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女子大小路 怪異IT相談所  作者: 堀吉 蔵人


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17/20

第17話 白壁の屋敷図が合わない

育ちの良い土地は、こちらの雑さを照らす。


 私はそう思っている。

 これは偏見である。

 かなり強い偏見である。

 だが、偏見とはだいたい本人の中では経験則として処理されているので、なかなか消えない。

 名駅より西には行かない。

 あちらは豊臣秀吉の匂いがする。

 こちら側は織田信長の香りである。

 さらに東へ行くと徳川家康の泥臭さが出てくるので、あまりよろしくない。

 そういうことを言うと、人には変な顔をされる。

 分かっている。

 変なのは私だ。

 しかし、土地には匂いがある。

 実際に匂うわけではない。

 いや、匂うこともある。

 だが、そういう意味ではない。

 場所には、積もったものの癖がある。

 人の歩き方、金の残り方、家の建ち方、道の曲がり方、塀の高さ、木の剪定、表札の沈黙。

 そういうものが、こちらの靴底を見てくる。

 私はそれが苦手だ。


 白壁は、とくに苦手である。

 しかも北だ。女子大小路から北へ行く、というだけで私は少し身構える。北という方角そのものが悪いわけではない。悪いわけではないが、育ちのよい土地へ向かう時、こちらの靴底まで見られている気がする。


 道が静かすぎる。

 塀が長すぎる。

 門が黙りすぎる。

 家が、家というより「家であることに慣れきった何か」に見える。

 こちらが雑な服で歩いているだけで、道の方が少し困る。

 私は、道に困られたくない。

 道にはもっと気楽でいてほしい。

 女子大小路の道など、こちらが少々雑でも気にしない。

 気にしないどころか、向こうも十分雑である。

 そこがよい。

 落ち着く。

 あまり落ち着きすぎるのも問題だが、少なくとも照らされはしない。


 朝、怪異IT相談所の管理画面には、珍しく何も出ていなかった。

 手羽先代理戦争は小康状態。

 骨は出ていない。

 レビュー欄も静か。

 券売機も通常。

 ホテルロビーも通常。

 デナイドの窓側席も、昨日は何も言ってこなかった。

 外兎の券売機に「危険な中立者セット」が再発することもなかった。

 女王ツアーの景品棚に、私の動揺が並ぶこともなかった。

 よいことである。

 非常によいことである。

 普通はすばらしい。

 何もない画面は美しい。


 私はコーヒーを淹れた。

 まずかった。

 いつものことだ。

 うちのコーヒーは、怪異よりも安定してまずい。

 そこだけは信頼できる。


 スマホが震えた。

 白河さんからだった。


 瀬戸口さん。

 ご相談があります。

 ホテルではなく、私の家のことです。


 私は手を止めた。

 ホテルではなく。

 私の家。

 白河さんの家。

 白壁。

 私は画面を伏せた。

 伏せても駄目だ。

 通知は消えない。

 用件も消えない。

 白河さんの家という言葉だけが、机の上に置かれたように残る。


 しばらくして、もう一通来た。


 一部屋、家に覚えのない部屋があります。


 私はコーヒーを飲んだ。

 まずかった。

 だが、そのまずさで少し落ち着いた。

 覚えのない部屋。

 部屋数が合わない。

 これは、かなり古い怪異である。

 ITではない。

 いや、図面や帳面が絡めばITにもなる。

 しかし根は違う。

 家の怪異だ。

 屋敷の怪異。

 白河さんの家。

 白壁。

 行きたくない。

 心から行きたくない。


 返信する。


 詳細を教えてください。

 屋敷図、家系図、古い帳面など、確認できるものがあれば見ます。

 現地確認が必要かどうかは、内容を見て判断します。


 すぐ返事が来た。


 屋敷図、家系図、古い帳面はあります。

 廊下、使用人部屋、蔵、庭の飛び石まで数えました。

 どれを数えても、一部屋多いです。

 お手数ですが、現地で見ていただけますか。


 現地。

 来た。

 白壁。

 私は天井を見た。

 蜘蛛がいた。

 蜘蛛は答えない。

 たぶん白壁にも行かない。

 羨ましい。


 ノックがあった。

 返事をする前に扉が開いた。

 榊原小夜子だった。


「おはようございます」

「白壁です」

「白壁?」

「白河さんの家です」

「行くんですか」

「行きたくありません」

「でも行くんですね」

「行きます」


 榊原さんは今日も黒い服だった。

 手には紙袋がある。


「中身は」

「差し入れです」

「手羽先では」

「ありません」

「骨は」

「ありません」

「何ですか」

「昆布おにぎりです」

「白壁に行く前の庶民性としては強いですね」

「そういう基準ですか」

「今できました」


 昆布おにぎりを食べる。

 うまい。

 塩気。

 海藻。

 米。

 白壁に行く前に、こちら側の足場を固める味である。

 私は少しだけ落ち着いた。


「どういう案件ですか」

「一部屋、家に覚えのない部屋があるそうです」

「屋敷ですね」

「屋敷です」

「白河さんの」

「はい」

「それは、行くしかないですね」

「なぜ」

「白河さんが頼んでいます」

「それはそうですが」

「それ以外に理由はいりますか」

「いります」

「いりますか」

「いります」


 複合機が鳴った。

 紙が出る。


 白河家屋敷図不一致

 対象:白壁の屋敷

 状態:部屋数不一致

 備考:瀬戸口連平、白壁を嫌がる。


「備考」

「また書かれていますね」

「複合機は私情を書きすぎです」


 紙の下に続きがあった。


 現地確認推奨。


「推奨するな」


 私は紙を引き出しに入れた。

 入れたところで、行くことは決まっている。

 白河さんの依頼である。

 行かない理由を考える方が、行くより面倒になってきた。


 昼過ぎ、私と榊原さんは白壁へ向かった。

 女子大小路を背にして、北へ上がる。

 栄の雑さを抜け、久屋大通の広さを横目に、通りの顔つきが少しずつ変わっていく。

 建物の高さが変わる。

 人の声が減る。

 道が、急に自分の品位を思い出したような顔をする。

 嫌だ。

 やはり嫌だ。

 白壁の道は、こちらの靴を見てくる。

 そして「泥は落としてきましたか」と、声に出さずに聞く。

 私は聞かれていないふりをした。


「瀬戸口さん」

「はい」

「歩き方が硬いです」

「土地に見られています」

「土地は見ません」

「見ます」

「そうですか」

「白壁は見ます」

「女子大小路は」

「見ません。あそこは見られる前に見返してくるので」

「難しいですね」

「土地ですから」


 白河家は、長い塀の奥にあった。

 門がある。

 大きい。

 古い。

 しかし、威張ってはいない。

 威張る必要がないものの静けさだった。

 これが一番怖い。

 威張っている家はまだよい。

 反発できる。

 威張っていない立派な家は、こちらの反発を受け取らない。

 ただ、そこにある。

 こちらだけが勝手に小さくなる。


 門の前に白河さんがいた。

 落ち着いた薄い色の服。

 ホテルの制服ではない。

 しかし、やはり背筋がまっすぐだった。

 屋敷の前に立っていると、白河さんは白河さんとして、少し別の輪郭を持つ。

 ホテルの人ではなく、白河家の人。

 そう見えた。


「お忙しいところ、ありがとうございます」

「いえ」

「こちらです」

「はい」


 私は少しだけ頭を下げた。

 榊原さんも頭を下げた。

 白河さんは、門を開けた。

 音が静かだった。

 古い門のくせに、きしみもしない。

 手入れがよすぎる。

 怖い。


 玄関までの石畳。

 庭の木。

 飛び石。

 蔵。

 母屋。

 長い廊下。

 すべてが整っている。

 整っているものは、怪異になると怖い。

 乱雑な場所の怪異は、まだ紛れる。

 整った場所の怪異は、ひとつ乱れただけで目立つ。

 そして目立つということは、そこに意図があるように見える。


 玄関で、白河さんの親族らしき人たちに迎えられた。

 白河さんの叔母。

 白河さんの祖母。

 白河家の管理を手伝っているという年配の男性。

 皆、礼儀正しい。

 とても礼儀正しい。

 こちらが恐縮する隙を与えないほど礼儀正しい。


「瀬戸口様でいらっしゃいますね」

「はい。瀬戸口です」

「このたびは、玲子から無理を申しまして」

「いえ」

「どうぞ、お足元にお気をつけくださいませ」

「ありがとうございます」


 礼儀正しい。

 怖い。

 なぜ怖いのか。

 たぶん、失礼がないからだ。

 失礼がない相手には、こちらの雑さだけが見える。

 私の靴。

 私の鞄。

 私の姿勢。

 私の挨拶の浅さ。

 すべてが、自分で勝手に気になる。

 白壁は人を照らす。

 やはりよくない。


 通されたのは、母屋の奥の座敷だった。

 畳。

 低い机。

 床の間。

 古い掛け軸。

 庭が見える。

 庭の飛び石が、奥へ奥へと続いている。

 その飛び石も数えたという。

 部屋数に関係あるのかは分からない。

 だが、家の怪異では、庭も家の一部である。

 無視すると、だいたい痛い目を見る。


 白河さんが、机の上に資料を並べた。


「こちらが現在の屋敷図です」

「はい」

「こちらが古い屋敷図です。明治の頃のものと聞いています」

「はい」

「こちらが、家の帳面です。部屋の使用記録、修繕記録、蔵の出入りなどが書かれています」

「はい」

「こちらが家系図です」

「はい」


 量が多い。

 しかも、保存状態がよい。

 紙が古いのに、扱いが丁寧だ。

 私は手を洗いたくなった。

 触る前に手を洗った方がいい気がする。

 白河さんは、何も言わずに白い手袋を出した。

 怖い。

 助かる。

 怖い。


「ありがとうございます」

「古い紙ですので」

「はい」


 手袋をつける。

 いよいよ自分が場違いに見える。

 榊原さんは自然だった。

 なぜ自然なのか。

 黒い服と古い家は相性がよいのかもしれない。


 屋敷図を見る。

 現在の母屋。

 座敷。

 客間。

 仏間。

 納戸。

 台所。

 使用人部屋だった場所。

 蔵。

 離れ。

 廊下。

 庭。

 図としては整っている。

 部屋数を数える。

 白河さんが横から説明する。


「現在使用している部屋は、母屋に十二、離れに三、蔵に二。使っていない部屋も含めると二十一です」

「帳面では」

「二十二です」

「一部屋多い」

「はい」


 古い屋敷図を見る。

 こちらも数える。

 母屋の形が今より少し広い。

 使用人部屋が多い。

 蔵の位置も少し違う。

 明治の頃。

 部屋数。

 二十二。

 いや、図では二十一。

 帳面では二十二。

 現在と同じズレ。

 古い。


「最近増えたわけではないですね」

「そう思います」

「いつから?」

「分かりません。ただ、古い帳面にも同じようなズレがあります」

「帳面上の部屋名はありますか」

「あります」

「何と」

「奥女中控え、と」

「今は?」

「そのような部屋はありません」


 奥女中控え。

 言葉が古い。

 家の奥に、人の気配が残る名前である。

 白河家の年配の男性が静かに言った。


「昔は、使用人も多かったと聞いております。ですが、今残っている部屋割りには、その部屋はございません」

「取り壊した記録は」

「ありません」

「改築で消えた可能性は」

「ございます。ただ、改築記録にも合いません」

「なるほど」


 合わない。

 屋敷図、帳面、改築記録。

 全部少しずつ合わない。

 こういう時、怪異はたいてい「どれか一つが嘘」ではない。

 全部が少しずつ本当で、全部が少しずつ隠している。

 家は、人間より長く嘘をつく。

 そして嘘が古くなると、礼儀になる。


「実際に数えましょう」

 私は言った。


 白河さんが頷いた。


 座敷を出る。

 廊下を歩く。

 長い廊下。

 磨かれた床。

 足音が小さく響く。

 白河さんが先を歩く。

 私は後ろを歩く。

 榊原さんがさらに後ろ。

 白河家の年配の男性がついてくる。


 一部屋ずつ確認する。

 座敷。

 客間。

 仏間。

 納戸。

 台所。

 昔の使用人部屋。

 今は物置になっている部屋。

 庭に面した小さな茶室。

 長い廊下の曲がり角。

 襖。

 障子。

 木の柱。

 部屋の名前を聞き、図面と照合し、帳面に印をつける。

 すべて合う。

 すべて合うから、一部屋多いという事実だけが合わない。


 蔵を見る。

 白い壁。

 重い扉。

 中は涼しい。

 古い箱。

 漆器。

 布。

 書付。

 帳面。

 蔵は二つ。

 図面通り。

 帳面にも二つ。

 合う。


 庭に出る。

 飛び石を数える。

 七、十、十二、曲がって十六。

 白河さんが言った。


「飛び石も、古い図面と数が合いません」

「部屋ではないですよね」

「はい。ただ、帳面には庭の飛び石まで記録があります」

「几帳面ですね」

「家の人間は、そういうところがあります」

「でしょうね」


 飛び石の先に、低い塀があった。

 その向こうに、小さな庭の隅。

 木が一本。

 苔。

 古い灯籠。

 庭の端なのに、妙に閉じている。

 私はそこを見た。


「この奥は」

「行き止まりです」

 白河さんが言った。


「図面では」

「庭の端です」

「帳面では」

「特に記載はありません」


 私は飛び石の数をもう一度見た。

 十六。

 古い帳面では十七。

 一つ足りない。

 部屋が一つ多い。

 飛び石が一つ足りない。

 嫌な組み合わせである。


「この庭、昔からこの形ですか」

「大きくは変わっていないと聞いています」

「使用人部屋は、この庭に近かった?」

「はい。古い図面では、母屋の北側に並んでいたようです」


 私は屋敷図を見直した。

 母屋。

 使用人部屋。

 廊下。

 庭。

 蔵。

 飛び石。

 奥女中控え。

 ない部屋。

 足りない石。


「廊下をもう一度見たいです」

「こちらです」


 母屋に戻る。

 使用人部屋だった一角。

 今は物置になっている。

 古い棚。

 箱。

 長持。

 その奥に、壁がある。

 壁。

 ただの壁。

 だが、廊下の長さと外から見た母屋の長さが少し合わない。

 私は廊下に戻り、歩数を数えた。

 白河さんが黙って見ている。

 榊原さんも黙っている。


「外から見るより、廊下が少し短いですね」

「はい」

 白河さんが言った。


「気づいていましたか」

「昨日、数えていて」

「なるほど」

「でも、家の者に言うと、昔からそうだと」

「昔からそう」

「はい」


 昔からそう。

 怪異にとって、とても便利な言葉である。

 昔からそうなら、誰も疑わない。

 昔からあるズレは、ズレではなく習慣になる。

 習慣になった怪異は強い。


 私は壁を見た。

 何もない。

 叩く。

 軽くはない。

 中が空洞という感じでもない。

 しかし、柱の間隔が少し変だ。

 古い家にはよくある。

 よくあるから、余計に分からない。


 白河家の年配の男性が言った。


「そこは、昔から壁でございます」

「昔から」

「はい」

「いつから?」

「私がこちらに入った頃には、すでに」

「何年前ですか」

「四十年ほど前です」

「それ以前は」

「存じません」


 四十年。

 十分長い。

 だが、屋敷にとっては最近である。


 榊原さんが、小さく言った。


「庭の飛び石」

「はい」

「一つ足りないなら、石が壁の向こうにあるのでは」

「嫌なことを言いますね」

「でも」

「あり得ます」


 私は壁の下を見た。

 床板。

 細い隙間。

 埃。

 そこに、小さな白いものがあった。

 骨ではない。

 よかった。

 いや、骨案件ではない。

 紙片だった。

 古い紙の端。

 壁の下から、わずかに出ている。


「触っても?」

 私は白河さんに聞いた。


「お願いします」


 手袋のまま、紙片を引く。

 すぐには抜けない。

 無理に引くと破れる。

 私はやめた。


「壁の向こうに紙があります」

「壁の向こう」

 白河さんの声が少し低くなった。


「はい」

「部屋でしょうか」

「まだ分かりません」


 白河さんの祖母が、静かに言った。


「開けましょう」


 あまりに静かだったので、私は聞き間違えたかと思った。


「よろしいのですか」

「合わないものを、合わないままにしておく方が、家にはよくありません」

「そういうものですか」

「そういうものです」


 礼儀正しい家の人は、決断も静かである。

 それがまた怖い。

 職人を呼ぶかと思ったが、白河家には昔から家を見ているという大工が近くにいるらしい。

 連絡すると、三十分ほどで来た。

 早い。

 白壁の家は、こういう手配まで静かに早い。


 大工は壁を見て、少し眉を寄せた。


「塞いでありますね」

「部屋がありますか」

「部屋かどうかは、開けてみないと」

「いつ頃の仕事ですか」

「古いです。少なくとも、最近ではない」

「開けられますか」

「開けられます。ただし、きれいには戻せません」

「構いません」

 白河さんの祖母が言った。


 大工が作業を始める。

 壁板が外される。

 一枚。

 二枚。

 埃。

 古い木の匂い。

 閉じ込められていた空気が、少しずつ出てくる。

 甘辛でも胡椒でもない。

 古い紙と木と、湿り気。

 家の奥の匂いだ。

 私は息を止めた。

 何となく、吸い込んではいけない気がした。


 壁の向こうに、暗い空間があった。


 部屋だった。

 小さい。

 四畳半ほど。

 窓はない。

 廊下にも庭にも面していない。

 完全に塞がれていたわけではなく、奥に細い換気口のような隙間がある。

 床は古い畳。

 壁には紙。

 びっしりと貼られている。

 名簿だった。


 白河さんが、息を呑んだ。


 女子学生の名簿。

 古い文字。

 学校名。

 年。

 氏名。

 住所。

 備考。

 何枚も貼られている。

 黄ばんだ紙。

 針で留めた跡。

 墨と鉛筆。

 女学生。

 女子部。

 講習科。

 寄宿。

 そういう文字がある。

 その中に、見覚えのある地名が混ざっていた。


 女子大小路。


 今の街の名前ではない。

 古い表記。

 まだ、今のような歓楽街の名ではない頃の名前。

 女学校。

 女子大。

 寄宿舎。

 そこに通った者の名前。

 白河家の屋敷の中に、それが貼られている。


「これは」

 白河さんが言った。


 白河家の祖母は、何も言わなかった。

 ただ、部屋の入口に立っていた。

 礼儀正しい沈黙。

 その沈黙が、今までで一番重かった。


 私は中へ入らなかった。

 勝手に入るべきではない気がした。

 白河さんが先に足を踏み入れた。

 それから、私を見る。


「どうぞ」

「失礼します」


 小さな部屋。

 奥女中控え。

 そう呼ばれていたのかもしれない。

 だが、壁にあるものは、使用人だけの記録ではない。

 女子学生の名簿。

 旧女子大との関係。

 白河家が、かつて何らかの形で関わっていた。

 寄宿先か。

 後援か。

 世話役か。

 教育の支援か。

 あるいは、もっと別のものか。

 まだ分からない。


 壁の一枚に、別の紙があった。

 名簿ではない。

 小さな覚書。


 女子部より預かり

 名簿一式

 路地名改めの件

 白河家奥にて保管


 路地名改め。

 私はそこを見た。

 女子大小路。

 名前が残る。

 名前が変わる。

 路地に名前がつく。

 名前が場所を作る。

 場所が怪異を呼ぶ。

 怪異が記録を残す。

 記録が屋敷の壁に貼られる。

 嫌なほど、つながり始めている。


 榊原さんが、壁の端を見た。


「ここ、剥がした跡があります」

「名簿が足りない?」

「たぶん」

「何枚か持ち出された可能性がありますね」


 白河さんが振り返った。


「持ち出された」

「はい。ここに貼られていた紙が、後で剥がされています」

「誰が」

「まだ分かりません」

「いつ」

「それも」


 部屋の隅に、飛び石のようなものがあった。

 小さな平たい石。

 庭の飛び石に似ている。

 一つだけ。

 屋内に置かれている。

 足りなかった一つ。

 おそらく、これだ。


「庭の石」

 榊原さんが言った。


「ここにありますね」

「飛び石を、部屋の中に」

「道を閉じたんでしょうか」

「あるいは、道をここへ移した」


 白河さんが、石を見た。

 そして、壁の名簿を見る。

 表情は大きく変わらない。

 しかし、目が少しだけ暗くなっていた。


「この部屋は、家の中にあったのですね」

「はい」

「誰も覚えていないのに」

「帳面は覚えていました」

「屋敷図は」

「隠していました」

「家系図は」

「たぶん、まだ別の形で覚えています」


 私は家系図を思い出した。

 白河家。

 尾張徳川家の家老筋。

 古い役割。

 家。

 屋敷。

 女学校。

 女子大小路。

 表に出ない世話。

 名簿。

 預かり。

 路地名改め。

 これは、白河家だけの話ではない。

 女子大小路の名前の話だ。

 この街の、古い記憶の話だ。


 白河家の祖母が、静かに言った。


「玲子」

「はい」

「これは、あなたが見るものかもしれません」

「私が」

「ええ」

「なぜですか」

「あなたが、あちらの街に関わっているからです」

「仕事で、ですか」

「それだけではないでしょう」


 白河さんは黙った。

 私も黙った。

 榊原さんも黙った。

 家の人たちも黙った。

 礼儀正しい沈黙が、部屋に満ちる。

 この家は、何かを知っている。

 しかし、知っていることを大声で言わない。

 それが家の作法なのだろう。

 作法になった秘密は、怪異より面倒である。


 私は壁の名簿を見た。

 読める名前。

 読めない名前。

 墨の薄れた名前。

 住所の欄。

 備考の欄。

 その一つに、小さく書かれていた。


 女子大小路筋

 夜間通行、注意


 私はそこを指差さなかった。

 まずい気がした。

 指差すと、その名前がこちらを見る。

 そういう時がある。

 名前は、指された瞬間に起きる。


 白河さんは、私が見ているところを見た。

 同じ文字を読んだらしい。

 しばらくして、静かに言った。


「女子大小路筋」

「古い呼び方でしょうね」

「夜間通行、注意」

「はい」

「昔から、そういう場所だったのでしょうか」

「今と同じではないと思います」

「でも、注意する場所ではあった」

「おそらく」


 白河さんは、ほんの少しだけ笑った。

 笑ったというより、息を整えた。


「瀬戸口さん」

「はい」

「私の家にも、女子大小路の名前が残っているようです」


 その言葉は、部屋の中で静かに落ちた。

 落ちて、消えなかった。

 骨より静かに。

 匂いより確かに。

 レビューより古く。

 声明より重く。

 名前が残る。

 残った名前は、いつか誰かに読まれる。

 読まれた名前は、また場所になる。


 私は何か言おうとした。

 だが、うまい言葉が出なかった。


「そうですね」

 やっと、それだけ言った。

「残っています」


 複合機はここにはない。

 だから紙は出ない。

 それが少しありがたかった。

 もしここで紙が出たら、きっと余計な備考まで書かれる。

 白河玲子、沈黙。

 瀬戸口連平、場違い。

 女子大小路、残存。

 そういう紙は、今はいらない。


 部屋を出る時、私はもう一度だけ中を見た。

 名簿。

 小さな石。

 塞がれていた壁。

 覚えのない一部屋。

 そこにあるのは、怪異というより、記憶の置き忘れだった。

 だが、置き忘れられた記憶は、十分に怪異になる。


 屋敷を出る頃には、夕方だった。

 白壁の道は、相変わらず静かだった。

 塀が長く、門が黙り、木が整っている。

 こちらの雑さを照らしてくる。

 だが、来た時より少しだけ違って見えた。

 白壁も、何もかも整っているわけではない。

 屋敷図にない部屋を抱えている。

 名簿を隠した壁を持っている。

 飛び石を一つ、家の中にしまっている。

 どれだけ育ちがよくても、家は何かを隠す。

 それなら、少しは話ができる気がした。


 白河さんが門の前で頭を下げた。


「今日はありがとうございました」

「いえ。まだ、何も解決していません」

「はい」

「名簿の確認と、帳面の年代確認が必要です。剥がされた紙があるなら、それも探した方がいいです」

「分かりました」

「あと、あの部屋は、しばらく閉じない方がいいと思います」

「なぜですか」

「閉じると、また数が合わなくなります」

「そうですね」


 白河さんは少し頷いた。


「開けたままにします」

「はい」

「家の者にも、そう伝えます」

「お願いします」


 榊原さんが横で静かに見ていた。

 帰り道、白壁を出て南へ戻り、少し雑な通りに近づいたところで、榊原さんが言った。


「瀬戸口さん」

「はい」

「今日は、白壁に照らされていましたね」

「言わないでください」

「でも、あまり逃げませんでした」

「逃げ道がありませんでした」

「白河さんがいましたから」

「それも言わないでください」

「分かりました」


 分かっていない顔だった。

 私は何も言わなかった。


 事務所に戻ると、複合機が鳴った。

 やはり鳴った。

 紙が出る。


 白河家屋敷図不一致:現地確認

 対象:白壁の屋敷

 対応:塞がれた一室を確認。屋敷図不記載。帳面上の「奥女中控え」と一致する可能性。壁面に旧女子学生名簿。女子大小路筋の記載あり。

 備考:家にも名前は残る。


 私は紙を見た。

 珍しく、余計なことは書いていなかった。

 いや、備考は少し余計かもしれない。

 だが、今日は許す。

 家にも名前は残る。

 それは、たぶん本当だった。


 夜、白河さんからメッセージが来た。


 瀬戸口さん。

 家の者と相談し、あの部屋はしばらく開けたままにします。

 名簿についても、分かる範囲で確認します。

 本日はありがとうございました。


 私は返信した。


 こちらこそ、ありがとうございました。

 名簿の写真は、後日で構いません。

 剥がされた跡がある紙についても、可能なら確認してください。

 無理に急がないでください。


 少しして返事が来た。


 承知しました。

 急がず、ただ閉じないようにします。


 急がず、ただ閉じない。

 よい言葉だと思った。

 怪異にも、家にも、人にも、たぶんそういう扱いが必要な時がある。

 急がない。

 しかし閉じない。

 見えるようにしておく。


 天井を見る。

 蜘蛛がいる。

 今日も何も言わない。


「屋敷図にない部屋って、嫌だよな」


 蜘蛛は答えなかった。

 当然である。

 だが、答えない天井の隅にも、もしかすると私が知らない空間があるのかもしれない。

 そう思ってしまい、私は少しだけ天井から目を逸らした。

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