第18話 名駅より西には行きたくない
名駅より西には行きたくない。
これは思想ではない。
方針である。
いや、方針と言うと少し立派すぎる。
習慣である。
もっと正確に言えば、逃避である。
私は名駅より西には行かない。
名駅はまだよい。
人が多い。地下街が複雑。出口が増える。通路が曲がる。案内表示が妙に自信を持っている。そのあたりはよくない。
だが、まだよい。
問題はその西である。
太閤通口。
太閤。
もう名前が強い。
豊臣秀吉がこちらを見ている。
あちらは豊臣秀吉の匂いがする。
私はあの匂いが苦手である。
もちろん、実際に匂うわけではない。
いや、場所によっては匂う。
飲食店もある。車も多い。地下から上がってくる空気もある。
だが、そういう意味ではない。
土地の匂いである。
積もった名前の匂い。
名駅の西側には、私の中で勝手に太閤が立っている。
立たなくていい。
立ってほしくない。
こちらは織田信長の香りくらいがちょうどいいのである。
豊臣秀吉は少し近すぎる。
人の懐に入ってくる。
勝手に草履を温めてくる。
温めないでほしい。
私は自分の草履くらい、自分で冷たいまま履きたい。
白壁は、こちらの雑さを照らした。
名駅西は、こちらの逃げ道を先回りする。
どちらもよくない。
女子大小路は、こちらが雑でも見逃してくれる。
たまに見逃しすぎる。
そこも問題ではある。
だが、少なくとも太閤通口はこちらを向かないでほしい。
朝、怪異IT相談所の管理画面には、白河さんから送られてきた写真が三枚アップロードされていた。
昨日の白壁の屋敷。
屋敷図にない一部屋。
壁に貼られた古い女子学生の名簿。
剥がされた跡。
女子大小路筋。
夜間通行、注意。
写真越しでも、部屋の空気は少し暗かった。
古い紙の匂いが、画面の向こうから来る気がする。
私は画像を拡大した。
剥がされた跡は、やはり何枚かある。
名簿の紙があった場所だけ、壁の色が違う。
そこに針の穴が残っている。
誰かが剥がした。
自然に落ちたのではない。
持ち出された。
そう見える。
白河さんからのメッセージ。
瀬戸口さん。
昨夜、確認できる範囲で撮影しました。
剥がされた跡は、少なくとも三か所あります。
家の帳面では、その部分に何が貼られていたか分かりません。
無理に急がず、ただ閉じないようにします。
私はその最後の一文をしばらく見た。
急がず、ただ閉じない。
よい言葉である。
白壁の家には、そういう扱い方が合う。
静かに開けておく。
それだけで、隠されていたものが少しずつこちらへ来る。
返信する。
写真を確認しました。
剥がされた跡は、後で照合します。
部屋は閉じないままでお願いします。
帳面の年代が分かれば、そちらも見たいです。
送信。
すぐに返事が来た。
承知しました。
ところで、別件ですが、ホテル宛てに妙な領収書が届きました。
宛名は当ホテルではありません。
但し書きに「女子大小路会合費」とあります。
発行元住所が、名駅より西です。
私は画面を伏せた。
伏せても駄目だった。
名駅より西。
来た。
白壁の翌日に、名駅西。
土地が私を試している。
やめてほしい。
もう一通来た。
発行元の店名は、存じ上げないものです。
ただ、領収書の但し書きには、確かに女子大小路とあります。
確認されますか。
確認したくない。
心から確認したくない。
だが、女子大小路会合費。
ホテル宛てではない。
名駅西から来た領収書。
しかも昨日、白壁で女子大小路の古い名簿を見たばかりである。
名前が残り、紙が剥がれ、今度は領収書が届く。
紙ばかりだ。
紙は軽いくせに、妙に重い。
私は返信した。
確認します。
領収書の写真を送ってください。
現地確認が必要かどうかは、内容を見て判断します。
送信してから、自分の文面に嫌な予感がした。
昨日も同じようなことを書いた。
現地確認が必要かどうかは、内容を見て判断します。
その結果、白壁へ行った。
今日は名駅西へ行くのか。
行かない。
絶対に行かない。
写真が届いた。
領収書
但し 女子大小路会合費として
金額 八千八百円
店名と名駅西の住所を、メモに控えた。日付は昨日だった。
昨日。
白壁へ行っていた日である。
私は名駅西には行っていない。
白河さんも行っていない。
榊原さんも、たぶん行っていない。
鬼丸とレビュー狐が昨日どこにいたかは、知らない。
勘定守りは知らない。
いや、勘定守りなら領収書に寄ってきそうではある。
しかし、女子大小路会合費。
会合。
また会合。
会合はよくない。
会議、部会、協議、会合。
どれもよくない。
会とつくものは、だいたい終わらない。
ノックがあった。
返事をする前に扉が開いた。
榊原小夜子だった。
「おはようございます」
「名駅西です」
「名駅西?」
「領収書が来ました」
「行くんですか」
「行きません」
「即答ですね」
「私は名駅より西には行かない。あちらは豊臣秀吉の匂いがする」
「また言っていますね」
「またではありません。方針です」
「方針」
「習慣です」
「逃避では」
「言わないでください」
榊原さんは今日も黒い服だった。
手には紙袋がある。
「中身は」
「差し入れです」
「名駅西由来では」
「ありません」
「手羽先では」
「ありません」
「骨は」
「ありません」
「何ですか」
「天むすです」
「それは名古屋的に少し強い」
「やめますか」
「食べます」
天むすを食べた。
うまい。
小さいのに強い。
名古屋的な圧がある。
しかし名駅西ではない。
たぶん。
いや、天むすの由来を考え始めると危険なのでやめる。
食べ物の由来は、地理怪異の入口である。
「領収書は」
「白河さんのホテル宛てに届きました。でも宛名はホテルではない」
「女子大小路会合費」
「はい」
「発行元は名駅西」
「はい」
「行かずに対応しましょう」
「そうします」
「では、写真と地図で」
「地図は見たくありません」
「地図なしでは」
「無理ですね」
「では地図で」
「はい」
私はパソコンで地図を開いた。
名駅。
東側。
西側。
太閤通口。
見たくない。
見た。
地図上ならまだ耐えられる。
現地ではない。
画面だ。
画面の中なら、土地も少しはおとなしい。
そう思った瞬間、事務所の床が光った。
「……床」
榊原さんが言った。
床に線が走っていた。
薄い灰色の線。
地図の線だった。
事務所の床に、駅の構内図のようなものが広がっている。
名駅。
東西の通路。
地下街。
出口番号。
太閤通口。
線路。
新幹線。
あおなみ線。
見たくない名前が、床に薄く出ている。
「閉じます」
私はパソコンの地図を閉じた。
床の線は消えない。
むしろ少し濃くなった。
「閉じても残っていますね」
「見れば分かります」
「名駅西が来ています」
「来なくていい」
複合機が鳴った。
紙が出る。
名駅西領収書案件
対象:女子大小路会合費
状態:名駅西側地図が事務所へ侵食中
備考:行かない場所ほど、記録上は近くなります。
「最悪の観光論だ」
私は紙を伏せた。
ログ語りより先に複合機が言った。
いや、これはログ語りが言いそうなやつである。
廊下の奥から、案の定、声がした。
「行かない場所ほど、記録上は近くなります」
「もう印刷されました」
「記録上の距離は、物理距離ではありません」
「出ないでください」
「検索、領収書、地図、乗換案内、出口番号。それらは、行かない場所を机上に呼びます」
「呼ばないでください」
「呼びました」
「過去形にしないでください」
私は管理画面を開いた。
名駅西側の地図を、怪異IT相談所の床に展開しないでください。
領収書の確認は、現地訪問ではありません。
女子大小路会合費と名駅西側店舗を自動的に関連づけないでください。
出口番号、太閤通口、地下街通路、線路を物理的に事務所内へ反映しないでください。
公開。
表示。
反映されました。
床の線が少し薄くなった。
だが消えない。
太閤通口という文字だけが、机の前に残っている。
こちらを向いている。
やめろ。
私は領収書の写真を拡大した。
発行元の店名。
聞いたことがない。
名駅西の住所。
小さな判子。
但し書き。
女子大小路会合費として。
筆跡が妙に古い。
昨日の日付なのに、文字だけが古い。
白壁の名簿の文字とは違うが、同じように紙へ残ることに慣れている字だった。
「この店、本当にありますか」
榊原さんが言った。
「調べます」
検索する。
出ない。
地図にも出ない。
住所を入れる。
その場所には、別のビルがある。
飲食店らしきものはない。
ただし、古い地図を重ねると、そこに小さな店の記号が出る。
大正。
昭和初期。
食堂。
旅館。
荷物預かり。
名駅西側。
駅に近い。
太閤口周辺。
「今はない店ですね」
「昔あった?」
「可能性があります」
「昨日の日付で」
「昨日の日付で」
「嫌ですね」
「嫌です」
床の地図が、また濃くなった。
今度は線路が増える。
駅から西へ。
古い道。
今の道路とは少しずれている。
領収書の住所に向かって、床の上に細い道が伸びる。
事務所の椅子の脚を避けるように曲がる。
避けなくていい。
来なくていい。
私は追記した。
古地図を現在の事務所床へ重ねないでください。
名駅西側の過去店舗を、現在の女子大小路へ請求しないでください。
昨日の日付で過去の領収書を発行しないでください。
公開。
線が止まった。
消えはしない。
床の上に、薄い名駅西が残っている。
白河さんからメッセージが来た。
瀬戸口さん。
領収書の宛名ですが、薄く別の文字が見えます。
斜めから見ると、「女子部預かり」と読める気がします。
私は画面を見た。
女子部預かり。
昨日の白壁の部屋にもあった。
女子部より預かり。
名簿一式。
路地名改めの件。
白河家奥にて保管。
今度は領収書に、女子部預かり。
白壁と名駅西が、紙でつながる。
行きたくない場所ほど、記録上は近くなる。
本当に最悪の観光論である。
返信する。
確認します。
その領収書は捨てずに保管してください。
封筒があれば、封筒も見たいです。
返事。
封筒もあります。
差出人欄は空白ですが、消印がありません。
手渡しされた形跡もありません。
ロビーの受付台に置かれていました。
ホテルの受付台。
また受付台。
ホテルの受付台は、怪異の郵便受けではない。
前にも言った。
何度でも言う。
返信する。
受付台を怪異郵便受けとして扱わないでください。
領収書、封筒ともに封入して保管してください。
触る場合は手袋を使ってください。
返事。
承知しました。
手袋で保管します。
白河さんは手袋の運用が自然である。
助かる。
少し怖い。
榊原さんが床を見た。
「線が、女子大小路の方へ伸びています」
「やめてください」
「言っても」
「見れば分かります」
床の名駅西の地図から、細い線が事務所の入口へ向かっていた。
そこから外へ。
女子大小路の方へ。
本来、地図の線は床を這って外へ行かない。
当たり前である。
しかし、怪異は当たり前を少しずつ破る。
名駅西がこちらへ来る。
女子大小路会合費として。
紙と線で。
現地には行っていない。
だが、地図が来ている。
最悪である。
「行かないんですか」
榊原さんが言った。
「行きません」
「でも、来ています」
「来ているなら、ここで対応します」
「強い」
「行きたくないだけです」
「正直ですね」
私は管理画面に新しい項目を作った。
名駅西側侵食ログ
項目。
現在地:怪異IT相談所
侵食元:名駅西側旧店舗
媒体:領収書、古地図、床面表示
関連語:女子大小路会合費、女子部預かり
対応:現地訪問なし。地図の物理展開を制限。領収書は白河さんが保管。
備考:太閤通口はこちらを向かないでください。
公開。
床の「太閤通口」が少し薄くなった。
よし。
しかし完全には消えない。
薄い文字が、まだこちらを見ている。
見るな。
昼前、勘定守りが来た。
いつの間にか扉の前にいた。
算盤を持っている。
「領収書」
「出ましたね」
「八千八百円」
「計算しないでください」
「会合費」
「会合していません」
「未会合費」
「新しい言葉を出さないでください」
「女子大小路が使ったことになっている」
「なっていません」
「名駅西が請求している」
「請求させません」
「距離負債」
「もっと出さないでください」
距離負債。
嫌な言葉だ。
遠い場所を遠いままにしておくことで、何かが溜まる。
行かないことで、逆に近づく。
それが距離負債。
やめてほしい。
しかし、少し分かる。
行きたくない場所ほど、記録上は近くなる。
私はその紙をもう見た。
私は管理画面に追記した。
未会合費、距離負債、名駅西請求、女子大小路会合費の自動精算を禁止します。
領収書は支払い義務を発生させません。
女子大小路は名駅西側旧店舗へ会合費を支払いません。
公開。
勘定守りが算盤を止めた。
「未精算」
「精算しなくていいです」
「未払い」
「払わなくていいです」
「では、保留」
「保留もだめです」
「なし」
「なしです」
「つまらぬ」
「会計はつまらなくていいです」
勘定守りは少し不満そうに帰った。
床の線がまた少し薄くなった。
金の話を止めると、地図の力も弱くなるらしい。
領収書とはそういうものかもしれない。
金額がある紙は、道を作る。
支払い先と支払い元を結ぶ。
その線が、事務所の床に出た。
なるほど。
嫌な納得である。
午後一時、レビュー狐が来た。
帳面を抱えている。
今日は星ではなく、地図記号のような丸を描いていた。
「レビュー狐さん」
「こん」
「名駅西のレビューは」
「こん」
「出ていますか」
「こん……」
レビュー狐は帳面を開いた。
本文:行っていないが近い
星:なし
本文:太閤通口がこちらを見ている
星:なし
本文:女子大小路会合費の味がする
星:なし
「最後は何ですか」
「こん」
「味はしません」
「こん」
「領収書を食べない」
「こん」
私は管理画面を開いた。
行っていない場所を行ったものとしてレビューしないでください。
領収書、古地図、出口番号、太閤通口、女子大小路会合費を味として扱わないでください。
名駅西側旧店舗のレビューを現在の女子大小路に紐づけないでください。
公開。
レビューが消えた。
レビュー狐が丸を描いた。
「こん」
「記録なら可です」
「こん」
レビュー狐は床の地図を見た。
そして、小さく首をかしげた。
「こん」
「どうしました」
「こん」
「近い?」
「こん」
「そうですね。地図上は近いです」
「こん」
「でも行きたくない」
「こん」
「そこを分かってほしい」
レビュー狐には分からなかったようだ。
狐は距離を匂いで判断するのかもしれない。
名駅西の匂い。
考えたくない。
午後二時、白河さんから封筒の写真が届いた。
白い封筒。
差出人なし。
切手なし。
消印なし。
ただ、封の裏に薄く押されたような跡がある。
家紋ではない。
店印でもない。
丸い印。
中に小さく文字。
預
預かり。
女子部預かり。
白河家奥にて保管。
名駅西の領収書。
女子大小路会合費。
線が見える。
嫌な線だ。
白壁の隠し部屋から名駅西へ。
名駅西から女子大小路へ。
女子大小路からホテルの受付台へ。
そして、事務所の床へ。
返信する。
封筒の「預」の印を確認しました。
白壁の覚書にあった「女子部より預かり」と関連する可能性があります。
現物は保管してください。
可能なら、白河家の帳面に「預」印の記録がないか確認をお願いします。
返事。
承知しました。
祖母にも確認します。
なお、家の者からは「預かり物は返すまで終わらない」と言われました。
私は画面を見た。
預かり物は返すまで終わらない。
いい言葉ではない。
かなり嫌な言葉である。
白壁の家が預かっていた名簿。
剥がされた紙。
名駅西から届いた領収書。
返すとは、どこへ。
誰へ。
もういない人へ。
もうない店へ。
今の女子大小路へ。
それとも、名前へ。
榊原さんが言った。
「返す必要があるんでしょうか」
「預かり物なら」
「誰に」
「そこが分かりません」
「名駅西?」
「行きません」
「まだ言う」
「行きません」
床の地図がまた少し濃くなった。
言うたびに濃くなるのか。
それはよくない。
私は黙った。
複合機が鳴った。
紙が出る。
名駅西領収書案件:暫定整理
領収書は、現在の店舗から発行されたものではない可能性。
但し書き「女子大小路会合費」。
封筒裏に「預」印。
白河家隠し部屋の「女子部より預かり」と関連の可能性。
備考:預かり物は返すまで終わらない。
「備考が重い」
榊原さんが言った。
「白壁の家の言葉は重いです」
「名駅西へ行きますか」
「行きません」
「床が」
「分かっています」
床の線が、私の椅子の下まで来ていた。
太閤通口。
出口番号。
古い食堂。
預。
女子大小路会合費。
線が、私の足元で止まっている。
まるで、ここで降りろと言っている。
降りない。
ここは事務所である。
駅ではない。
私は立ち上がった。
「名駅西へは行きません」
「はい」
「ただし、名駅西側の記録をこちらで受けます」
「どういうことですか」
「現地ではなく、記録として扱います」
「いつものやつですね」
「いつものやつです」
管理画面に新しい受け皿を作る。
名駅西側記録受入欄
説明。
この欄は、名駅西側旧店舗、古地図、領収書、預かり印に関する記録を一時的に受け入れる場所です。
記録の受け入れは現地訪問ではありません。
名駅西側の物理的侵入、床面展開、出口番号表示、太閤通口の視線を禁止します。
領収書は請求ではなく、記録として扱います。
預かり物の返却先は未定です。
未定は予定ではありません。
最後の一文を書いてから、嫌な記憶が戻った。
未定は予定ではありません。
手羽先代理戦争の時に使った。
使いたくないが、必要である。
未定は予定ではない。
返却先未定も、返却予定ではない。
公開。
床の線が薄くなった。
太閤通口の文字が消える。
出口番号が消える。
線路が消える。
最後に、細い線だけが残った。
名駅西から女子大小路へ伸びる線。
完全には消えない。
だが、床ではなく、管理画面の中に移った。
よし。
行かずに対応できた。
私は勝った。
たぶん。
「行かずに済みましたね」
榊原さんが言った。
「はい」
「でも、名駅西の方が一歩こちらへ来ました」
「言わないでください」
「来ていない、ということにしますか」
「そうします」
「では、来ていないことに」
「そういう雑な処理が一番助かります」
床の線は消えた。
だが、管理画面には新しい欄がある。
名駅西側記録受入欄。
来ていないことにしたものほど、記録には残る。
それが嫌だった。
白河さんからメッセージが来た。
瀬戸口さん。
領収書と封筒は、保管袋に入れました。
ホテルの受付台には、以後この件の紙を置かないよう表示しました。
ただし、表示が出る前に、受付台の上に小さな紙片がありました。
私は身構えた。
写真が届く。
小さな紙片。
白壁の隠し部屋で見た、剥がされた跡に似た紙。
文字は少しだけ残っている。
名駅西
預かり返し
女子大小路筋
私はしばらく黙った。
名駅西。
預かり返し。
女子大小路筋。
やはり、返す話になっている。
名駅西から来たのか。
白壁から来たのか。
女子大小路から来たのか。
分からない。
だが、三つがつながっている。
床の線は消えた。
しかし、記録の線は残った。
返信する。
その紙片も保管してください。
白壁の剥がされた跡と照合します。
受付台には置かず、封筒と同じ袋に入れてください。
返事。
承知しました。
保管します。
それから、家の者に確認したところ、「預かり返し」という言葉に心当たりがあるそうです。
詳しくは、また確認します。
預かり返し。
新しい言葉。
いや、古い言葉かもしれない。
預かったものを返す。
返されたものをまた預かる。
預かり返し。
それは、終わらない受け渡しではないのか。
嫌だ。
かなり嫌だ。
夕方、床は通常に戻っていた。駅でも地下街でもない。私は椅子を少し引き、床を擦る音を聞いてから座った。太閤通口はどこにも出ない。名駅西へ行かずに済んだ。
ただ、管理画面には名駅西側記録受入欄が残っている。床から追い出した代わりに、見る場所を一つ増やしたわけだ。欄を畳んでも件数は残る。私はそれも確かめてしまい、結局また開いた。
夜、複合機が鳴った。
紙が出る。
名駅西領収書案件:暫定対応
対象:女子大小路会合費/預印封筒/名駅西側旧店舗
対応:現地訪問なし。記録受入欄を作成。床面地図展開を抑制。白河さんが領収書を保管。
備考:行かない場所ほど、記録上は近くなります。
私は紙を見た。
やはり、その備考に戻る。
最悪の観光論。
しかし、今日はそれが正しかった。
行かなかった。
行っていない。
それなのに、名駅西は近くなった。
白壁の一部屋も、女子大小路の名前も、名駅西の領収書も、紙の上では近い。
記録上は、同じ机に置ける。
それが怖い。
白河さんから、最後に一通来た。
瀬戸口さん。
家の帳面を確認したところ、「預かり返し」という言葉は、古い受け渡しの記録に出てくるようです。
ただ、返却先の欄が空白でした。
また明日、写真を送ります。
私は返信した。
ありがとうございます。
無理のない範囲でお願いします。
返却先が空白なら、まだ返さない方がいいです。会合費という言葉も、まだ会合の費用と決めない方がいいと思います。
少しして、返事。
承知しました。
急がず、ただ閉じないようにします。
同じ言葉だった。
急がず、ただ閉じない。
白壁の部屋も。
名駅西の領収書も。
女子大小路の名前も。
閉じない。
だが、開きすぎない。
その加減が難しい。
天井を見る。
蜘蛛がいる。
今日も何も言わない。
「名駅より西には行きたくないよな」
蜘蛛は答えなかった。
当然である。
蜘蛛に名駅西も東もない。
蜘蛛は天井の隅にいる。私はその横に出口番号が浮いていないか、つい確かめた。
「天井までは貸してないからな」
蜘蛛の巣も、許可した覚えはない。そこまで言うと面倒なので黙った。




