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女子大小路 怪異IT相談所  作者: 堀吉 蔵人


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19/20

第19話 堀川だけは安全だと誰が言った

堀川だけは安全だと思っていた。


 これは、かなり雑な考えである。

 分かっている。

 天白区は天白川が溢れる。

 北区は庄内川が溢れる。

 港区は海が近い。

 中川区は名前からして川である。

 そういう乱暴な分類の中で、私は堀川だけを妙に信頼していた。

 なぜか。

 たぶん、名前が落ち着いているからだ。

 堀。

 川。

 掘られた川。

 人工の感じがする。

 人間が管理できそうな顔をしている。

 自然が怒っているというより、町の中を静かに通っている感じがある。

 だから安全。

 そんなわけがない。

 そんなわけがないのだが、私の中の雑な名古屋地理帳では、堀川は比較的安全な場所として処理されていた。


 だが、怪異は雑な地理帳を許さない。


 朝、怪異IT相談所の管理画面には、昨日作った「名駅西側記録受入欄」がまだ残っていた。

 残っている。

 嫌だ。

 受け入れたものは残る。

 来ていないことにしたものほど、記録には残る。

 名駅西には行っていない。

 行っていないのに、管理画面にはある。

 白河さんから届いた領収書の写真もある。

 封筒の「預」の印もある。

 小さな紙片の「名駅西」「預かり返し」「女子大小路筋」もある。

 行かない場所ほど、記録上は近くなる。

 最悪の観光論は、今日も画面の中で生きていた。


 白河さんから、朝のメッセージが来ていた。


 瀬戸口さん。

 白河家の帳面を確認したところ、「預かり返し」の記録がいくつかありました。

 ただ、返却先は空白のままです。

 また、「会合費」と似た記載もありましたが、会合の内容は書かれていません。

 写真を送ります。


 写真が添付されていた。

 古い帳面。

 墨の文字。

 預かり返し。

 女子部。

 名簿。

 会合費。

 返却先空白。

 金額の欄。

 日付の欄。

 受取の欄。

 ところどころ読めない。


 私は拡大した。

 会合費。

 やはりある。

 だが、隣に小さく別の文字がある。


 帰宅確認

 名簿預

 未了


 私は画面から少し顔を離した。

 会合費。

 帰宅確認。

 名簿預。

 未了。

 これは、あまりよくない。

 会合の費用ではなさそうだ。

 人が集まった費用ではない。

 むしろ、人が帰ったかどうかを確認するための費用。

 名簿を閉じないための費用。

 そんな気配がある。


 返信する。


 写真を確認しました。

 「会合費」は、通常の会合費ではない可能性があります。

 ただ、まだ判断しません。

 帳面は閉じずに保管してください。


 送信。

 すぐ返事。


 承知しました。

 急がず、ただ閉じないようにします。


 白河さんの家の言葉が、こちらにも移ってきている。

 急がず、ただ閉じない。

 よい。

 よいが、少し怖い。

 開けたままのものは、こちらを見る。


 ノックがあった。

 返事をする前に扉が開いた。

 榊原小夜子だった。


「おはようございます」

「堀川です」

「堀川?」

「まだ何も来ていませんが、嫌な予感がします」

「先に言うんですね」

「名駅西の次に堀川が来そうな気がするんです」

「なぜ」

「安全だと思っていたからです」

「それは危ないですね」

「はい」


 榊原さんは今日も黒い服だった。

 手には紙袋がある。


「中身は」

「差し入れです」

「川魚では」

「ありません」

「手羽先では」

「ありません」

「骨は」

「ありません」

「名駅西由来では」

「ありません」

「何ですか」

「梅しそおにぎりです」

「水辺に強そうですね」

「そういう基準ですか」

「今できました」


 梅しそおにぎりを食べた。

 うまい。

 酸味がある。

 さっぱりしている。

 水辺の前にはこれくらいがよい。

 いや、水辺へ行くとは決まっていない。

 決まっていないはずだった。


 複合機が鳴った。

 紙が出る。


 件名:流したログについて

 本文:削除した問い合わせ履歴が、堀川の水面に表示されています。

 差出人:水辺で反省した者


「来た」

「来ましたね」

「堀川です」

「堀川ですね」

「安全ではありませんでした」

「最初から安全とは言っていません」

「私が勝手に思っていました」

「では、瀬戸口さんが悪いですね」

「言い方」


 問い合わせフォームにも同じ文面が届いていた。

 差出人は、水辺で反省した者。

 嫌な名前である。

 反省するなら水辺でしないでほしい。

 水は流す。

 流すものと反省は相性が悪い。

 反省はだいたい流れずに残る。

 残るから反省なのだ。

 流した反省は、反省ではなく、処理である。


 私は管理画面を開きかけた。

 削除ログの再表示を禁止します。

 水面への問い合わせ履歴表示を禁止します。

 未送信メール、レビュー、入力途中の本音を堀川に流さないでください。

 そう書こうとして、手を止めた。


 水面の文字を、禁止で止められる気がしなかった。

 水は、紙ではない。

 画面でもない。

 水面は、欄の外側にある。

 欄を作っても、そこへ入ってくれるとは限らない。

 むしろ、こちらが作った欄の縁を濡らして、文字だけ残していく気がする。


 削除したログが戻ってきたのなら、消したこと自体が用件なのだ。

 消す前に読む。

 読んでから流す。

 たぶん、順番を間違えている。


「書かないんですか」

 榊原さんが言った。


「書きかけました」

「いつもの禁止文」

「はい」

「やめるんですか」

「水に禁止は効きにくそうです」

「そうですね」

「それに、削除したログが戻るなら、消すだけではだめな気がします」

「読むんですか」

「嫌ですね」

「でも、読むんですね」

「たぶん」


 廊下の奥からログ語りの声がした。


「読まれなかったログは、流れません」

「まだ行ってません」

「削除は、読了ではありません」

「出ないでください」

「未読のまま削除された記録は、削除先で滞留します」

「削除先とは」

「水面です」

「勝手に決めないでください」

「記録しました」

「しないでください」


 私はため息をついた。

 読まれなかったログは流れない。

 嫌な言葉である。

 しかし、少し分かる。

 削除したメール。

 閉じたチャット。

 送らなかった返信。

 開かなかった問い合わせ。

 読んでいないのに、処理したことにしたもの。

 それらは、どこへ行くのか。

 ごみ箱か。

 アーカイブか。

 水面か。

 堀川か。

 考えたくない。


 白河さんからメッセージが来た。


 瀬戸口さん。

 ホテル宛てにも、同様の問い合わせが転送されてきました。

 「水に流したログが戻る」とあります。

 当ホテルは水辺ではありませんが、ロビーの案内台に「流し先はこちらではありません」と出ています。

 撤去してよろしいでしょうか。


 私は返信した。


 撤去してください。

 ホテルロビーはログの流し先ではありません。

 ただし、紙や表示を破棄せず、内容だけ控えてください。


 返事。


 承知しました。

 撤去しました。

 内容は控えました。

 破棄はしていません。


 さすがである。

 破棄しない。

 読まずに捨てない。

 白河さんは、もうこちらの処理を少し分かっている。

 それがありがたい。

 少し申し訳ない。


 昼前、私と榊原さんは堀川へ向かった。

 女子大小路から西へ。

 名駅西ではない。

 西だが、名駅西ではない。

 そこは大事である。

 私は自分にそう言い聞かせた。

 堀川は町の中を流れている。

 橋があり、ビルがあり、車が通り、人が歩く。

 水面は、思ったより黒い。

 昼なのに、どこか夜の名残を持っている。

 川は空を映す。

 だが、堀川は空だけではなく、町の裏側も映している気がする。


 依頼者は橋のたもとにいた。

 水辺で反省した者。

 そう名乗るだけあって、反省していそうな顔をしていた。

 ただ、反省している人間は、反省している顔をするとは限らない。

 むしろ、反省していない人ほど反省顔がうまいこともある。

 私はそこを信用しない。


「瀬戸口さんですか」

「はい」

「すみません。消したはずなんです」

「何を」

「問い合わせ履歴です」

「どこから」

「怪異IT相談所への問い合わせフォームです」

「うちですか」

「はい」

「なぜ消したんですか」

「送ったあと、恥ずかしくなって」

「内容は」

「水に流したいことがある、と」

「それを水に流した」

「はい」

「そして戻った」

「はい」


 私は橋の欄干から水面を見た。

 文字が流れていた。

 本当に流れていた。

 水面に、細い光のような文字が浮かび、ゆっくり下流へ向かっている。

 問い合わせフォームの文面。

 送信日時。

 削除済み。

 未読。

 未対応。

 そういうラベルが、水の上を流れる。

 嫌な景色だった。

 ログは画面の中にいるべきである。

 水面にいるログは、裸に見える。


 水面に文字が浮かんだ。


 件名:水に流したいことがあります

 本文:言わなかったことが、ずっと残っています。

 状態:削除済み

 読了:未


 私は目を細めた。


「未読ですね」

「読まないまま消しました」

「それは流れません」

「やはり」

「やはりと言うほど分かっていたなら、消さないでください」

「すみません」

「謝る相手は、たぶん私ではないです」


 水面の文字は、読んだところで少し薄くなった。

 完全には消えない。

 だが、さっきより流れが速くなる。

 榊原さんが言った。


「読んだら流れましたね」

「少しだけ」

「全部読むんですか」

「嫌ですね」

「でも」

「はい」


 水面には、他のログも流れていた。

 問い合わせ。

 レビュー。

 未送信メール。

 入力途中の本音。

 下書き。

 削除済み。

 未読。

 読了なし。

 それらが、堀川の水に沿って、ゆっくり流れずに流れている。

 水は動いているのに、文字は同じ場所に留まることがある。

 そういうログほど、未読だった。


 レビュー狐が、いつの間にか来ていた。

 橋の端で帳面を抱えている。


「レビュー狐さん」

「こん」

「星はつけないでください」

「こん」

「水面ログに星をつけない」

「こん」

「読み物ではありますが、レビュー対象ではありません」

「こん……」


 レビュー狐は少し寂しそうだった。

 だが、今日は星ではない。

 丸もだめだ。

 読まれなかったログが流れるかどうかの話である。

 評価している場合ではない。


 勘定守りも来た。

 算盤を持っている。


「未反省負債」

「計算しないでください」

「流したいことは、流れない間、利子を生む」

「嫌な会計をしないでください」

「読了費」

「出さないでください」

「帰宅確認費」

「今、それを出さないでください」

「会合費」

「やめてください」


 私は水面を見た。

 会合費。

 出た。

 やはり出る。


 水面に、古い文字が浮かんだ。

 白河家の帳面に似た字だった。


 女子大小路会合費

 帰宅確認費

 名簿預かり料

 返却先未記入


「会合費じゃないだろ」

 私は言った。

「それ、ほとんど管理費だ」


 水面の文字は、少し揺れた。

 女子大小路会合費。

 帰宅確認費。

 名簿預かり料。

 返却先未記入。

 同じものが、名前を変えて並んでいる。

 会合費。

 言い換え。

 名目。

 柔らかい名前。

 その下に、帰宅確認。

 名簿預かり。

 返却先空白。

 やはり会合ではない。

 誰かが集まった費用ではない。

 誰かが帰ったかどうかを、集めておく費用だ。


 白河さんに送るべきだと思った。

 だが、今は写真を撮る気になれなかった。

 水面の文字を撮ると、また別の場所に残りそうである。

 残りすぎる。

 私は読むことにした。

 写真ではなく、読む。

 読んだ文字だけが少し流れる。


 榊原さんが小さく言った。


「会合費、少し分かりましたね」

「少しだけです」

「集まる費用ではなかった」

「名前を集めておく費用だったのかもしれません」

「帰宅確認」

「まだ決めません」

「はい」


 水面の文字は下流へ少し動いた。

 完全には流れない。

 返却先未記入の部分だけが、残る。

 そこだけ、川の流れに逆らっているように見えた。


 私は依頼者のログへ戻った。


「あなたの問い合わせ、読みます」

「はい」

「読んでいいんですね」

「はい」

「水に流したいことがある、だけでは足りません」

「分かっています」


 依頼者は、小さく息を吸った。

 水面に続きを浮かべるように、スマホを出した。

 削除したはずの文面が、画面に戻っている。


 件名:水に流したいことがあります

 本文:三年前、同じ職場の人に、いると答えました。

 本当は、もういませんでした。

 私は分かっていました。

 でも、います、と返しました。

 その人は、それで安心して、確認に行きませんでした。


 私は黙った。

 依頼者も黙った。

 榊原さんも黙った。

 堀川の水だけが動いている。

 ログは、思ったより重かった。


「その人は」

 私は言った。


「大丈夫でした」

 依頼者は言った。

「でも、私が確認を遅らせました」

「謝りましたか」

「謝っていません」

「なぜ」

「水に流したかったので」

「流れていません」

「はい」


 私は水面を見た。

 文字はまだ残っている。

 読んだ。

 だが流れない。

 読んだだけでは足りないログもある。

 返信が必要なログ。

 謝罪が必要なログ。

 確認が必要なログ。

 そういうものは、読了だけでは流れない。


 私は言った。


「これは、私が処理するものではないです」

「はい」

「相手に言ってください」

「今さら」

「今さらでも」

「迷惑では」

「迷惑かどうかは、相手が決めます」

「はい」

「水ではなく、人に流してください」

「変な言い方ですね」

「自分でもそう思いました」


 依頼者は笑わなかった。

 ただ、うなずいた。

 スマホを握りしめる。

 水面の文字が少し薄くなる。

 完全には消えない。

 だが、下流へ動き始めた。


 その時、水面に別の文字が浮かんだ。

 見覚えがあった。

 いや、見覚えがありすぎた。


 件名:障害対応

 本文:います。

 送信者:瀬戸口連平


 私は固まった。

 榊原さんがこちらを見た。

 見ないでほしい。

 レビュー狐も見た。

 勘定守りも見た。

 見なくていい。


 水面に、会社員時代のログが浮かんでいた。

 短い。

 ただ一言。


 います。


 私はその文字を知っている。

 忘れていたわけではない。

 忘れたことにしていた。

 夜の障害対応。

 チャット。

 誰かが聞いた。

 瀬戸口さん、まだいますか。

 私は、います、と返した。

 実際には、もういなかった。

 いや、席にはいた。

 画面の前にもいた。

 だが、あの時の私はもう仕事の中にいなかった。

 返事だけがいた。

 身体だけがいた。

 中身はどこかへ行っていた。

 それでも、いますと返した。

 その日からしばらく、私はいますという言葉が嫌いになった。

 それを水に流したつもりでいた。

 流れていなかった。


「瀬戸口さん」

 榊原さんが言った。


「見ないでください」

「見えています」

「なら、読まないでください」

「読めています」

「では、忘れてください」

「それは無理です」


 水面の文字は動かない。

 います。

 短いくせに重い。

 嫌な文字である。

 私は禁止したくなった。

 自分の過去ログの再表示を禁止します。

 水面に会社員時代の返信を表示しないでください。

 瀬戸口連平の「います」を堀川へ流さないでください。

 書きたかった。

 だが、書いてもたぶん流れない。

 これは読まなければいけない。

 読むだけではなく、認めなければいけない。


 私は声に出した。


「います」


 水面の文字が、少し揺れた。


「私は、いますと返しました」

 言葉が喉に引っかかった。

「でも、あの時、もういませんでした」


 堀川の水が、少しだけ動いた。

 文字が薄くなる。

 完全には消えない。

 だが、下流へ流れ始める。


「それでいいんですか」

 榊原さんが言った。


「よくはないです」

「はい」

「でも、読んだので」

「流れましたね」

「少しだけ」


 レビュー狐が帳面を開きかけた。

 私は見た。


「星は」

「こん」

「絶対につけないでください」

「こん……」


 狐は閉じた。

 えらい。

 今日の狐はとてもえらい。


 勘定守りが算盤を弾きかけた。


「未在席負債」

「出さないでください」

「いると言ったのに」

「出さないでください」

「未存在」

「もっと出さないでください」


 私は少し笑ってしまった。

 笑うところではない。

 だが、未存在はひどい。

 自分に似合いすぎていて、少し笑った。

 笑ったら、文字がさらに薄くなった。

 どうやら、少し雑な笑いも流れには効くらしい。

 嫌な仕様だ。


 水面には、まだたくさんのログがあった。

 依頼者のログ。

 私のログ。

 白河家の帳面のような古い文字。

 女子大小路会合費。

 帰宅確認費。

 名簿預かり料。

 返却先未記入。

 未送信メール。

 消したレビュー。

 誰かの本音。

 誰かの嘘。

 全部は読めない。

 全部は流せない。

 それでいいのか。

 分からない。

 だが、全部を禁止して消すこともできない。

 それだけは分かった。


 ログ語りの声が、橋の下から聞こえた。

 廊下ではない。

 今日は水面の下にいるらしい。


「読了は、赦免ではありません」

「水の中から出ないでください」

「読んだものだけが、次の場所へ移ります」

「次の場所とは」

「下流です」

「雑ですね」

「川ですので」

「それはそう」


 ログ語りは、珍しく短かった。

 川だからかもしれない。

 水の中では、長い話も少し流されるのだろう。

 少し羨ましい。


 依頼者は、相手にメッセージを送った。

 短い文だった。

 三年前のことを謝りたい。

 今さらだが、話せるなら話したい。

 それだけ。

 送信した瞬間、水面のログが一つ、すっと下流へ動いた。

 完全には消えない。

 だが、読めないところまで流れていった。


「流れました」

 依頼者が言った。


「水に流れたわけではありません」

 私は言った。

「人に送ったから、流れただけです」

「はい」

「水は、たぶん代わりに謝ってくれません」

「はい」


 依頼者は、深く頭を下げた。

 それから、橋を離れた。

 水辺で反省した者は、水辺から少し離れた。

 よいことだと思う。

 反省は、水辺だけでしない方がいい。


 午後の堀川は、少し明るくなっていた。

 いや、たぶん気のせいである。

 水は相変わらず黒い。

 だが、水面の文字は減っている。

 読んだものが流れたからだ。

 読まれていないものは、まだ残る。

 それも仕方ない。

 急がず、ただ閉じない。

 白河さんの言葉が、ここでも使える気がした。

 水面を閉じない。

 全部を一気に流そうとしない。

 読めるものから読む。

 読めないものは、読める時まで残る。

 それは気持ち悪い。

 だが、正しいのかもしれない。


 その時、水面に大きな文字が浮かんだ。


 女子大小路本会議 第二回


 私は目を閉じた。

 来た。

 来なくていい。

 いや、来るとは思っていた。

 思っていたが、堀川の水面に出るな。


 文字は流れなかった。

 水が動いているのに、そこだけ止まっている。

 第二回。

 会議。

 また会議。

 会合費。

 女子大小路本会議。

 名前が増える。

 会の名前が増える。

 費用の名前が変わる。

 ログが戻る。

 全部、同じ方へ向かっている気がした。


 榊原さんが言った。


「読まないんですか」

「読みたくありません」

「でも」

「今はまだ読めません」

「では」

「残ります」

「残りますね」


 水面の文字は、残った。

 女子大小路本会議 第二回。

 その下に、薄く別の文字が重なる。


 議題:名前の所有者について


 私は見なかったことにしたかった。

 見た。

 見えてしまった。

 名前の所有者。

 嫌な議題である。

 名前は誰のものか。

 地名は誰のものか。

 女子大小路は、誰の名前か。

 白河家が預かった名前か。

 名駅西が返そうとしている名前か。

 堀川に流れない名前か。

 考えたくない。

 だが、考えるしかない。


 白河さんへメッセージを送った。


 堀川の水面に、女子大小路本会議第二回という文字が出ました。

 会合費の件と関係する可能性があります。

 帳面の写真は、急がなくて大丈夫です。

 ただ、閉じないでください。


 少しして、返事が来た。


 承知しました。

 閉じずにおきます。

 それから、こちらの帳面にも「名前預かり」という言葉がありました。


 名前預かり。

 また新しい言葉。

 いや、たぶん古い。

 古い言葉が、新しく出てくる。

 女子大小路会合費。

 帰宅確認費。

 名簿預かり料。

 名前預かり。

 会合ではない。

 金ではない。

 名前を預かっている。

 そこまで来た。

 まだ答えではない。

 だが、近い。


 私は返信した。


 確認しました。

 明日、整理します。

 今は、その帳面を閉じずに保管してください。


 返事。


 承知しました。


 堀川から事務所に戻る頃には、夕方だった。

 橋の上で見た「います」が、まだ頭に残っていた。

 水面からは流れた。

 だが、私の中から完全に流れたわけではない。

 それでいいのだろう。

 完全に流れたら、たぶん忘れる。

 忘れるのと流すのは違う。

 今日は、それだけ分かった。

 それだけでも、かなり疲れた。


 事務所に戻ると、複合機が鳴った。

 紙が出る。


 堀川ログ再表示案件:暫定対応

 対象:削除済み問い合わせ、未送信メール、消去レビュー、会社員時代ログ、女子大小路会合費関連記録

 対応:禁止せず。読めるものから読了。必要なものは本人へ送信。水面ログは一部下流へ移動。

 備考:水は、代わりに謝らない。


 私は紙を見た。

 今日は、この備考でいい。

 水は、代わりに謝らない。

 その通りである。

 水に流すという言葉は便利だ。

 だが、水は謝らない。

 読まない。

 許さない。

 ただ、流れるだけだ。

 流すかどうかは、こちらの仕事である。


 夜、白河さんから写真が届いた。

 帳面の一部。

 名前預かり。

 会合費。

 帰宅確認。

 未了。

 返却先空白。

 まだ読めない文字が多い。

 私は保存した。

 すぐには開かなかった。

 今日はもう、水面で十分読んだ。


 天井を見る。

 蜘蛛がいる。

 今日も何も言わない。


「堀川だけは安全だと誰が言ったんだろうな」


 蜘蛛は答えなかった。

 当然である。

 言ったのは私である。

 私はそれを知っていた。

 知っていて、蜘蛛に押しつけようとした。

 よくない。

 そういうログも、いつかどこかの水面に出るのかもしれない。


 私は少しだけ、蜘蛛に謝った。


「悪い」


 蜘蛛は答えなかった。

 少しだけ足を動かした。


「……今の、聞いてないよな」


 当然、蜘蛛は答えなかった。

 私は天井から目を逸らした。

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