第5話 池田公園の位置情報がずれる
私は現地確認が嫌いである。
嫌い、という言葉では足りないかもしれない。現地確認には、現地がある。現地があるということは、そこへ行かなければならない。行くには靴を履く。鍵を閉める。階段を下りる。場合によっては人とすれ違う。すべて面倒である。
ITのよいところは、画面越しにある程度のことが済む点だ。ログを見る。スクリーンショットを送ってもらう。エラー文を読む。再起動してもらう。相手が再起動していないのに「しました」と言う。こちらはそれを疑う。そこまで含めて仕事である。
だが、位置情報はよくない。
位置情報は、現地に行かないと分からない顔をする。
とても嫌いだ。
朝、怪異IT相談所の問い合わせフォームには、昨夜のメールがまだ残っていた。
件名:現在地が違います。
本文:池田公園にいるのに、学生寮と表示されます。
差出人:配達員
私は本文を三回読んだ。
三回読んでも、意味は増えなかった。
池田公園にいるのに学生寮と表示される。
それは地図アプリの不具合かもしれない。GPSの誤差かもしれない。基地局のつかみ違いかもしれない。古い地図データが悪さをしているのかもしれない。あるいは、ここ最近の流れから考えると、学生寮がまだ自分を池田公園だと思っていない可能性もある。
最後の可能性は考えたくなかった。
考えたくないものほど、だいたい残る。
私は返信した。
瀬戸口です。
使用端末、地図アプリ名、発生時刻、スクリーンショットを送ってください。
可能であれば、現地での再現条件もお願いします。
三分後、返信が来た。
速い。
速い返信は、たいていよくない。相手が困っているか、相手が怒っているか、相手が人間でないかのどれかである。
今回は、人間ではありそうだった。
たぶん。
端末:Android
地図アプリ:複数で発生
発生時刻:毎日十九時以降
スクショ添付します。
再現条件:池田公園の南側を通ると、現在地が「旧女子大 学生寮」になります。
あと、配達先が勝手に「寮監室」に変わります。
寮監室って何ですか。
寮監室。
その単語だけで、私は少し嫌になった。
学生寮には寮監室がある。たぶんある。私は学生寮に住んだことがないので詳しくない。詳しくないが、寮監室という言葉には、夜、点呼、門限、注意、掲示板、古い鍵、という成分が含まれている。大変よろしくない。
添付画像を開いた。
地図アプリのスクリーンショットだった。中央に青い現在地マーク。その周辺に、薄い灰色の建物名が重なっている。
旧女子大 学生寮
売店
裏門
寮監室
洗濯場
渡り廊下
池田公園は表示されていない。
公園の代わりに、知らない建物がそこにある。
知らない建物なのに、名前だけがやけにはっきりしている。
私は画面を閉じた。
閉じても、頭の中に地図が残った。
かなりよくない。
ノックがあった。
私は返事をしなかった。
扉が開いた。
榊原小夜子だった。
この流れにも、そろそろ正式名称をつけた方がいいかもしれない。榊原式入室、とか。つけても何も改善しないが。
「おはようございます」
「返事を待つ運用は、今日も未実装ですか」
「善処中です」
「善処の進捗は」
「ありません」
「でしょうね」
榊原さんは、今日も黒い服だった。黒いワンピースに薄い羽織。天気や季節にあまり影響されない服装である。私はそういう人を見ると少し不安になる。気温に影響されない人は、ほかの何かに影響されている。
手には紙袋を持っていた。
甘い匂いがした。
危険である。
「差し入れです」
「何ですか」
「ういろうです」
「朝から」
「朝に食べてはいけない決まりはありません」
「ありませんが、ういろうには時間帯を支配する力があります」
「ありますか」
「あります。食べると、そこが土産物売り場になります」
「では、土産物売り場で対応しましょう」
榊原さんは紙袋を机に置いた。
私は食べた。
負けた。
ういろうは思ったより柔らかかった。柔らかいものを食べると、判断も少し柔らかくなる。よくない。
「位置情報の件ですね」
「なぜ知っているんですか」
「廊下で噂に」
「廊下が噂するんですか」
「する日もあります」
「今日は」
「していました」
「最悪ですね」
私はスクリーンショットを見せた。
榊原さんは画面を見て、少しだけ懐かしそうな顔をした。懐かしそうな顔。そこがまたよくない。
「学生寮ですか」
「ご存じなんですか」
「知っているわけではありません。残っているだけです」
「主語を抜かないでください」
「このあたりには、残るものが多いので」
榊原さんは、ういろうの包み紙を丁寧に折った。
この人は、たぶん紙を雑に捨てない。そういうところが逆に怖い。
「現地に行かれますか」
「行きません」
「でも位置情報ですよ」
「リモートでできることから」
「たとえば」
「スクショを集める。端末差を確認する。発生時刻を見る。GPS、Wi-Fi、基地局、キャッシュ、地図データの切り分けをする。現地へ行かない理由を作る。以上です」
「最後が本音ですね」
「全部本音です」
榊原さんは、いつもの涼しい顔で言った。
「十九時以降に発生するなら、十九時以降に現地へ行くのが早いです」
「早いのと良いのは違います」
「よく覚えていらっしゃる」
「あなたのせいです」
私は画面を見た。
十九時以降。
池田公園。
学生寮。
現地確認。
文字列だけで疲れる。
私は天井を見た。蜘蛛がいた。いつもの位置ではない。少し移動している。あいつも現地確認をしているのかもしれない。
「榊原さん」
「はい」
「池田公園は、近いですよね」
「近いです」
「近いということは、行かなくてもいいのでは」
「近いので、行けます」
「同じ事実から逆の結論を出さないでください」
榊原さんは微笑んだ。
微笑まないでほしい。
私は負けた。
依頼人は、夕方に来た。
配達員の名前は黒川透。二十代半ばくらい。痩せている。背中に大きな配達バッグを背負っていた。帽子を脱ぐと、髪が汗で少し額に張りついている。よく働く人の汗だった。
私はよく働く人が少し苦手である。
自分が比較される気がするからだ。
黒川さんは事務所に入るなり、廊下の奥を見た。
「ここ、奥長くないですか」
「気づかない方がいいですよ」
「いや、でも」
「気づいた状態で働くと疲れます」
「そうなんすか」
「そうです」
黒川さんは、たぶん納得していない顔をした。
だが、それ以上は聞かなかった。配達員は、深追いしない技術を持っているのかもしれない。届けるべきものを届け、余計なものは持ち帰らない。たいへん尊い職能である。
私は椅子を勧めた。
黒川さんは座らなかった。立ったままスマホを出した。
「これです。昨日も出ました」
画面には、現在地マークがあった。
地名はこう表示されている。
旧女子大 学生寮・裏門付近
私は見た。
見たくなかったが、見た。
「発生するのは毎日ですか」
「毎日っす。十九時過ぎくらいから」
「昼間は」
「普通に池田公園です」
「配達先が寮監室に変わるのは」
「二回ありました。弁当届けに行ったら、アプリ上は寮監室になってて。でも実際はマンションです」
「マンション名は」
「池田公園の南側の、白いとこです」
「白いとこ」
「すみません、名前覚えてないです」
「配達員が建物名を覚えていないのは」
「アプリが覚えてるんで」
「そのアプリが今、寮監室を覚えています」
「だから困ってるんすよ」
正しい。
たいへん正しい。
私は何も言えなかった。
黒川さんは続けた。
「あと、昨日は配達メモが変わりました」
「どう変わりました」
「置き配指定だったのが、門限後は寮監室へ、って」
「門限」
「はい」
「門限がある配達は嫌ですね」
「めちゃくちゃ嫌っす」
黒川さんはスマホを操作し、スクショを見せた。
配達メモ:門限後は寮監室へ。廊下を走らないこと。消灯後の私語厳禁。
私は眉間を押さえた。
文章が古い。
古いのに、妙に実務的だ。
実務的な怪異は嫌だ。現場の運用に入りこんでくるからだ。
「黒川さん」
「はい」
「今日も十九時以降に配達がありますか」
「あります」
「池田公園周辺で」
「あります」
「できれば、回避していただくことは」
「無理っす」
「ですよね」
「仕事なんで」
「強い言葉ですね」
「仕事なんで」
私は少しだけ目を逸らした。
仕事。
非常に強い。
神仏より強い場合がある。
十九時前、私は事務所を出た。
出たくなかった。
だが、出た。
これは仕事である。
仕事という言葉は、嫌なことをする時に便利だ。便利すぎて怖い。
黒川さんはビルの前で待っていた。配達バッグを背負い、スマホをハンドルのホルダーに固定した自転車を押している。私は歩きである。自転車は嫌いではないが、いま自転車に乗ると逃げたくなるのでよくない。
榊原さんもついてきた。
なぜか。
大家なので、とは言わせないつもりだったが、聞く前に言われた。
「大家なので」
「まだ聞いてません」
「先に」
「先制しないでください」
池田公園へ向かった。
夕方の栄四丁目は、昼と夜の境目である。看板はまだ本気を出していない。店の人が入口を拭き、タクシーがゆっくり流れ、路地の奥から早めの笑い声が出てくる。人は増えているが、まだ酔っていない。酔っていない人間の群れは、妙に現実的である。
私は広い通りを避けた。
テレビ塔が見えるとよくない。見下されるからだ。今日は位置情報に見下されているので、これ以上は不要である。
池田公園の近くに来ると、黒川さんのスマホが震えた。
「出ました」
画面を見る。
地図が、少しずれた。
今まで公園だった場所に、薄い建物線が重なった。白い線。灰色の文字。古い地図のようで、アプリの表示としてはあまりに自然だった。
現在地が変わる。
旧女子大 学生寮・南門
私は立ち止まった。
「南門」
「昨日は裏門でした」
「門が増えていますね」
「困るんすよ。配達口が変わるんで」
「そこなんですね」
「そこです」
黒川さんは真剣だった。
怪異への恐怖より、配達口の変動に困っている。働く人間は強い。強いが、少し危うい。
私は自分のスマホを開いた。
地図アプリ。
現在地は池田公園。
普通である。
別のアプリ。
普通。
ブラウザ地図。
普通。
黒川さんのスマホだけがずれている。
「端末依存か、アカウント依存か、業務アプリ依存ですね」
「直ります?」
「直したい気持ちはあります」
「気持ち」
「今は気持ちです」
榊原さんが、公園の方を見ていた。
「瀬戸口さん」
「はい」
「少し、見えてきましたね」
「何が」
「寮です」
「嫌な報告を自然にしないでください」
私は公園を見た。
最初は何も見えなかった。ベンチ、木、街灯、舗装、近くを歩く人。普通の公園である。
だが、少しだけ目を細めると、木の奥に白い壁のようなものが見えた。見えた、気がした。いや、見えた。二階建てくらいの建物。窓が並んでいる。廊下の明かりが、やけに白い。
池田公園の上に、学生寮が薄く重なっている。
私は目を開け直した。
消えない。
大変よくない。
黒川さんのスマホに、新しい配達指示が出た。
配達先:旧女子大 学生寮 寮監室
備考:門限後の荷物は必ず寮監へ。本人受取不可。
品名:からあげ弁当二個、豚汁一個、紙パック茶。
「弁当が具体的ですね」
「実際の注文です」
「注文者は」
「マンションの二〇三号室です」
「それが寮監室に」
「はい」
「注文者に連絡は」
「しました。普通に『二〇三です』って言ってます」
「寮監ではなく」
「普通の会社員っぽいです」
「会社員がからあげ弁当二個」
「腹減ってるんじゃないすか」
「それはそう」
私たちは、地図が示す方へ歩いた。
池田公園の南側。ビルの隙間。マンションの入口。そこに、本来なら配達先の建物がある。
だが、黒川さんのスマホでは、そこが寮監室になっていた。
マンションの自動ドアの横に、薄く木製の札が見える。
寮監室
私は目を閉じた。
開けた。
まだある。
「榊原さん」
「はい」
「見えます?」
「見えます」
「黒川さん」
「見えます」
「最悪ですね」
「そうっすね」
自動ドアが開いた。
中から、女性が出てきた。
四十代くらいに見える。スーツ姿。手にはスマホ。普通の会社員に見える。たぶん二〇三号室の注文者だ。
だが、その人の後ろに、もう一人いた。
灰色の着物のようなものを着た、背の低い女。髪をきっちりまとめ、手に古い出席簿を持っている。顔はぼんやりしているが、目だけが妙にはっきりしていた。
会社員の女性は、こちらを見て言った。
「配達ですか?」
「はい、からあげ弁当です」
黒川さんが答える。
その後ろで、灰色の女が同時に言った。
「門限後の持ち込みは寮監室へ」
声が重なった。
会社員は気づいていない。
黒川さんは気づいている。
私は気づいている。
榊原さんも、もちろん気づいている。
「本人受取でお願いします」
会社員が言う。
「本人受取不可です」
灰色の女が言う。
黒川さんが困った顔をした。
アプリの画面では、寮監室受取になっている。現実の注文者は、本人受取を希望している。配達員はアプリと現実の板挟みである。怪異が業務フローに入ると、こういう地味な地獄が生まれる。
私は一歩前に出た。
「失礼します。怪異IT相談所の瀬戸口です」
「怪異?」
会社員が眉をひそめた。
当然である。
私も自分で言って眉をひそめたい。
「位置情報の不具合調査です」
「ああ、さっき配達の人が言ってたやつですか」
「はい」
「なんか、寮監室って出てるって」
「出ています」
「ここ、普通のマンションですけど」
「地理上はそうです」
「地理上?」
「心理上は、まだ確認中です」
会社員は少し引いた。
仕方ない。
私も自分で引いている。
灰色の女が、出席簿を開いた。
「門限後の飲食物は、寮監が確認します」
「何を確認するんですか」
「匂い」
「匂い」
「廊下に残ります」
「からあげですからね」
「からあげは、残ります」
「そこは同意します」
灰色の女は、私を見た。
「あなたは寮生ではありません」
「違います」
「職員でもありません」
「違います」
「では、なぜここに」
「業務です」
「業務」
「はい」
「業務なら、記録してください」
そう言って、女は出席簿を差し出した。
私は受け取らなかった。
受け取ると、たぶん何かに記入することになる。記入は危険である。名前を書いた瞬間に所属することがある。この街では特に。
「記録はこちらで行います」
「形式が違います」
「形式は後で合わせます」
「後では困ります」
「現場はだいたい困っています」
灰色の女は、少し黙った。
ログ語りならここで長台詞になるところだが、寮監らしき女は短かった。短い怖さがある。
「門限は守るためにあります」
「守らない人がいるからですね」
「帰る場所を忘れないためです」
私は言葉に詰まった。
帰る場所。
学生寮。
門限。
寮監室。
位置情報がずれる理由が、少しだけ見えた気がした。
ここにかつてあった寮は、帰る場所として記録されている。だから夜になると、帰るべき場所として地図に出てくる。池田公園ではなく、学生寮として。
問題は、そこへ現在の配達アプリが接続してしまっていることだ。
からあげ弁当まで持ち込まれる。
これはかなり現代的な悲劇である。
「黒川さん」
「はい」
「配達完了処理、今できますか」
「寮監室に渡せって出てます」
「本人に渡すと」
「警告出ます」
「見せてください」
画面には、赤い警告が出ていた。
指定場所と異なります。
寮監室に配送してください。
門限後の直接受取は禁止されています。
私は画面を見て、少し腹が立った。
古いルールが、現代のアプリの顔で命令している。
命令形は嫌いではない。仕様がはっきりしているからだ。だが、古い命令が更新されないまま残っているのはよくない。
レガシーである。
この街はレガシーが多すぎる。
「設定を変えます」
「何の設定ですか」
「配送先の解釈です」
私は黒川さんのスマホを借りた。
業務アプリの地図設定を見る。キャッシュを消す。位置情報履歴を見る。Wi-Fiスキャンを見る。近くのSSID一覧を開く。
JOSHIDAI_DORM_ADMIN
JOSHIDAI_DORM_2F
JOSHIDAI_DORM_LAUNDRY
JOSHIDAI_DORM_BACKGATE
私は声に出さないようにした。
出すと負ける気がした。
代わりに、スクリーンショットを撮った。
「榊原さん」
「はい」
「これは電波ですか」
「記憶です」
「電波形式の記憶ですか」
「そのようです」
会社員の女性が、不安そうにこちらを見る。
「あの、弁当……」
「すみません。冷めますね」
私は重要なことに気づいた。
怪異対応中でも、からあげ弁当は冷める。
これは現実である。
現実は強い。
私は黒川さんに言った。
「本人に渡してください」
「でもアプリが」
「私が記録します」
「怒られません?」
「怒られたら、この件は怪異障害として報告してください」
「そんな項目ないっす」
「作ってください」
「無理っす」
私は灰色の寮監を見た。
「寮監さん」
「はい」
「この方は現在の居住者です。寮生ではありません」
「門限後です」
「門限は、帰る場所がある人のための規則です」
「はい」
「この人の帰る場所は、ここです。ただし、寮ではありません」
「……」
「だから、あなたが確認する必要はありません」
「廊下に匂いが残ります」
「からあげですからね」
「残ります」
「それは、換気で対応してください」
灰色の寮監は、私をじっと見た。
表情は分からない。
だが、少し困っているように見えた。
そして、出席簿を閉じた。
「換気は、二十一時までです」
「ありがとうございます」
何に対する許可か分からないが、私は礼を言った。
黒川さんは会社員の女性に弁当を渡した。
アプリには警告が出た。
だが、配達完了ボタンは押せた。
完了。
その瞬間、地図の表示が少し揺れた。
旧女子大 学生寮
の文字が薄くなり、その下から、現在の建物名が出てきた。
ただし、完全には消えない。
薄く残っている。
私はため息をついた。
消えないか。
まあ、消えないだろう。
ここはそういう街である。
灰色の寮監は、マンションの入口横に立っていた。
私は声をかけた。
「あなたは、まだ寮を見ているんですか」
「はい」
「もう寮はありません」
「知っています」
「知っているんですか」
「知っています」
「では、なぜ」
「帰ってくる人がいます」
「誰が」
「名前だけでも」
返す言葉が少し遅れた。
名前だけでも帰ってくる。
女子大小路には女子大がない。
だが、名前だけが残っている。
残った名前に、帰ってくるものがある。
位置情報は、それを拾っていたのかもしれない。
「では、現在地の表示を少し変えましょう」
「変える?」
「はい。あなたの場所を消すのではなく、注釈をつけます」
私は黒川さんのスマホと、自分のスマホを使って、簡易の報告ページを作った。怪異IT相談所のサイト内に、また余計なページが増える。増やしたくない。だが、消すよりはましだ。
ページタイトルを考える。
池田公園周辺の位置情報について
地味だ。
だが、地味でよい。
怪異は派手にすると調子に乗る。
本文を書く。
この周辺では、十九時以降、一部端末・一部アプリにおいて旧女子大 学生寮等の名称が表示される場合があります。現在の配送先・居住先とは異なることがあります。配達・訪問時は、現行の住所および受取人の確認を優先してください。
ただし、かつてこの付近に帰る場所があった人たちの記録として、名称が表示されることがあります。削除ではなく、注釈として扱ってください。
私は少し考えて、最後に一行足した。
門限後のからあげ弁当は、本人受取で構いません。
「最後の一行、必要ですか」
榊原さんが聞いた。
「必要です」
「なぜ」
「現場が困ります」
黒川さんが深く頷いた。
「めちゃくちゃ必要っす」
灰色の寮監は、しばらく黙っていた。
それから、小さく言った。
「廊下は走らないでください」
「それは残します」
「お願いします」
少しだけ、風が動いた。
マンションの入口横に見えていた木札が薄くなる。寮監室の文字は消えたわけではない。見ようとすれば見える。見なければ、ただの壁である。
それくらいでいいのかもしれない。
すべてを消す必要はない。
ただ、現在の生活の邪魔をしない程度に、端へ寄ってもらう。
私は現場対応としては、かなりまともなことをした気がした。
気がしただけかもしれない。
黒川さんのアプリを再確認する。
現在地は、池田公園。
ただし、小さな注意表示が出ている。
旧名称情報あり
「これなら配達できます」
「よかったですね」
「ありがとうございます」
「いえ」
「瀬戸口さん、すごいっすね」
「そういう評価は、あまり大きい声で言わないでください」
「なんでですか」
「仕事が増えます」
黒川さんは笑った。
若い。働く人の笑い方だった。
私は少し疲れた。
帰り道、榊原さんが言った。
「よい対応でした」
「褒めるんですか」
「はい」
「珍しいですね」
「珍しくありません」
「榊原さん、普段から褒めます?」
「必要があれば」
「今日は必要だったんですか」
「少し」
私は池田公園を振り返った。
公園は公園だった。
だが、街灯の向こうに、白い廊下が少しだけ見えた気がした。誰かが廊下を歩いている。学生かもしれない。記録かもしれない。名前だけかもしれない。
もう追わなかった。
追うと、現地確認が増える。
事務所に戻ると、複合機の排紙トレイに紙が出ていた。
出ていると思った。
出ていた。
私は触りたくなかったが、触った。
位置情報障害:暫定対応完了
対象:池田公園南側
備考:旧名称情報あり。門限規則一部残存。からあげ弁当は本人受取可。
私は紙を見た。
最後の一文がある。
あるのか。
残るのか、それも。
私は紙を引き出しに入れた。
引き出しは、もう普通の引き出しではない。だが、普通でないものを普通の顔で使うのが、この仕事なのかもしれない。
夜、問い合わせフォームに新しいメールが届いた。
件名を見る前に、私は嫌な予感がした。
こういう予感は当たる。
当たってほしくない時ほど、当たる。
件名:覚王山の件
本文:追憶カツ丼を食べたあと、知らない記憶が戻ります。
差出人:匿名希望
私は画面を見つめた。
覚王山。
日泰寺の参道。
やたら美味いカツ丼屋。
私は椅子にもたれた。
現地確認である。
だが、今度は少しだけ事情が違う。
人間には信仰が必要である。
私の場合、それは玉子で閉じた豚肉だった。
「……明日は行くか」
言ってから、私は自分で驚いた。
廊下の奥で、誰かが小さく笑った。




