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離婚を申し立てた日に、夫婦でしか救えない赤子を任されました  作者: 九葉(くずは)


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2/10

第2話 治療はします。離婚もします

「……離婚?」


アルノーは、法院の紙を持ったまま固まっていた。


私は床に落ちた手帳を拾う。


「そうです」


「今朝?」


「今朝です」


「どうして」


七年間で、何度その問いを待っただろう。


けれど今は、王女の小さな胸が上下しているかを見る方が先だった。


「その話は勤務後にします。今は患者が先でしょう」


「勤務後って……」


「離婚の話は逃げません。でも、この子の呼吸は待ってくれない」


自分でも驚くほど、声は平らだった。


アルノーは紙と私を見比べた。いつもなら、そこで何か説明しようとしたかもしれない。けれど今は何も言わず、離婚申立書を机の端へ置いた。紙が折れないよう、妙に丁寧に。


その仕草を見て、胸が少しだけ痛んだ。


七年も夫婦だったのだから、そういう小さなところまで知っている。だから困る。


アルノーは何か言いかけ、口を閉じた。


こういうところだけは昔から息が合う。


「王女殿下は一度安定しました。ただ、黒紋は残っています」


私が告げると、マルガレータ先生が赤子の首筋を確かめた。


「また発作が来るでしょうね。それで、エリサ」


先生の視線が離婚申立書へ落ちた。


嫌な予感がした。


「手続き、止められない?」


「止めません」


即答した。


「現状、この子を治療できるのはあなたたち夫婦だけなのよ」


「ですから治療はします」


「離婚すれば婚姻紋が消えるでしょう」


「確認期間は三十日あります」


「その間に治る保証は?」


「ありません」


先生の眉が上がる。


私は息を吸った。


「でも、患者を救うために治癒師の結婚を維持させるのは違います。私は治癒師です。必要な治療はします。それと、誰の妻でいるかは別です」


アルノーの顔は見なかった。


「……分かったわ」


先生がため息をつく。


「二人とも院内待機。次の発作に備えて」


「はい」


「了解した」


返事まで重なった。


少し腹が立つ。


   ◇


次の発作は二時間後だった。


王女の黒紋が鎖骨から顎へ這い上がる。


私は寝台の右、アルノーは左についた。


「接続前にこれを」


紙を差し出す。


「何だ?」


「共有治癒の同意書です。負担は五対五。異常が出たら即切断。どちらかが中止を求めても切ります」


先生が呆れた。


「夫婦でしょう?」


「だからです」


私はペンをアルノーへ渡した。


「近い相手ほど、確認を省いてはいけないと思います」


彼は黙って署名した。


私も続けて名前を書く。


「始めます」


私は王女の手に自分の指を添えた。あまりにも小さくて、握られているのかどうかも分からない。


この子には何の責任もない。王族に生まれたことにも、妙な呪いを抱えたことにも。


離婚のことを考えるのは、この子の呼吸が戻ってからでいい。


王女に触れると、黒い熱が腕へ流れ込んだ。


婚姻紋が光る。


負荷が二つに割れた。


「呼吸を支えます。黒紋だけ削って」


「分かった」


アルノーの魔力が呪いへ食い込む。


荒っぽいのに正確だ。


私は赤子の肺を守る。


「今」


アルノーが削る。


王女の身体が跳ねた。


「もう一度」


「負荷は?」


「平気です」


言った直後、左肩に鋭い痛みが走った。


アルノーがこちらを見る。


「切るぞ」


「まだいけます」


「同意書には?」


自分で作った紙に負けた。


「……あと七秒」


「五秒」


「六」


「分かった」


六秒後、同時に接続を切る。


黒紋は薄くなっていた。


息をつく私に、アルノーが言った。


「腕を見せて」


「大丈夫です」


「今、大丈夫と言ったな」


しまった。


「見せてくれ」


仕方なく袖を上げた。


銀色の婚姻紋の周囲に、細い灰色の筋が何本も残っている。


古い共有痕だ。


アルノーの顔色が変わった。


「これは何だ」


「昔のものです」


「俺との共有治癒か?」


「ええ。正確には、私の側の受け口を広げていました」


旧式の婚姻紋は、片方が自分に流れ込む負荷を増やすだけなら、相手の再同意を必要としない。結婚時の誓約で許可済みと扱われるからだ。


「こんなに使った覚えはない」


「あなたが戦地にいる時、負荷が大きそうな夜だけ少し受けていました」


「少し?」


彼の声が低くなる。


「これが?」


「私が勝手にやったことです。責任を感じる必要はありません」


「どうして言わなかった」


私は彼を見た。


「言いましたよ」


「……何を」


「腕が痛いって。魔力が足りない気がするって。婚姻紋を診てもらいたいって」


彼の目が揺れる。


「三か月前にも。先月も。昨日も」


昨日、食卓に予約票を置いた。


アルノーは言った。


――今度こそ行こう。


その今度は、来なかった。


「俺は、そんなにひどいとは思っていなかった」


「そうでしょうね」


「診てもらいたいとは聞いた。でも、急ぐほどじゃないと……」


「私がそう言いましたからね」


「なぜ」


「あなたが疲れていたからです」


答えてから、自分でも嫌になる。


またそれだ。


相手が疲れている。忙しい。困っている。だから私は後でいい。


誰かに命じられたわけではない。私自身がそうしてきた。


だからといって、痛みを訴えた事実まで消えるわけではないけれど。


「君はいつも大丈夫だと言っていたから」


胸の奥がひやりとした。


それは事実だ。


痛くても仕事へ行った。

疲れていても大丈夫と言った。

帰れないと言われれば、分かったと答えた。


でも、それを今、私のせいにされたら。


たぶん私は、この人を本当に嫌いになれる。


アルノーは黙ったあと、首を振った。


「違うな」


「何がです?」


「君が大丈夫と言ったからじゃない」


彼は私の腕に残る痕を見た。


「大丈夫でいてくれる君に、俺が甘えていた」


アルノーはそこで初めて、私ではなく自分に腹を立てたような顔をした。


謝罪ならもっと早く欲しかった。


今さら正しい言葉を選ばれても困る。


それでも、言い訳をされるよりずっとましだった。


思ったより真っ直ぐ胸に入った。


けれど、七年間を巻き戻すほどではない。


「俺は君を大切にしているつもりだった」


私は袖を下ろした。


「ええ」


少しだけ笑う。


「つもりだったのでしょうね」


その時、王女が小さく咳をした。


薄くなったはずの黒紋が、一本だけ濃くなる。


アルノーはすぐに寝台へ向かった。私も続く。


離婚の話をしていても、患者が悪化すれば二人とも同じ方向へ走る。


そこだけは、七年経っても変わらない。


変わらないものがあるからといって、壊れたものまで無かったことにはできない。


私は机の端に置かれた離婚申立書を一度だけ見た。青い受理印は、さっきと同じ場所にある。


それから私たちは、再び王女の寝台へ向き直った。


確認期間が終わるまで、ひと月。


その前に、この子を救わなければならない。

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