第3話 夫婦でしかできないこと
王女殿下の三度目の発作は、夜明け前に来た。
黒い紋は前より速かった。
首筋から頬へ。胸から腹へ。
まるで身体の中で何かが道を覚え始めているみたいだった。
「エリサ」
「分かっています」
アルノーに言われる前に、私は同意書を机へ置いた。
負担は五対五。
異常時は即切断。
中止の申し出は理由を問わず受け入れる。
昨日と同じ三行。
ただし今日は、その下に一つ増やした。
『接続中、相手の状態を推測だけで判断しないこと』
アルノーが読んで、ほんの少し眉を動かした。
「俺への当てつけか?」
「私にもです」
「そうか」
彼は署名した。
文句を言わなかったので、私もそれ以上は言わない。
王女の小さな手を包む。
冷たい。
「始めます」
婚姻紋を開く。
途端に、黒い熱が腕から肩へ駆け上がった。
昨日より重い。
けれど怖くはない。
隣にいる人間が、どの程度まで耐えられるかを私は知っている。
アルノーも、私が何を先に守るか知っている。
「肺を固定します」
「そのまま二秒」
「一」
「まだだ」
「二」
「今」
黒紋の一本が、ぱきりと薄くなった。
周囲の治癒師たちが息を呑む。
アルノーは止まらない。
「次、左肩から落とす」
「駄目です。心臓に近い」
「なら腹側へ逃がす」
「三秒だけ」
「了解」
まるで昔の実習だった。
学生だった頃、私たちはよく同じ組にされた。私は生体魔力の維持、アルノーは呪いの除去が得意だった。
教師に「二人で一人前では困る」と言われるたび、二人とも腹を立てた。
今では私は王立産院の上級治癒師、彼は軍の呪傷治癒師だ。一人でも仕事はできる。
それなのに今、久しぶりに並んで仕事をすると、悔しいほど楽だった。
私が呼吸を守れば、彼は迷わず呪いへ刃を入れる。
彼が危険な場所を削れば、私がそこを塞ぐ。
説明しなくても動ける。
いや。
違う。
説明しなくても分かるのではない。
仕事だから、必要なことを短く正確に言葉にしているのだ。
「負荷、四十パーセント」
アルノーが言う。
「私は五十パーセント」
「差があるな」
「右腕に偏っています」
「接続を二十パーセント落とす」
「お願いします」
それだけでいい。
家では、どうしてこれができなかったのだろう。
「エリサ?」
「何でもありません」
「今、推測するなと書いたばかりだろう」
腹が立つ。
正論なので、もっと腹が立つ。
「昔、二人で治療していた頃のことを思い出しただけです」
「俺もだ」
「そうですか」
「楽しかった」
一瞬だけ、魔力が揺れた。
「集中してください」
「悪い」
本当にこの人は。
王女が小さく息を吐いた。
黒紋が、また一本消える。
今度は泣かなかった。
すう、と静かに呼吸を続けている。
「安定しました」
私が言うと、処置室に安堵の空気が流れた。
マルガレータ先生が王女を確認する。
「昨日より長く持ちそうね」
「でも、根本治療にはなっていません」
「ええ」
私は黒紋が消えた場所へ指先を近づけた。
表面はきれいでも、奥に濁りが残っている。
水底の泥みたいに。
「削っているだけです。また出ます」
アルノーも同じものを見ていた。
「原因を見つけない限り、繰り返すな」
先生が頷いた。
「だから二人には当面、王立産院と軍治癒院の合同治療班に入ってもらうわ」
「分かりました」
「了解です」
また返事が重なった。
今度は誰も笑わなかった。
私は笑いたかった。
こんなところだけ完璧に合う夫婦が、四週間もしないうちに夫婦ではなくなる。
おかしい。
でも、おかしいことと間違っていることは別だ。
処置室を出ると、廊下に王宮付きの文官が待っていた。
濃紺の礼服。
胸に王家の紋章。
嫌な予感しかしない。
「エリサ・フェルナー夫人。アルノー・フェルナー卿」
「はい」
「王太子殿下より書状をお預かりしております」
封筒を差し出される。
私が受け取った。
開く。
短い文面だった。
それでも二度読んだ。
意味が変わらないかと思ったからだ。
変わらなかった。
『第一王女の治療終了まで、両名の婚姻解消手続きを停止するよう家庭法院へ要請する』
私は紙を畳んだ。
「これは命令ですか」
「王家からの要請です」
文官は慎重に答えた。
「要請でしたら、異議を申し立てます」
彼の顔が引きつった。
「ですが王女殿下の御命が」
「治療は続けます」
「婚姻が解消されれば、共有治癒が」
「それまでに別の治療法を探します」
「見つからなかった場合は?」
「それでも、患者のために治癒師の婚姻を強制することはできません」
後ろで誰かが息を呑んだ。
言いすぎたかもしれない。
でも、ここで曖昧にすれば、昨日までの私に戻る。
仕方がない。
今だけ。
患者のためだから。
そうやって、自分のことを後回しにする。
もうやめると決めた。
「正式に異議を申し立てます」
「夫人」
文官は困ったようにアルノーを見た。
助けを求める相手を間違えている。
この人は私の夫だけれど、私の主人ではない。
アルノーが何か言う前に、私は続けた。
「書式をください。今日中に提出します」
「その必要はない」
アルノーが言った。
私は振り返った。
胸の奥が冷える。
まさか。
この期に及んで、止めるつもり?
「アルノー」
「もう提出した」
「……何を?」
彼は軍服の内側から、一枚の控えを出した。
王宮法務局の受理印。
日付は今日。
時間は、夜明け前。
私たちが王女を治療するより前だった。
『婚姻解消手続停止要請に対する異議申立書』
申立人。
アルノー・フェルナー。
私は紙から顔を上げた。
「いつ?」
「今朝。王宮法務官から軍へ照会が来た。家庭法院へ停止要請を出すつもりだと分かったから、先に異議を預けた」
「どうして私に」
「治療前に言えば、君は余計なことを考えると思った」
そこで彼は止まり、露骨に嫌な顔をした。
自分の言葉に。
「……違うな」
「何が?」
「また俺が勝手に決めた」
アルノーは額を押さえた。
「すまない。そこから直さないと駄目らしい」
文官が完全に置いていかれた顔をしている。
私もたぶん似た顔だった。
アルノーは改めて私を見る。
「異議を出したこと自体は撤回しない」
「ええ」
「理由を説明しても?」
少しだけ迷ってから、頷いた。
「どうぞ」
「王女殿下を救うために、君が俺の妻であり続ける義務はない」
廊下が静かになった。
「もし王家が治癒師の婚姻を治療道具として扱うなら、その方針に従う立場のまま治療は続けられないと書いた」
私は思わず、もう一度紙を見た。
本当に書いてある。
最後の一文。
『本要請が維持される場合、王国軍治癒師として本件治療への従事を継続できない』
「馬鹿ですか」
最初に出た言葉がそれだった。
「かもしれない」
「あなた、軍治癒師の職を簡単に投げないでください」
「簡単なつもりはない」
「分かってるなら」
「でも、これを許したら」
アルノーは一度言葉を切った。
「俺がまた、君に我慢させる側になる」
何も言えなかった。
もっと早く気づいて、とは今も思う。七年間は消えないし、離婚申立書も取り下げない。
それでも、目の前の男が昨日までと同じではないことまで否定する必要はない。
「そこまで行く前に、別の治療法を見つけましょう」
私は言った。
アルノーが少し目を見開く。
「それなら誰も困りません」
「ああ」
「だから、勝手に進退まで決めないでください」
「今度は先に相談する」
「そうしてください」
そこへ処置室から声が飛んだ。
「エリサ先生! 黒紋がまた動いています!」
私とアルノーは同時に振り返った。
そして同時に走り出す。
確認期間が終わるまで、四週間足らず。
夫婦でいられる時間を惜しむつもりはない。けれど、その間にやることは決まった。
この子を救う。
そして。
私たちが夫婦でなくても、この子を救える方法を見つける。




