
「亀裂の対応は、皐月ホールディングスが独占する。主導権も、窓口も、全部だ」
「独占、ですか」
「ああ、政府から指定されたのは皐月だ。協会は、その決定を前提に運用を決めたらしい。他のビルダーは、要請があれば応じなきゃならない」
「応じなきゃならないって、どういうことですか!」
坂本の声が、少し裏返っていた。
「そのままの意味だ。協会経由で要請が来たら、断れない。出せと言われたら、機体も人も出す」
事務所の空気が、変わった。
「それ、ふざけてませんか」
最初に声を上げたのは、霜山さんだった。
いつも穏やかな人が、机の端を握りしめている。
「主導するのは皐月で、手柄も皐月で。危ないところだけ、こっちに回すってことでしょう」
「そういうことになる」
「しかも、桜華さんのことまであって」
「あいつら、どこまで人を馬鹿にすれば気が済むんだ」
「社長、断れないんですか。拒否したらどうなるんですか」
「俺だって聞いた。協会の規約違反になる。最悪、シーズンの出場資格にも響く」
「そんな!」
口々に、不満が噴き出した。
香織さんは何も言わず、歯を食いしばっていた。
「静かにしろ」
司さんが、手のひらで机を一度叩いた。
「怒るのは、あとだ。まず飯を食う。腹が減った状態で話しても、ろくな考えは出ないからな」
☆
食堂で、昼食になった。
鍋で煮込んだ具の多い汁と、握り飯が並んでいた。
誰が用意したのかは分からない。
たぶん、霜山さんだ。
食欲はなかったが、香織さんに「食べなきゃ動けないよ」と言われて、箸を取った。
汁を一口飲む。
温かい。
気持ちが少しだけ落ち着いたようだ。
食べながら、情報を出し合った。
シオンの契約の話。
ツイータの反応。
協会で司さんが聞いてきたこと。
「あと、もう一つ」
司さんが、箸を置いた。
「皐月ホールディングスの法務部は手強い。社内の弁護士だけで、相当な数がいる。なにせ金を持っているからな。契約の抜け道を探したところで、向こうは先に潰してくるだろう」
そこで一度言葉を切って、それから続けた。
「契約関係を崩すのは、簡単な話じゃない。鳳来さんが自分から契約書の写しを請求できれば別だ。だが、閉じ込められてる人間に、それはできない」
「……だから、取りつく島がなかったのか」
「そういうことだ」
誰も、すぐには言葉を返さなかった。
その沈黙を破ったのは、シオンだった。
「付け加えておく」
シオンは、箸を持った手を止めたまま、淡々と言った。
「雄介の桜華への執着は、度を越してる」
「度を越してる、というと?」
「遠征先のホテルでは、毎回、桜華の部屋の隣を押さえてた。使ってるシャンプーの銘柄まで把握して、チームの経費で買い足してた。誕生日には、部屋が埋まるくらいの花を送っていた」
「マジか」
「桜華の足のサイズも、知ってた」
香織さんが、持っていた握り飯をぽとりと皿の上に落とした。
「ごめんなさい。それ、キモい」
「だから言ってる」
「ドン引きなんですけど」
坂本は、汁椀を持ったまま固まっていた。
霜山さんは、笑おうとして、笑いきれずに口元が引きつっていた。
他のメンバーも、似たような顔をしている。
司さんだけが、腕を組んで、小さく唸った。
「それは、思ったより重症だな」
「本人は、愛情だと思ってる」
シオンの言葉に、誰も返せなかった。
☆
昼食を終えて、片づけをして、全員が持ち場に戻ろうと立ち上がったときだった。
「あっ!」
坂本が、スマホを見て声を上げた。
「どうした」
「皐月ホールディングスの公式アカウントが、声明を出しました」
画面を覗き込むと、短い文章が表示されていた。
『当社グループに関する事実に基づかない情報の拡散、並びに誹謗中傷に対しては、法的措置を含め、断固とした対応を取ります』
「自分たちがやっておいて、これですか」
香織さんが、低い声で言った。
「あの文面は、本当に訴えるとは限らない」
「だが、効く。怖がって書き込みをやめる人間が、確実に出る」
俺は、画面を見たまま言った。
「じゃあ、せっかく炎上しかけてたのに」
「ああ。冷やしに来たな」
やることが早い。
半日もかかっていない。
「しょうがない。仕事に戻るか」
誰かが言って、それぞれ席を立った。
☆
その日の午後は、夕方までガードナーの訓練をした。
亀裂対応の要請が、いつ来てもおかしくない。
そう言ったのは司さんだった。
断れない以上、備えるしかない。
俺は、三世代機に乗って、シオンと香織さんの相手をした。
体を動かしている間は、余計なことを考えずに済む。
それでも、ふとした拍子に、桜華の叫び声が耳に戻ってきた。
待ってなさいよ、と言っていた。
夕方になって、機体を降りた。
「小山さん」
坂本が、また、スマホを見せに来た。
「見てください。ツイータ」
画面を見る。
昼の間にあれだけ流れてきていた切り抜きが、ぐっと減っていた。
インプレッション数も、一万数千のまま止まっている。
トレンドの欄にも、もう名前は出ていなかった。
「声明のあと、一気に静かになりました」
「そうか」
「皆、怖がって、書かなくなったんだと思います」
やっぱり、そうなるか。
空は赤くなっていた。
工場の屋根の向こうで、カラスが何羽か飛んでいる。
俺たちには、契約を崩す手段がない。
世論も、皐月の声明で止まり始めている。
警察に相談しても、今の証拠だけで桜華を連れ出せるわけじゃない。
居場所は分かっている。
それなのに、迎えに行く方法だけがなかった。
俺は、地面に落ちた自分の影を見た。
「手詰まりだな」




