第6話 覚王山カツ丼怪異
私は覚王山には出る。
これは大きな例外である。
私は基本的に、女子大小路から出たくない。栄へ出るのも面倒だし、名駅は出口が多すぎるし、名駅より西には豊臣秀吉の匂いがする。東へ行きすぎると徳川家康の泥臭さがある。移動とは、地理だけでなく歴史的圧力も受ける行為なのだ。
その点、覚王山は少し違う。
覚王山には、日泰寺の参道がある。
そして、参道にはやたら美味いカツ丼屋がある。
人間には信仰が必要である。私の場合、それは玉子で閉じた豚肉だった。
朝、怪異IT相談所の問い合わせフォームには、昨夜のメールが残っていた。
件名:覚王山の件
本文:追憶カツ丼を食べたあと、知らない記憶が戻ります。
差出人:匿名希望
私はそのメールを何度も読んだ。
追憶カツ丼。
たいへん嫌な字面である。
追憶も嫌だし、カツ丼は好きだ。好きなものに嫌なものが乗っている。これはよくない。親子丼に議事録が乗っているようなものだ。いや、たとえが悪い。議事録は何に乗っていても嫌だ。
添付画像があった。
メニュー表の写真だった。
追憶カツ丼
卵とじ・味噌汁・香の物・失くした記憶つき
税込九百八十円
安い。
いや、安くはないが、記憶つきで九百八十円なら安いのかもしれない。記憶の相場を私は知らない。知らないが、失くした記憶が戻るというのは、たいへん危ない。人間が失くしたものには、失くすだけの理由がある場合がある。
私は返信した。
瀬戸口です。
食後に戻った記憶の内容、発生時刻、同行者の有無、注文したメニューの写真があれば送ってください。
なお、知らない記憶を安易に自分のものと判断しないでください。
送信してから、最後の一文がかなり嫌だと思った。
知らない記憶を自分のものと判断しないでください。
そんな注意書きが必要な仕事をしているのか、私は。
必要なのだろう。
必要だから、メールに書いたのだ。
十分後、返信が来た。
食後に、知らない女性と参道を歩いた記憶が戻りました。
自分の記憶ではないと思います。
でも、泣きそうになりました。
店の人に聞いたら「よくあります」と言われました。
よくあるんですか?
よくあってたまるか。
私は画面に向かって、そう言った。
声に出すと、少しだけ安心する。現実を叱った気分になるからだ。現実は叱られても直らないが、こちらの精神衛生には多少効く。
ノックがあった。
私は返事をした。
扉は返事を言い終える前に開いた。
榊原小夜子である。
最近、私はこの人の入室に驚かなくなってきた。驚かないことに危機感を覚えている。
「おはようございます」
「返事の途中で開けるのは、返事を待ったことになりますか」
「半分ほど」
「半分では足りません」
「善処します」
「善処の二段階認証が通っていません」
榊原さんは少しだけ首を傾げた。
今日も黒い服だった。黒いワンピースに薄い羽織。手には紙袋。私は紙袋を見た。
匂いがしない。
逆に怖い。
「差し入れです」
「何ですか」
「鬼丸様から」
「嫌な予感がします」
「お礼だそうです」
紙袋の中には、古い小判が一枚と、なぜか割れたスマホケースが入っていた。
「スマホケースは何ですか」
「割れたので、見せたかったのでは」
「見せなくていいです」
「端末をよく割られる方ですから」
「白河さんの言った通りですね」
「白河さんは、だいたい正しいです」
「それも怖いですね」
私は小判だけ引き出しに入れた。
スマホケースは机の端に置いた。捨てると拾われそうだったからだ。最近、私は捨てるという行為に慎重になっている。よくない。ゴミとの関係が複雑になる。
「覚王山ですね」
「また廊下が噂を?」
「今回は、ログ語りが」
「いない時に喋りますね、あれ」
「いますよ」
榊原さんが複合機の方を見た。
私は見た。
ログ語りがいた。
黒い影が、複合機の横で少し斜めになっている。いつからいたのか分からない。分からないものが増えすぎている。
「朝から出ないでください」
「記録に朝も夜もありません」
「あります。人間にはあります」
「人間側の都合ですね」
「私は人間側です」
ログ語りは、いつものように静かに長く喋り出そうとした。
私は先に手を上げた。
「結論からお願いします」
「覚王山へ行くべきです」
「なぜ」
「食べなければ分かりません」
「最悪の調査方法ですね」
「食物に紐づいた記憶は、摂取しなければ再現しません」
「再現条件が食事」
「はい」
「嫌いではないですが、嫌です」
榊原さんが言った。
「お好きですよね、カツ丼」
「好きです」
「では」
「好きなものを怪異にするなという話です」
私は椅子にもたれた。
覚王山。
日泰寺の参道。
やたら美味いカツ丼屋。
行く理由はある。むしろ行きたい。だが、行きたい現地確認は、それはそれで嫌だった。仕事と欲望が混ざると、経費精算の気持ちになる。
私は財布を開けた。
中身を見た。
閉じた。
「予算がありません」
「経費では」
「怪異IT相談所の経費規程は未整備です」
「作ればよいのでは」
「カツ丼を経費にするために規程を作る人間にはなりたくありません」
「もう近いと思います」
私は聞かなかったことにした。
昼前、私は事務所を出た。
珍しく自発的に出た。
これは大きなことだ。
榊原さんはついてこなかった。大家なので、という先制もなかった。少し拍子抜けした。私はすでに、誰かがついてくることを前提にしているのかもしれない。よくない。
ログ語りはもちろんついてこない。
ついてきたら困る。影を連れて日泰寺の参道を歩くのは目立つ。いや、参道にはわりと変な人もいるので、案外目立たないかもしれない。そう考えた自分が嫌だった。
地下鉄に乗った。
私は移動が嫌いだが、地下鉄はまだ許せる。決まった線路を走るからだ。人間が迷う余地が少ない。名駅のように出口で増殖しない限り、まだ文明である。
覚王山で降りる。
地上に出ると、空気が少し変わる。
女子大小路の夜の湿り気とは違う。こちらは昼の顔をしている。店先に小物が並び、参道を歩く人がいて、どこかに線香の気配がある。神仏的信仰心はない。ないが、参道の空気には、何かを受け入れている感じがある。
私は日泰寺の方へ向かった。
途中で、例のカツ丼屋が見えた。
のれんが出ている。
営業中。
私は少し安心した。
この街では、営業中という表示すら信用しきれない。閉店済みなのに営業する店もある。営業中に本当に営業しているだけで、かなり偉い。
店は古い。
狭い。カウンターと小さなテーブル。壁に短冊メニュー。油の匂い、出汁の匂い、少し焦げた醤油の匂い。店内のテレビは音量が小さく、昼の情報番組を流している。知らないタレントが笑っていた。平和である。
平和すぎる場所には、怪異が混ざると目立つ。
私は席に座った。
水が出た。
水は普通だった。
普通の水はありがたい。
「ご注文は」
店主が言った。
六十代くらいの男性。白い割烹着。額に汗。声は低い。妖怪には見えない。見えないから安全とは限らない。
「カツ丼を」
「普通の?」
「普通の、とは」
「普通のカツ丼か、追憶か」
「分け方が嫌ですね」
「最近は聞くようにしてるんで」
店主は当たり前の顔で言った。
最近は聞くようにしている。
つまり、以前は聞いていなかったということだ。
「追憶カツ丼とは」
「食べると、何か思い出すやつ」
「雑」
「味は同じ」
「記憶がつくんですよね」
「つく時もある」
「つかない時も」
「ある」
「選べますか」
「選べない」
「それは困ります」
「記憶なんて、だいたい選べんでしょう」
妙に正しいことを言われた。
私は困った。
正しいことと、安全なことは違う。
「普通のカツ丼で」
「はいよ」
店主は厨房へ戻った。
私は勝ったと思った。
追憶を避けた。普通のカツ丼を注文した。私は欲望と仕事を切り分けた。たいへん理性的である。
水を飲んだ。
店内を見回す。
壁の短冊に、追憶カツ丼の文字がある。
追憶カツ丼 九八〇円
戻る記憶は選べません
混雑時は提供できません
泣いた場合はおしぼり一枚まで
おしぼり一枚まで。
現場運用がある。
嫌だ。
怪異に現場運用があると、急に逃げにくくなる。
隣の席に、老婆が座っていた。
いつからいたのか分からない。
いや、最初からいたのかもしれない。私はメニューに気を取られていた。
老婆は小柄で、薄い紫のカーディガンを着ている。前にカツ丼の丼がある。半分ほど食べていた。
老婆は私を見ずに言った。
「初めてかね」
「何がでしょう」
「思い出しに来たの」
「違います。調査です」
「それも思い出しに来た人がよく言う」
私は嫌な顔をしたと思う。
老婆は笑った。
「何も思い出さん方がいい時もある」
「では、なぜ食べるんですか」
「忘れたままだと、味が薄くなるからね」
意味が分かるようで分からない。
こういう言葉は危険である。分かった気にさせてくる。
私は水を飲んだ。
カツ丼が来た。
湯気。
玉子。
出汁。
カツ。
三つ葉。
味噌汁。
香の物。
完璧だった。
私はまず匂いを吸った。
これは信仰である。
神仏的信仰心はないが、出汁にはある。
「普通のカツ丼ですか」
「普通の」
店主が言った。
私は確認した。
「追憶ではないですね」
「普通の」
「本当に」
「食べりゃ分かる」
この店の人間は、説明をすぐ食事に戻す。
正しい。
食事処としてはたいへん正しい。
私は箸を取った。
食べた。
うまい。
非常にうまい。
出汁が少し甘く、玉子は固まりきっておらず、カツの衣に汁がしみている。米が熱い。豚肉は厚すぎず薄すぎない。カツ丼は、豪華すぎると違う。カツ丼には、少しだけ町の食堂であることが必要だ。
私は二口目を食べた。
その瞬間、知らない廊下が見えた。
白い廊下だった。
古い木造の廊下。窓の外は昼。制服の女子学生が数人、笑いながら歩いている。誰かが「帰りに真珠寄る?」と言った。別の誰かが「門限あるよ」と言った。廊下の先に、薄い光がある。
私は箸を止めた。
店内に戻る。
テレビ。店主。老婆。水。
私はカツ丼を見た。
「普通では」
店主は厨房から言った。
「普通だよ」
「今、知らない廊下が見えました」
「じゃあ、当たりだ」
「普通とは」
「追憶じゃない普通でも、たまに当たる」
「それを普通と言うな」
隣の老婆が笑った。
「いい日に来たね」
「よくありません」
「カツがいい日に揚がっとる」
「怪異の当たり日みたいに言わないでください」
私はスマホを出した。
記録する。
発生条件。普通カツ丼。二口目。視覚記憶。旧女子大らしき廊下。音声あり。門限、スナック真珠への言及。
仕事をすると落ち着く。
食事中に仕事をするのはよくない。
しかし怪異中に食事をしているのだから、すでにだいぶよくない。
もう一口食べた。
今度は、日泰寺の参道だった。
今より少し古い。店先の並びが違う。雨上がり。若い男が傘を持って立っている。女が小走りで来る。二人は何か言う。言葉は聞こえない。ただ、女が笑う。男は安心したような顔をする。
私はまた戻った。
自分の手を見る。
箸を持っている。
カツ丼はうまい。
非常に困る。
怪異がまずければ、対応は簡単だ。食べなければいい。だが、うまい怪異は危険である。人間はうまいもののためなら、多少の不具合を許す。
私はすでに許しかけていた。
「店主さん」
「はいよ」
「これは、いつからですか」
「先代の頃から少しあった」
「少し」
「最近、増えた」
「なぜ」
「知らん」
「知らんで出してるんですか」
「出るもんは出る」
「料理みたいに言わないでください」
「料理だし」
店主は味噌汁を追加で置いた。
頼んでいない。
しかし、ありがたい。
味噌汁は逃げ場になる。
「記憶が戻るのは、この店に来た人のものですか」
「たぶんね」
「たぶん」
「昔からの客、参道を歩いた人、日泰寺に来た人、店先で待った人。そういうのが、出汁に混ざるんだろ」
「混ざってはいけないものでは」
「でも、うまいだろ」
「うまいです」
「なら、困るな」
「本当に困ります」
老婆が言った。
「私のも、たまに出るよ」
「出していいんですか」
「全部じゃないしね」
「全部だったら」
「食べきれん」
私は少し黙った。
記憶を食べきれない。
変な言葉なのに、少し分かる。
人間には、食べきれない記憶がある。残すしかないものがある。捨てても戻る。閉店しても予約が入る。存在しない部屋に保存される。名前だけでも帰ってくる。
この店では、それがカツ丼に混ざる。
やめてほしい。
しかし、うまい。
そこが最悪である。
私は三口目を食べた。
今度は、自分の記憶だった。
会社の明かり。深夜。モニタの青白さ。障害対応。チケット一覧。誰かが「瀬戸口さん、まだいます?」とチャットで送ってくる。私は返信する。「います」。本当は、もういなかった。気持ちの上では、とっくに退勤していた。
画面には赤いエラーが並んでいた。
復旧見込み未定。
原因調査中。
暫定対応。
暫定対応。
暫定対応。
その文字を見た瞬間、胃のあたりが重くなった。
店内に戻った。
カツ丼の湯気が上がっている。
私は箸を置いた。
「……自分のも出るんですね」
「そりゃ出るよ」
「頼んでません」
「普通のカツ丼でも、自分で持ってきたもんは入る」
店主は何でもないことのように言った。
私は水を飲んだ。
自分で持ってきたもの。
それは困る。
知らない記憶より、自分の記憶の方が厄介なことがある。知らない記憶は調査対象にできる。自分の記憶は、調査しているふりをしても当事者である。
スマホが震えた。
榊原さんからだった。
どうですか。
カツ丼は。
私は返信した。
うまいです。
問題です。
すぐ返ってきた。
でしょうね。
腹が立つ。
だが、正しい。
私はもう一度カツ丼を見た。
残すか。
食べるか。
食べた。
人間は弱い。
四口目は、白河玲子さんだった。
広小路のホテルのガラス扉の向こう。白河さんが客に頭を下げている。見慣れた光景のはずだった。だが、少し違う。視点が私のものではない。私はホテルの外ではなく、中にいる。ロビーの奥から、白河さんの横顔を見ている。
白河さんは、誰かに言っていた。
「お名前が戻らない場合は、無理に名乗らなくても構いません」
相手は見えない。
ただ、白河さんの声だけが聞こえた。
「ただし、ここに泊まる間だけは、呼ばれてもよい名前をひとつ決めてください」
私は戻った。
箸を落としかけた。
いまのは何だ。
私の記憶ではない。
白河さんの記憶でもないかもしれない。ホテルの誰かの記録かもしれない。
私はカツ丼を見た。
「店主さん」
「はいよ」
「このカツ丼、広小路の記憶も出ますか」
「出る時は出る」
「範囲が広すぎます」
「出汁は広いからな」
「出汁に地理を持たせないでください」
老婆がまた笑った。
「若い人は大変ね」
「若くはありません」
「若いよ。追憶を嫌がるうちは」
「嫌がらなくなったら」
「常連になる」
私は常連になりたくない。
すでに普通のカツ丼の常連ではある。
追憶の常連にはなりたくない。
しかし、普通と追憶の境界が曖昧になっている。
よくない。
食べ終えた。
完食してしまった。
調査だから仕方ない。
仕方ないと言うには、かなり積極的に食べた。
会計は九百八十円だった。
「普通のカツ丼では」
「今日は当たりだったから」
「当たり料金」
「追憶分」
「注文していません」
「戻ったろ」
「戻りました」
「じゃあ、追憶分」
「商売が強い」
私は払った。
領収書をもらった。
宛名は怪異IT相談所にした。
ついに、カツ丼を経費にする人間になってしまった。
戻れないところまで来た気がする。
店を出ると、参道の空気が少し違っていた。
昼なのに、少し夕方のような色をしている。店先に並ぶ品物の輪郭が古い。行き交う人の服が一瞬だけ昔のものに見える。すぐ戻る。
私は歩いた。
日泰寺の方へ行くつもりはなかった。
だが、足が少しそちらへ向いた。
信仰心はない。
ただ、食後に参道を歩くのは自然な流れである。自然な流れというものには逆らいにくい。
参道の途中で、白河玲子さんがいた。
私は止まった。
止まってしまった。
不審者である。
だが、白河さんは私に気づいて、普通に会釈した。今日はホテルの制服ではない。淡い色のブラウスに、濃い色のスカート。髪はいつも通りきちんとまとめている。手には小さな紙袋を持っていた。
白河さんが覚王山にいる。
私はしばらく、現実の処理に失敗した。
「瀬戸口さん」
「白河さん」
「お仕事ですか」
「はい。カツ丼です」
「カツ丼」
「業務上のカツ丼です」
「そうですか」
白河さんは、まったく笑わなかった。
笑わないのに、受け止めている感じがある。
これはよくない。
私の発言が、そのまま通ってしまう。
「白河さんは、なぜこちらに」
「買い物です」
「白壁から?」
「はい」
「移動を簡単に言いますね」
「難しく言った方がよろしいですか」
「いえ、大丈夫です」
白河さんは、参道の方を少し見た。
「あのお店に行かれましたか」
「はい」
「追憶カツ丼を?」
「普通のカツ丼を頼みました」
「戻りましたか」
「戻りました」
「では、追憶ですね」
私は少しだけ黙った。
「白河さん」
「はい」
「あれは有名なんですか」
「知っている人は知っています」
「知らない人は」
「食べてから知ります」
「最悪ですね」
「おいしいですから」
白河さんも言う。
おいしいですから。
この街の人間は、味を盾にする。
強い。
たいへん強い。
「白河さんの記憶らしきものも見えました」
「私の?」
「ホテルで、名前が戻らない人に、呼ばれてもよい名前を決めてください、と」
「それは私ですね」
「やはり」
「その方は、三泊されました」
「人間ですか」
「ご本人は、そう希望されていました」
「希望制なんですか」
「場合によります」
私は言葉を失った。
白河さんは少し首を傾げた。
「瀬戸口さんは、嫌な記憶が戻りましたか」
「少し」
「お仕事の?」
「はい」
「それは、大変でしたね」
短い。
ただそれだけだった。
大変でしたね。
その一言だけで、私は少し困った。
長く説明されるより、効いた。
ログ語りなら、ここで本人性、職能、障害対応、未解決チケットと魂の関連について語るだろう。白河さんは、言わない。
言わないことにも、技術がある。
「でも、カツ丼はうまかったです」
「それはよかったです」
「よくはないです。うまいので、また行くかもしれません」
「では、常連ですね」
「違います」
「まだ?」
「まだでもありません」
白河さんは、少しだけ笑った。
ほんの少しだった。
私はたぶん、その日の調査のほとんどをそこで失った。記録に残せない種類の障害である。
その時、白河さんが紙袋から小さな包みを出した。
「これを」
「何ですか」
「参道の麩まんじゅうです」
「なぜ私に」
「榊原さんから、瀬戸口さんは甘いものに弱いと伺いました」
「大家」
私は受け取った。
両手で。
また両手だった。
勝手にそうなる。
白河さんは静かに言った。
「食べると戻るものもありますが、食べることで今に戻るものもあります」
「それは、白河さんの言葉ですか」
「お店の方の受け売りです」
「そうですか」
「でも、悪くないと思います」
白河さんは会釈して、参道を下っていった。
私はしばらく立っていた。
完全に不審である。
しかし参道には、立っている人もそれなりにいる。ありがたい。覚王山は、棒立ちの人間に寛容である。
事務所に戻ったのは、夕方だった。
移動で疲れた。
カツ丼で重くなった。
記憶で少し削れた。
麩まんじゅうは食べた。
うまかった。
そして、特に何も戻らなかった。
それがいちばんよかった。
複合機の排紙トレイには、予想通り紙が出ていた。
私は触りたくなかったが、触った。
追憶カツ丼:調査継続
対象:覚王山参道
備考:記憶混入あり。味は良好。領収書あり。
私は紙を見た。
「味は良好、じゃない」
廊下の奥から、ログ語りの声がした。
「重要な情報です」
「重要ではありますが」
「再訪可能性に影響します」
「そこまで記録するな」
私は引き出しを開けた。
閉店処理。四〇四処理。鬼丸認証。位置情報障害。
その横に、新しい紙を入れる。
もう、完全に案件管理になっている。
私はため息をついた。
夜、問い合わせフォームに新しいメールが届いた。
件名を見る。
私は少しだけ嫌な予感を覚えた。
覚えたくなかった。
件名:レビューについて
本文:閉店した喫茶店に、毎晩五つ星レビューが投稿されます。
差出人:喫茶跡地の現テナント
私は画面を見た。
閉店した店。
五つ星レビュー。
たぶん狐だ。
なぜか、そう思った。
理由はない。
理由はないが、この仕事を始めてから、理由より先に嫌な確信が来ることが増えた。
「レビューは荒れるんだよな」
私は椅子にもたれた。
天井の蜘蛛が、今日は少し近くにいた。
私は言った。
「お前、星いくつつける?」
蜘蛛は答えなかった。
当然である。
私は明日の自分に、レビュー対応を投げた。




