第1話 離婚を申し立てた日に
離婚申立書は、思っていたより薄かった。
七年分の結婚を終わらせるのだから、もっと重い紙なのかと思っていた。実際は二枚。最後の欄に署名をすれば、それで受付は終わる。
「フェルナー夫人、こちらにもお願いします」
家庭法院の書記官に示され、私はペン先を置いた。
エリサ・フェルナー。
最後の一文字を書き終えてから、少しだけ妙な気持ちになった。離婚が成立すれば、もう使わなくなる名前だ。
「理由はこちらでよろしいですか」
書類には、『婚姻生活を継続する意思を失ったため』とある。
「はい」
夫に愛人はいない。殴られたことも、生活費を渡されなかったこともない。
アルノーは悪い人ではなかった。
だから七年もかかったのだと思う。
「本日から三十日の確認期間に入ります。双方の意思が変わらなければ、その後に婚姻解消の確認となります」
「分かりました。ありがとうございます」
法院を出ると、朝の鐘が鳴った。
私は受理証を鞄にしまい、王立産院へ急ぐ。歩くたび、左手首がじくじく痛んだ。
袖の下には、結婚した日に刻まれた銀色の婚姻紋がある。
普通の夫婦なら、互いが無事かどうかをぼんやり感じる程度のものだ。けれど治癒師同士の場合、双方が術式を開けば、痛みや魔力負荷を分けることもできる。
三か月ほど前から、この紋が時々ひどく痛むようになった。
専門の調整師に診てもらおうと頼んだのは私だ。アルノーも了承した。
最初の予約の日は、軍から緊急召集が入った。
二度目は、遠征帰りの兵士が運び込まれた。
三度目の昨日は、呪傷患者の容体が急変した。
昨夜遅く帰宅した夫は、「今度こそ行こう」と言った。
私は、もう次の予約を取らなかった。
患者を見捨てて私を優先してほしかったわけではない。
ただ一度くらい、行けなくなったその先を、私ではなく彼に考えてほしかった。
王立産院の正門が見えた、その時。
けたたましく鐘が鳴った。
一回、二回、三回。
最上級の緊急搬送だ。
私は走った。
「何が来るの!」
「王宮からです!」
玄関ホールで若い治癒師が青ざめていた。
「生後三日の王女殿下です。急に呼吸が止まって、王宮治癒師が二人倒れたと」
私生活は後だ。
髪をまとめ直しながら処置室へ入る。
白い毛布の中に、小さな赤子がいた。驚くほど小さな手が力なく開き、唇は紫色。首筋から胸元にかけて、黒い細線が根のように広がっている。
「呪い?」
誰かが言った。
「触れた治癒師へ逆流します!」
院長のマルガレータ先生が答える。
王女の隣では、王宮治癒師が一人、床に寝かされていた。腕が黒く染まり、別の治癒師が必死に浄化している。
「エリサ、診られる?」
「診ます」
考える前に答えていた。
赤子の胸へ手をかざす。魔力で身体の輪郭をなぞる。
心臓は動いている。肺も潰れてはいない。
なのに呼吸だけが、何かに押さえつけられていた。
「外から入った呪いじゃない……?」
「何ですって?」
「侵入口がありません」
黒い線へ指先を近づけた。
まずい、と思った時には遅かった。
焼けた針を腕の内側から何百本も突き刺されたような痛みが走る。
「っ!」
視界が白くなった。
赤子から何かが流れ込んでくる。呪いというより、重く濁った魔力の塊だ。
手が離れない。
「エリサ!」
肩を掴まれた。
聞き慣れた声だった。
左手首の婚姻紋が熱を持ち、流れ込んできた負荷がふっと軽くなる。
「アルノー……?」
隣にいたのは、昨夜遅く帰宅し、今朝は私より先に家を出ていた夫だった。
軍治癒師の黒い外套。目の下には薄い隈がある。
「王宮から軍にも召集がかかった。状況は?」
説明している暇はない。
「右手を貸して」
アルノーは一度も聞き返さなかった。
彼の右手と私の左手を重ねる。
「共有を開きます。負担は半分ずつ」
「了解」
銀色の婚姻紋が光った。
王女から流れ込む濁流が、今度は二手へ割れる。
痛い。それでも耐えられる。
「私が生命活動を支えます。あなたは黒い部分だけを削って」
「分かった」
私は王女の肺を守る。
アルノーの魔力が黒い筋へ食い込む。強引だが正確だ。呪傷治療だけなら、私よりずっと上手い。
「三、二、一。今」
私が合図する。
アルノーが削る。
赤子の身体が跳ねた。
「もう一度」
「いけるか?」
「聞くなら手を止めないで」
「元気そうで安心した」
腹が立つ。
でも、呼吸は合う。
学生時代の実習でも、私が次に何をするのか、この人だけは説明する前に分かった。
結婚してからは、話しても分からないことばかり増えたのに。
「今!」
黒い線が一本、消えた。
王女の胸が大きく上下する。
ふえ、と。
小さな泣き声がした。
部屋中の人間が息を呑む。
もう一度。
今度はしっかりと、赤子が泣いた。
私は膝から力が抜けそうになるのをこらえ、ゆっくり手を離した。アルノーも同時に共有を閉じる。
婚姻紋の光が消えた。
「安定しました」
そう告げると、王太子妃付きの侍女がその場で泣き崩れた。
よかった。
本当に。
その時、マルガレータ先生が私とアルノーの手首を見比べた。
「もう一度、条件を変えて試すわ」
別の治癒師が王女へ触れる。
黒い線がすぐ反応した。
私一人でも、アルノー一人でも、負荷が重すぎる。二人が婚姻紋を開いた時だけ、黒い線の動きが止まった。
室内が静かになった。
嫌な予感がした。
私の鞄の中には、今朝受け取ったばかりの離婚申立ての受理証がある。
マルガレータ先生が慎重に言った。
「現状、この子を治療できるのは、あなたたち二人だけです」
アルノーが私を見た。
私は見返さなかった。
先生は続ける。
「夫婦として繋がっている、あなたたちだけ」
左手首がまた痛んだ。
ふらついた私の肘が椅子の鞄に当たり、中身が床へ落ちる。
財布。手帳。治癒師証。
そして、家庭法院の青い印章が押された受理証。
アルノーが拾った。
「あ、それは」
止めるより早く、彼の目が紙面を走る。
治療を終えたばかりの安堵が、顔から消えた。
「エリサ」
隠すつもりはなかった。
仕事が終わってから話すつもりだっただけだ。
「今朝、提出しました」
「何を」
紙を持っているのだから、聞く必要はないだろう。
それでも私は、きちんと答えた。
七年間、言葉を飲み込んできた。
最後くらい、察してもらうのはやめようと思った。
「あなたとの離婚申立書です」
腕の中で、王女が小さく泣いた。
三十日の確認期間が終われば、私たちは夫婦ではなくなる。
そして今、その夫婦でなければ救えない赤子が、目の前にいた。




