第2話 治療はします。離婚もします
「……離婚?」
アルノーは、法院の紙を持ったまま固まっていた。
私は床に落ちた手帳を拾う。
「そうです」
「今朝?」
「今朝です」
「どうして」
七年間で、何度その問いを待っただろう。
けれど今は、王女の小さな胸が上下しているかを見る方が先だった。
「その話は勤務後にします。今は患者が先でしょう」
「勤務後って……」
「離婚の話は逃げません。でも、この子の呼吸は待ってくれない」
自分でも驚くほど、声は平らだった。
アルノーは紙と私を見比べた。いつもなら、そこで何か説明しようとしたかもしれない。けれど今は何も言わず、離婚申立書を机の端へ置いた。紙が折れないよう、妙に丁寧に。
その仕草を見て、胸が少しだけ痛んだ。
七年も夫婦だったのだから、そういう小さなところまで知っている。だから困る。
アルノーは何か言いかけ、口を閉じた。
こういうところだけは昔から息が合う。
「王女殿下は一度安定しました。ただ、黒紋は残っています」
私が告げると、マルガレータ先生が赤子の首筋を確かめた。
「また発作が来るでしょうね。それで、エリサ」
先生の視線が離婚申立書へ落ちた。
嫌な予感がした。
「手続き、止められない?」
「止めません」
即答した。
「現状、この子を治療できるのはあなたたち夫婦だけなのよ」
「ですから治療はします」
「離婚すれば婚姻紋が消えるでしょう」
「確認期間は三十日あります」
「その間に治る保証は?」
「ありません」
先生の眉が上がる。
私は息を吸った。
「でも、患者を救うために治癒師の結婚を維持させるのは違います。私は治癒師です。必要な治療はします。それと、誰の妻でいるかは別です」
アルノーの顔は見なかった。
「……分かったわ」
先生がため息をつく。
「二人とも院内待機。次の発作に備えて」
「はい」
「了解した」
返事まで重なった。
少し腹が立つ。
◇
次の発作は二時間後だった。
王女の黒紋が鎖骨から顎へ這い上がる。
私は寝台の右、アルノーは左についた。
「接続前にこれを」
紙を差し出す。
「何だ?」
「共有治癒の同意書です。負担は五対五。異常が出たら即切断。どちらかが中止を求めても切ります」
先生が呆れた。
「夫婦でしょう?」
「だからです」
私はペンをアルノーへ渡した。
「近い相手ほど、確認を省いてはいけないと思います」
彼は黙って署名した。
私も続けて名前を書く。
「始めます」
私は王女の手に自分の指を添えた。あまりにも小さくて、握られているのかどうかも分からない。
この子には何の責任もない。王族に生まれたことにも、妙な呪いを抱えたことにも。
離婚のことを考えるのは、この子の呼吸が戻ってからでいい。
王女に触れると、黒い熱が腕へ流れ込んだ。
婚姻紋が光る。
負荷が二つに割れた。
「呼吸を支えます。黒紋だけ削って」
「分かった」
アルノーの魔力が呪いへ食い込む。
荒っぽいのに正確だ。
私は赤子の肺を守る。
「今」
アルノーが削る。
王女の身体が跳ねた。
「もう一度」
「負荷は?」
「平気です」
言った直後、左肩に鋭い痛みが走った。
アルノーがこちらを見る。
「切るぞ」
「まだいけます」
「同意書には?」
自分で作った紙に負けた。
「……あと七秒」
「五秒」
「六」
「分かった」
六秒後、同時に接続を切る。
黒紋は薄くなっていた。
息をつく私に、アルノーが言った。
「腕を見せて」
「大丈夫です」
「今、大丈夫と言ったな」
しまった。
「見せてくれ」
仕方なく袖を上げた。
銀色の婚姻紋の周囲に、細い灰色の筋が何本も残っている。
古い共有痕だ。
アルノーの顔色が変わった。
「これは何だ」
「昔のものです」
「俺との共有治癒か?」
「ええ。正確には、私の側の受け口を広げていました」
旧式の婚姻紋は、片方が自分に流れ込む負荷を増やすだけなら、相手の再同意を必要としない。結婚時の誓約で許可済みと扱われるからだ。
「こんなに使った覚えはない」
「あなたが戦地にいる時、負荷が大きそうな夜だけ少し受けていました」
「少し?」
彼の声が低くなる。
「これが?」
「私が勝手にやったことです。責任を感じる必要はありません」
「どうして言わなかった」
私は彼を見た。
「言いましたよ」
「……何を」
「腕が痛いって。魔力が足りない気がするって。婚姻紋を診てもらいたいって」
彼の目が揺れる。
「三か月前にも。先月も。昨日も」
昨日、食卓に予約票を置いた。
アルノーは言った。
――今度こそ行こう。
その今度は、来なかった。
「俺は、そんなにひどいとは思っていなかった」
「そうでしょうね」
「診てもらいたいとは聞いた。でも、急ぐほどじゃないと……」
「私がそう言いましたからね」
「なぜ」
「あなたが疲れていたからです」
答えてから、自分でも嫌になる。
またそれだ。
相手が疲れている。忙しい。困っている。だから私は後でいい。
誰かに命じられたわけではない。私自身がそうしてきた。
だからといって、痛みを訴えた事実まで消えるわけではないけれど。
「君はいつも大丈夫だと言っていたから」
胸の奥がひやりとした。
それは事実だ。
痛くても仕事へ行った。
疲れていても大丈夫と言った。
帰れないと言われれば、分かったと答えた。
でも、それを今、私のせいにされたら。
たぶん私は、この人を本当に嫌いになれる。
アルノーは黙ったあと、首を振った。
「違うな」
「何がです?」
「君が大丈夫と言ったからじゃない」
彼は私の腕に残る痕を見た。
「大丈夫でいてくれる君に、俺が甘えていた」
アルノーはそこで初めて、私ではなく自分に腹を立てたような顔をした。
謝罪ならもっと早く欲しかった。
今さら正しい言葉を選ばれても困る。
それでも、言い訳をされるよりずっとましだった。
思ったより真っ直ぐ胸に入った。
けれど、七年間を巻き戻すほどではない。
「俺は君を大切にしているつもりだった」
私は袖を下ろした。
「ええ」
少しだけ笑う。
「つもりだったのでしょうね」
その時、王女が小さく咳をした。
薄くなったはずの黒紋が、一本だけ濃くなる。
アルノーはすぐに寝台へ向かった。私も続く。
離婚の話をしていても、患者が悪化すれば二人とも同じ方向へ走る。
そこだけは、七年経っても変わらない。
変わらないものがあるからといって、壊れたものまで無かったことにはできない。
私は机の端に置かれた離婚申立書を一度だけ見た。青い受理印は、さっきと同じ場所にある。
それから私たちは、再び王女の寝台へ向き直った。
確認期間が終わるまで、ひと月。
その前に、この子を救わなければならない。




