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断罪された悪役令嬢は治癒魔法の天才でした  作者: 九葉(くずは)


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第5話 温かいな

「本日より、ベアトリクス・フォン・ヘルダーリンをグレーフェンベルク辺境領の医療顧問に任ずる」


 辺境伯の声が、砦の広場に響いた。


 六月の朝。空は抜けるように青い。広場には兵士たちが整列して並んでいる。風に旗がはためく。色褪せた旗だけれど、今日はなんだか誇らしげに見えた。


 辺境伯が羊皮紙の任命状を読み上げ終えると、私に手渡した。

 重い。紙の重さではなく、押された辺境伯家の紋章の蝋印が重い。


「辺境法第十二条に基づき、本日をもってお前を辺境伯領の臣民として登録する」


 辺境伯が付け加えた。周囲の兵士には事務手続きの説明にしか聞こえなかっただろう。でも辺境伯は私の目をまっすぐ見て、もう一言続けた。


「辺境法を知っているか? お前はもう辺境の民だ。王都がどう言おうと、ここではわしの法が通る」


 静かな声だった。

 意味はすぐにはわからなかった。けれど、この人が何か大きなものを私に渡そうとしていることだけは伝わった。


 辺境伯が、ふと思い出したように付け加えた。


「ああ——ゼルギウスに護送を頼んだのもわしだ。どんな娘が来るか、見てこいとな」


 あの護送を騎士団長自らが務めていたのは、辺境伯の指示だったのか。砦に着くまでの三日間、ずっと疑問だったことの答えが、こんなにあっさりと明かされた。


 拍手が起きた。


 最初は一人。次に二人。気づけば広場全体が拍手で包まれていた。

 兵士たちが手を叩いている。あの日、「闇の魔女」と怯えて私に近寄らなかった兵士たちが。黒斑熱のとき、村に駆けつける馬車を用意してくれた兵士たちが。


「……こんなに拍手されたのは」


 声が震えた。


「生まれて初めてです」


(——泣くな。こんなことで泣くなんて、元侯爵令嬢の沽券に関わる。いえ、もう元も何もないのだけれど)


 目頭が熱い。堪えようとして、堪えきれなかった。

 任命状を胸に抱いて、頭を下げた。深く。これ以上顔を上げたら涙が見えてしまうから。



 ◇



 昼の食堂は賑やかだった。


 任命祝いだと言って、厨房の兵士が普段より一品多く作ってくれた。芋のグラタンだ。辺境の芋は小ぶりだけれど甘みが強くて美味しい。


 席について食べ始めたところで、隣に気配があった。


 ゼルギウス様だ。


 無言で私の隣に座った。騎士団長は本来上座に座るはずだけれど、この人は最初からその辺のルールを無視している。


 黙々と食べる。私も黙々と食べる。

 会話はない。でも不思議と居心地は悪くない。


 ——と。


 視界の端で、ゼルギウス様の箸が動いた。

 自分の皿から肉を一切れ、私の皿に移している。


「……ゼルギウス様?」


「医官は体力がいる」


 それだけ。目も合わせない。


(……合理的な判断、ということにしておきましょう)


 肉を一切れ食べた。分厚い。自分の皿のものより明らかに大きい切り方だ。


(これ、最初から大きく切ってあったのでは? いえ、考えすぎね)


 向かいの席で若い兵士が口元を押さえて笑っているのが見えた。何がおかしいのかは、わからなかった。


 食後に出てきた蜂蜜漬けの木の実を口に放り込んで、思わず頬が緩んだ。辺境の蜂蜜は花の香りが濃くて美味しい。


(甘いものがあるだけで、少し幸せな気持ちになれるのだから。人間は単純だ)



 ◇



 その夜。


 医務室の扉を叩く音で、薬草の整理作業を中断した。


「どうぞ」


 入ってきたのはゼルギウス様だった。

 珍しい。この人が自分から医務室に来ることはほとんどない。


「治療を頼みたい」


「どこを——」


 答える代わりに、ゼルギウス様は上衣を脱いだ。


 背中。


 広い背中に、傷跡が走っていた。

 左の肩甲骨の下から右の腰にかけて、斜めに。幅のある、深い傷の痕だ。完全には塞がっていない。赤黒い組織がところどころ盛り上がり、皮膚が引きつれている。


「三年前の傷だ。軍医には手に負えないと言われた」


 三年。三年間、この傷を抱えたまま剣を振るっていたのか。


「……拝見します」


 近づいて、傷に手をかざした。金色の光が指先から滲む。

 傷の深さを探る。表面だけではない。筋肉の層まで損傷が及んでいる。通常の治癒魔法では確かに難しい。


 でも——私の光は、深部に届く。

 なぜ届くのかはわからない。けれど前の兵士の治療のときも、子供たちの治療のときも、私の光は他の治癒師には届かない場所に届いた。


 治療しながら、頭の中に浮かぶ知識に従う。


(損傷した筋繊維を再構築して……瘢痕組織を分解して……新しい組織に置き換える)


 時間がかかった。

 沈黙の中で、金色の光だけが二人の間を照らしている。


「この傷——」


 私は口を開いた。治療しながら話すのは集中を要するけれど、この沈黙をこのままにしておけなかった。


「戦闘で?」


「ああ」


 短い返事。それだけで終わるかと思った。


「三年前の北方討伐だ」


 続いた。


「森の中で魔物の群れに囲まれた。判断を誤った。退却の指示が遅れた」


 声に感情がない。事実を報告するような口調。でもそれは、感情がないのではなく、感情を殺しているのだと——もう、わかる。


「部下を三十人失った」


 手が震えた。

 光が揺れる。慌てて集中を戻す。


「俺が一秒早く退却を命じていれば、あの三十人は死ななかった」


 三十人。名前のある、家族のある、三十人の人間。

 この人はその重さを、三年間この傷と一緒に背負っている。


「——ゼルギウス様」


 何か言わなければと思った。でも「あなたのせいではない」なんて軽い言葉は、この人には届かない。


 だから私は、手を動かし続けた。光を注ぎ続けた。

 この傷を治す。それが今、私にできる唯一のことだ。


 治療が終わりに近づいた頃、私の手が震え始めた。魔力の消耗ではない。ゼルギウス様の痛みを、自分の体で感じてしまったのだ。


 震える手の上に、大きな手が重なった。


 ゼルギウス様の手だ。


 四話の夜とは逆。あのときは彼が私の手を握った。今度は彼が、私の手の上に自分の手を置いている。


「……お前の手は温かいな」


 小さな声だった。独り言のように小さな。


 聞き返す前に、手が離れた。ゼルギウス様は上衣を着直して、「すまなかった」とだけ言って医務室を出ていった。


 一人残された医務室で、私は自分の右手を見つめた。

 まだ温かい。彼の手の温度が残っている。


(……温かいのは、あなたの手の方です。ゼルギウス様)


 声には出さなかった。



 ◇



 王都。ヘルダーリン侯爵邸。


 書斎の窓から夕陽が差し込む中、侯爵は報告書を読んでいた。


 辺境伯領からの定例報告。その末尾に、一行だけ付記がある。


『なお、流刑囚ベアトリクス・フォン・ヘルダーリンは、グレーフェンベルク辺境伯の裁量により、領地医療顧問に任命された旨、ここに報告する』


 報告書を持つ手が、微かに震えた。


「……あの子に、そんな才が」


 声は誰にも聞こえない。書斎には侯爵一人だ。


 机の引き出しを開けた。奥にしまい込んだ小さな肖像画。十五の誕生日に描かせた、娘の肖像。亡き妻によく似た顔が、こちらを見ている。


 侯爵はそれを見つめ——引き出しを閉じた。


 まだ、見ることができなかった。

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