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女子大小路 怪異IT相談所  作者: 堀吉 蔵人


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15/20

第15話 食べ比べは中立ではない

食べ比べは、中立ではない。


 食べる前は、誰でも中立を名乗れる。

 私はどちらでもありません。

 私は公平です。

 私は味を見て判断します。

 そういう顔をすることはできる。

 だが、食べた瞬間、人間はどこかへ寄る。舌が寄る。胃が寄る。記憶が寄る。財布が寄る。前に誰と食べたか、どのくらい空腹だったか、店の照明が明るかったか暗かったか、隣の席がうるさかったか、会計が高かったか、帰り道が寒かったか。

 全部、味に混ざる。

 だから食べ比べは、中立ではない。

 中立のふりをした、身体の投票である。

 私は投票したくない。

 ましてや手羽先で投票したくない。


 朝、怪異IT相談所の管理画面には、昨夜のデナイド停戦協議の結果が表示されていた。


 手羽先代理戦争:デナイド停戦協議

 実食要求:保留

 次回、実食条件確認

 備考:実食判定ではありません。


 よし。

 私は頷いた。

 実食判定ではない。

 たいへんよい。

 そこだけは守られている。

 昨日の私はよくやった。ドリンクバーに負けず、未判定水を消し、実食要求を保留し、閉会まで持っていった。

 閉会成功。

 あの紙は、今でも少しだけ私の心を支えている。


 だが、安心した瞬間、画面の下に小さく追記が出た。


 ただし、条件確認には実物が必要です。


「出た」


 声に出た。

 実物。

 食べ物を実物と呼ぶな。

 呼ぶなら呼んでもいいが、その実物をここへ持ってくるな。

 実食条件確認と実食判定は違う。そこを昨日、さんざん確認した。勝敗判定ではなく、条件の整理。味ではなく手順。食べるのではなく、食べる場合の枠。

 それなのに、実物。

 言葉が一歩ずつ皿へ向かっている。

 最悪である。


 私は管理画面を開いた。


 実食条件確認において、無断で実物、試料、確認対象物、食べ物、骨、胡椒、甘辛ダレ、紙おしぼり、皿、箸、伝票を持ち込まないでください。

 条件確認は実食判定ではありません。

 勝敗判定は行いません。


 公開。

 三秒後、返信。


 勝敗判定ではありません。

 味覚差分確認です。


「言い換えるな」


 私は椅子にもたれた。

 味覚差分確認。

 聞こえはいい。

 とてもよくない。

 差分という言葉は危険である。システム屋は差分と言われると、つい見たくなる。見なくていい。手羽先の差分など見なくていい。

 見たら終わりである。


 机の引き出しを開ける。

 紙が並んでいる。

 手羽先代理戦争:開戦。

 声明欄暫定整理。

 レビュー欄暫定対応。

 デナイド停戦協議。

 その横に、胡椒と骨の封筒。

 さらに、一枚増えている。


 実食判定会:準備中


「準備するな」


 私はその紙を引き出しから出した。

 出したところで消えない。

 紙には続きがあった。


 参加予定:瀬戸口連平、榊原小夜子、白河玲子、レビュー狐、鬼丸、勘定守り、宇宙の海さん派見届け人、無頼坊主派見届け人

 備考:食べ比べは中立ではありません。


「分かっているならやるな」


 ノックがあった。

 私は返事をした。

 扉は返事の途中で開いた。

 榊原小夜子だった。


「おはようございます」

「手に何を持っていますか」

「紙袋です」

「中身は」

「差し入れです」

「手羽先では」

「ありません」

「骨は」

「ありません」

「胡椒は」

「ありません」

「甘辛は」

「ありません」

「何ですか」

「塩むすびです」

「限界まで中立に寄せました」

「ありがとうございます」


 私は塩むすびを受け取った。

 食べる。

 うまい。

 米と塩。

 人間を基礎に戻す味である。

 こういうのでいい。

 こういうのでいいのに、なぜ世の中は手羽先を宇宙や仁義にしてしまうのか。


「今日、どうしますか」

「実食判定会を阻止します」

「条件確認ではなく?」

「条件確認は守ります」

「実物は」

「出しません」

「出そうですね」

「出そうです」

「もう出ていますか」

「紙には」


 私は紙を見せた。

 榊原さんは読んで、少しだけ首をかしげた。


「参加予定に白河さんが入っています」

「勝手に入っています」

「呼びますか」

「呼びたくありません」

「でも、ホテルに波及しますよ」

「それはそう」

「それに、白河さんは枠を決めるのが上手です」

「それもそう」


 白河さん。

 その名前が出るだけで、少し姿勢を正したくなる。

 私はスマホを手に取ったが、送信する前に震えた。

 白河さんからだった。


 瀬戸口さん。

 ホテルのロビーに「実食判定会 関係者控室」と表示されています。

 当ホテルは関係者控室ではありません。

 表示は剥がしましたが、三秒後に戻りました。


 私は頭を抱えた。

 早い。

 ホテル波及が早い。


 返信する。


 承知しました。

 実食判定会は未承認です。

 関係者控室ではない旨をこちらでも掲示します。

 骨、胡椒、皿、紙おしぼりが出た場合は触らないでください。


 返事。


 現時点では、骨はありません。

 胡椒もありません。

 ただし、案内台に「食べ比べはこちらではありません」と出ています。

 否定文ですが、撤去します。


 判断が早い。

 強い。

 私は返信した。


 お願いします。

 否定文でも案内になります。


 すぐ返事。


 撤去しました。

 戻りません。

 なお、もし必要でしたら伺います。

 食べ物の優劣を、食べていない場で決めるのは無理がありますので。


 私はしばらく画面を見た。

 正論である。

 昨日の正論が、今日も来た。

 食べていない場で決めるのは無理。

 その通りだ。

 その通りなのだが、食べると中立ではなくなる。

 私はそこから逃げたい。

 しかし逃げるほど、怪異は皿を持って追ってくる。


 榊原さんが画面を覗き込んだ。


「来てくださるそうですね」

「そうですね」

「お願いしますか」

「……お願いします」


 私は返事を送った。


 可能でしたら、お願いします。

 ただし、実食判定会ではなく、実食条件確認です。


 白河さんから返事。


 承知しました。

 ただし、食べ物が出た場合は、実食を伴う確認になると思います。


 私はスマホを伏せた。

 正論が迫ってくる。

 たいへん怖い。


 複合機が鳴った。

 紙が出る。


 実食条件確認:議題案

 一、実食判定ではない確認

 二、確認対象物の定義

 三、食べる者の資格

 四、食べない者の権利

 五、勝敗判定の禁止

 六、骨・胡椒・甘辛の持ち帰り禁止

 七、鬼丸の参加可否

 八、確認不能時の処理


「昨日と似ていますね」

「似ています」

「裏は」

「見たくありません」


 榊原さんが裏を見た。


 確認不能時、協議は実食判定会へ移行します。


「やはり」

「見ないでください」

「見えてしまいました」

「見えたものは仕方ないですね」


 廊下の奥からログ語りの声がした。


「食べ比べは、味覚の多数決ではありません」

「出ないでください」

「二つの食物を並べた時、人は味だけでなく、順番、温度、期待、説明、過去の記憶を同時に食べます」

「正しいことを言わないでください」

「ゆえに中立な食べ比べは存在しません」

「それは私が冒頭で考えました」

「記録しました」

「しないでください」


 ログ語りは、時々本当に正しい。

 それが一番困る。

 正しいことは、解決ではない。解決の前に立ちはだかる看板である。そこに「この先、厄介」と書いてある。


 午前十時、手羽先中立委員会からメールが来た。


 件名:本日の確認について

 本文:両派とも、実食条件確認には応じるとのことです。ただし宇宙の海さん派は「食わずに一口目を語るな」と言っています。無頼坊主派は「骨の出ない確認に仁義はない」と言っています。鬼丸さんは「食う」と言っています。助けてください。


 私は返信した。


 瀬戸口です。

 本日は、実食判定ではなく条件確認です。

 勝敗判定は行いません。

 実店舗の商品は使用しません。

 食べ物を持ち込む場合は、事前に確認してください。

 鬼丸さんには食べさせません。


 三秒後、鬼丸からメールが来た。


 件名:なぜ

 本文:なぜ。


 私は返信しなかった。

 鬼丸の「なぜ」は強い。

 腹から来る「なぜ」である。

 理屈では止めにくい。


 午後一時。

 実食条件確認の場は、怪異IT相談所になった。

 デナイドではない。

 ファミレスでやるとドリンクバーが会議を呼ぶ。ホテルでやると傍聴席になる。外兎でやると券売機になる。女王ツアーでやると大当たり演出になる。ヒノキドラッグでやると胃薬が売れる。

 残るのは、うちの事務所しかなかった。

 たいへん不本意である。


 机を片づける。

 片づけても紙が出る。

 私は紙をまとめ、引き出しに入れた。

 封筒二つも出した。

 胡椒。

 骨。

 証拠品である。

 今日はこれを使わない。

 使わないが、あることは確認する。

 存在確認だけで済ませる。

 それが今日の目標である。

 低い。

 かなり低い。

 しかし、低い目標ほど大事な日がある。


 最初に来たのは中立委員さんだった。

 細い男である。

 今日も疲れた顔をしている。

 手には何も持っていない。

 えらい。

 かなりえらい。


「持ち込みはありません」

「ありがとうございます」

「朝から五回確認しました」

「誰に」

「自分に」

「中立は大変ですね」

「はい」


 次にレビュー狐が来た。

 帳面をくわえている。

 星は描いていない。

 えらい。

 かなりえらい。


「今日はレビューなしです」

「こん」

「味も未判定です」

「こん」

「星もなしです」

「こん……」


 少し悲しそうだが、耐えている。

 偉業である。


 勘定守りも来た。

 算盤を持っている。


「未食欲の計算だけ」

「しないでください」

「食べないことにも費用がある」

「ありません」

「空腹は時間を食う」

「嫌なことを言いますね」

「記録する」

「しないでください」


 鬼丸は来なかった。

 安心した。

 と思った瞬間、事務所の扉が重く鳴った。

 来た。

 鬼丸だった。


「来ましたね」

「来た」

「食べ物はありません」

「知っている」

「ではなぜ」

「食う可能性がある」

「ありません」

「可能性はある」

「ありません」

「なら見届ける」

「食べない見届けですか」

「難しいな」

「難しいですね」


 鬼丸は少し縮んで事務所に入った。

 狭い。

 事務所が狭い。

 手羽先もないのに圧がある。


 最後に、胡椒筋の者と骨まわりの者が来た。

 二人とも、手には何も持っていない。

 私はまずそこを確認した。


「持ち込みは」

「ない」

 胡椒筋の者が言った。

「ない」

 骨まわりの者も言った。


「胡椒は」

「持っていない」

「骨は」

「持っていない」

「甘辛は」

「持っていない」

「匂いは」

 二人が黙った。


「匂いは?」

「少し」

 胡椒筋の者が言った。

「残る」

 骨まわりの者が言った。


 匂い。

 禁止し忘れた。

 匂いは持ち物か。

 難しい。

 しかし、たしかに匂う。

 胡椒。

 甘辛。

 油。

 ほんの少し。

 食べ物はない。

 だが、空気が手羽先を思い出している。

 最悪である。


「換気します」


 私は窓を開けた。

 女子大小路の昼の空気が入ってきた。

 油の匂いが少し薄くなる。

 代わりに、古いビルと看板と昼の湿気が入ってくる。

 どちらがよいかは分からない。

 だが、手羽先よりは中立である。


 白河さんが来たのは、その直後だった。

 扉を開ける動作が静かだった。

 入ってきただけで、事務所の空気が少し整った気がする。

 制服ではない。

 落ち着いた私服だった。

 それでも、どこかホテルのロビーの空気を持っている。


「遅くなりました」

「いえ、ありがとうございます」

「現時点で、ホテルに骨は出ていません」

「それだけで助かります」

「ただ、ロビーの案内台に『食べ方講習会はこちらではありません』と出ました」

「また否定文」

「撤去しました。戻りません」

「本当にありがとうございます」


 白河さんは机の上を見た。

 封筒。

 紙。

 中立委員さん。

 レビュー狐。

 鬼丸。

 胡椒筋の者。

 骨まわりの者。

 榊原さん。

 勘定守り。

 この事務所に、よくこれだけ詰め込んだものである。


「食べ物は、まだ出ていないのですね」

「出していません」

「よかったです」

「このまま出さずに終わらせます」

「できるとよいですね」


 できるとよいですね。

 白河さんは静かに言った。

 その静けさが怖い。

 できない可能性を、きちんと含んでいる。


「始めます」


 私は言った。

 言った瞬間、複合機が鳴った。


 実食条件確認を開始しました。


「開始するな」

「もう言いました」

 榊原さんが静かに言った。

「言いましたけど」

「開始ですね」

「言葉は怖い」


 私は紙を一枚出した。

 今日の目的。


 本日は、実食判定ではなく、実食条件確認を行います。

 勝敗判定は行いません。

 実店舗の評価とは切り離します。

 味は未判定のままです。

 食べ物は、原則として出しません。


 白河さんが、最後の一文を見た。


「原則として」

「念のためです」

「そこから入ってきます」

「やはり」

「はい」


 私はペンで線を引いた。


 食べ物は出しません。


 修正。

 これでいい。

 これでよいはずだった。


 その時、電子レンジの音がした。


 ちん。


 事務所に電子レンジはない。


 全員が黙った。

 私も黙った。

 鬼丸だけが、少し顔を上げた。


「今のは」

「電子レンジですね」

 榊原さんが言った。

「うちにはありません」

「では、どこの」

「聞きたくありません」


 もう一度、ちん、と鳴った。

 今度は近い。

 複合機の横に、白い箱があった。

 なかったはずの箱。

 電子レンジである。

 扉の中に、袋が二つ入っている。

 冷凍食品の袋。

 どちらも無地。

 片方には黒い点のシール。

 片方には照りのある茶色いシール。

 書かれている。


 市販品を用いた調味差分確認

 胡椒強め

 甘辛強め

 実店舗とは無関係です


「持ち込まれた」


 私は言った。

 誰も手を上げない。

 誰も持ってきていない。

 だが、ある。

 実店舗とは無関係。

 その文言だけは守っている。

 守っているから余計に腹が立つ。


 胡椒筋の者が言った。


「実店舗は無関係」

 骨まわりの者も言った。

「実店舗は無関係」

「だからいいわけではありません」

 私は言った。

「食べ物は出さないと言いました」

「出したのではない」

 胡椒筋の者が言った。

「温まった」

 骨まわりの者が言った。

「余計悪い」


 電子レンジの扉の隙間から、匂いが出た。

 胡椒。

 甘辛。

 油。

 熱。

 昨日まで文章だけだったものが、物理になった。

 たいへんまずい。

 事務所の空気が一気に食べ物側へ傾く。

 鬼丸が立ち上がりかけた。


「座ってください」

「匂う」

「座ってください」

「食える」

「座ってください」


 鬼丸は座った。

 えらい。

 かなりえらい。

 だが、目が手羽先を見ている。

 目が食べている。


 レビュー狐が帳面を開きかけた。

 私は見た。


「星はつけないでください」

「こん」

「まだ食べていません」

「こん」

「匂いに星をつけない」

「こん……」


 狐は帳面を閉じた。

 えらい。

 今日の狐は本当にえらい。


 勘定守りが算盤を弾いた。


「未食欲が急増」

「計算しないでください」

「匂いは負債を生む」

「生みません」

「空腹は前借り」

「やめてください」


 白河さんが静かに言った。


「瀬戸口さん」

「はい」

「もう、食べ物は出ています」

「はい」

「この状態で食べない場合、匂いだけが残ります」

「はい」

「匂いだけで両派が主張を続けると、収拾が難しくなると思います」

「正論ですね」

「はい」

「食べろと」

「食べて決めるのではなく、食べて、決めない形にするのがよいかと」


 食べて、決めない。

 妙な言葉だ。

 だが、分かる。

 勝敗を決めない。

 どちらが上かも決めない。

 ただ、食べたという事実を作る。

 味は未判定から、差分記録へ移す。

 それしかないのかもしれない。

 嫌だ。

 しかし、電子レンジが二回鳴った時点で、もうかなり負けている。


 私は深呼吸した。


「分かりました。実食判定会ではありません」

「はい」

 中立委員さんが頷いた。

「実食差分確認です。勝敗はつけません。総合点もつけません。レビューもしません。実店舗は無関係です。食後の骨は通常処理。持ち帰り禁止。追加注文禁止」

「追加注文」

 鬼丸が言った。

「禁止です」

「厳しい」

「必要です」


 私は管理画面を開いた。


 実食条件確認を、実食差分確認へ変更します。

 勝敗判定は行いません。

 総合点をつけません。

 実店舗とは無関係です。

 食後レビュー、星評価、骨の持ち帰り、追加注文を禁止します。


 公開。

 複合機が鳴った。


 実食差分確認:開始


「開始するな」

「もう始まっています」

 白河さんが言った。

「そうですね」

「はい」


 私は負けを認めた。

 ただし、負け方は選ぶ。

 勝敗判定にはしない。

 それだけは守る。


 電子レンジから袋を出す。

 熱い。

 榊原さんが皿を出した。

 どこから出したのか。

 聞かない。

 白河さんが紙おしぼりを並べた。

 どこから出したのか。

 たぶんホテルの人は紙おしぼりの扱いがうまい。

 中立委員さんは、震える手で記録用紙を持った。

 レビュー狐は帳面を閉じたまま正座している。

 勘定守りは算盤を裏返した。

 鬼丸は、まるで神事を見るように手羽先を見ている。

 胡椒筋の者と骨まわりの者は、黙っている。


 二つの皿が並んだ。

 黒い点の多い皿。

 照りの強い皿。

 どちらも、実店舗とは無関係。

 しかし、見た目だけで派閥ができそうである。

 恐ろしい。


「順番はどうしますか」

 榊原さんが言った。


「順番で揉めます」

「では同時」

「手は二本あります」

「嫌な合理性ですね」

「でも一人ずつ同時は難しいです」


 白河さんが言った。


「まず香りを記録し、その後、一口目は全員同じ順番で。次に順番を逆にして、もう一口。順番による偏りを減らします」

「ホテルの試食みたいですね」

「試食ではありません」

「そうですね」

「確認です」

「助かります」


 私は紙に書いた。


 手順:

 一、香りのみ確認。

 二、胡椒強めを一口。

 三、甘辛強めを一口。

 四、順番を逆にして再確認。

 五、骨まわり、食後感を記録。

 六、勝敗を言わない。


「六が大事ですね」

 榊原さんが言った。


「六がすべてです」


 実食差分確認が始まった。

 まず香り。

 胡椒強め。

 鼻に来る。

 黒い。

 辛いというより、空気が少し尖る。

 宇宙などと言いたくはない。

 言いたくはないが、夜という言葉が少し分かるのが腹立たしい。

 次に甘辛強め。

 照り。

 甘さ。

 醤油。

 少し重い。

 食べる前から、指が汚れる予感がする。

 仁義などと言いたくはない。

 言いたくはないが、食後に何か残りそうな感じはある。

 私はすでに負けている。


「香りの時点で顔が難しいですね」

 白河さんが言った。


「中立の顔をしています」

「かなり苦しそうです」

「それが中立です」

「そうでしょうか」

「違うかもしれません」


 食べる。

 胡椒強めを一口。

 熱い。

 胡椒。

 皮。

 肉。

 最初に来る。

 確かに一口目の衝撃はある。

 舌が起きる。

 目も少し起きる。

 これはうまい。

 うまいが、言わない。

 言うと寄る。

 私は黙る。


 胡椒筋の者が身を乗り出した。


「一口目」

「黙ってください」

「風が来ただろう」

「記録中です」

「夜が」

「黙ってください」


 次に甘辛強め。

 こちらは最初に照りが来る。

 甘い。

 辛い。

 肉に絡む。

 胡椒ほど跳ねないが、舌に残る。

 骨の近くに行くほど、味が濃い。

 これはうまい。

 うまいが、言わない。

 言うと寄る。

 私は黙る。


 骨まわりの者が静かに言った。


「沈黙」

「黙ってください」

「それが食後に」

「まだ食後ではありません」

「近い」

「近づけないでください」


 榊原さんは淡々と食べた。

 淡々と記録した。

 強い。

 レビュー狐は食べない。

 記録確認役である。

 えらい。

 勘定守りも食べない。

 算盤を見ないようにしている。

 鬼丸は食べる側から除外したかったが、食べ物を前に鬼を完全除外するのは危険だった。

 結果、鬼丸には小さく切った分を渡した。

 鬼丸は一口で食べた。


「どちらもうまい」

「早い」

「まだです」

「うまい」

「まだ記録中です」

「うまいものはうまい」

「それは後で問題になります」


 白河さんは、きれいに食べた。

 紙おしぼりの使い方も、骨の置き方も、皿の見方も、無駄がなかった。

 私は見ないようにした。

 見た。

 しまった。

 白河さんの食べ方がきれいだという事実は、手羽先代理戦争と関係ない。

 関係ないのに、たいへん気になる。


「瀬戸口さん」

「はい」

「記録を」

「はい」


 榊原さんに言われて戻る。

 危ない。

 私は何を見ているのだ。


 二巡目。

 順番を逆にする。

 甘辛。

 胡椒。

 順番が変わると、印象が変わる。

 甘辛の後の胡椒は、強い。

 胡椒の後の甘辛は、落ち着く。

 どちらが上ではない。

 順番が違うだけで、意味が変わる。

 食べ比べは、本当に中立ではない。

 条件で味が変わる。

 気分で味が変わる。

 空腹で味が変わる。

 隣に白河さんがいるだけでも、たぶん変わっている。

 それは書かない。

 絶対に書かない。


 中立委員さんが記録を読み上げた。


「胡椒強め。香りの立ち上がりが早い。一口目の印象が強い。食後は軽め。甘辛強め。照りと甘さが残る。骨まわりの印象が強い。食後感が長い」

「よいです」

 私は言った。

「勝敗は」

「なしです」

「総合点は」

「なしです」

「レビューは」

「なしです」

「星は」

 レビュー狐が少しだけ耳を立てた。

「なしです」

「こん……」


 狐は耐えた。

 本当にえらい。


 胡椒筋の者が言った。


「一口目は認められた」

「差分として記録しました」

「夜は来た」

「来ていません」

「少し来た」

「来ていません」


 骨まわりの者が言った。


「骨まわりは認められた」

「差分として記録しました」

「仁義は残った」

「残っていません」

「少し残った」

「残っていません」


 鬼丸が言った。


「どちらもうまい」

「それは言わないでください」

「なぜ」

「両派が中立扱いします」

「中立でよい」

「危険です」

「うまいものをうまいと言うのは危険か」

「この件では危険です」

「難しいな」

「難しいです」


 私は最後のまとめに入った。


「本日の確認結果です。胡椒強めは、一口目の香りと刺激が強い。甘辛強めは、骨まわりと食後感が強い。これは勝敗ではありません。優劣ではありません。実店舗とは無関係です。レビューではありません。星はつけません。以上です」

「短い」

 胡椒筋の者が言った。

「短くします」

「骨が足りぬ」

 骨まわりの者が言った。

「足しません」

「うまかった」

 鬼丸が言った。

「黙ってください」


 その時、二人の見届け人が同時に身を乗り出した。


 胡椒筋の者が言った。


「味は認める。だが星辰は別だ」

 骨まわりの者が言った。

「うまいのは認める。だが仁義は別だ」


「認める部分だけを残してください」

「星辰は残る」

「仁義も残る」

「残し方を選んでください」


 再燃した。

 当然のように再燃した。

 だが、火の勢いは少し弱い。

 食べたからだ。

 食べて、少し満足したからだ。

 腹に入ったものは、言葉より少しだけ強い。

 少しだけ。

 本当に少しだけ。


 複合機が鳴った。

 紙が出る。


 実食差分確認:暫定成立

 対象:胡椒強め/甘辛強め

 対応:勝敗判定なし。差分のみ記録。実店舗無関係。

 備考:どちらも冷める前に食べるとうまい。


「備考」


 私は紙を見た。

 備考。

 どちらも冷める前に食べるとうまい。

 私はそんなことを言っていない。

 言っていないが、思った。

 複合機は、時々勝手に思考を印刷する。

 たいへん困る。


 だが、私はその紙を見て、疲れたまま言った。


「……どちらも、冷める前に食えばうまいです」


 一瞬、全員が黙った。

 胡椒筋の者も。

 骨まわりの者も。

 鬼丸も。

 中立委員さんも。

 レビュー狐も。

 榊原さんも。

 勘定守りも。

 白河さんも。


 静かだった。

 手羽先代理戦争が、ほんの一秒だけ止まった。

 私は、もしかして勝ったのかと思った。


 胡椒筋の者が言った。


「それはそうだ」

 骨まわりの者も言った。

「それはそうだ」

 鬼丸が頷いた。

「それはそうだ」

 中立委員さんが、泣きそうな顔で頷いた。

「それでよいのでは」


 私は息を吐いた。

 よいのでは。

 よい。

 よいのではないか。

 そう思った瞬間だった。


 胡椒筋の者が言った。


「それはそうだ。だが星辰は別だ」

 骨まわりの者が言った。

「それはそうだ。だが仁義は別だ」


 再燃した。

 当然のように再燃した。

 ただし、さっきより火の色は薄い。

 星辰と仁義は残った。

 だが、どちらも少しだけ、皿の上の温度に負けていた。

 少しだけ。

 本当に少しだけ。


 私は紙に追記した。


 実食差分確認は終了。

 勝敗なし。

 追加確認なし。

 骨は通常処理。

 残った手羽先は鬼丸に渡さない。

 冷める前に食べればうまい、は一般論であり派閥主張ではありません。


 鬼丸が言った。


「残り」

「渡しません」

「なぜ」

「追加注文禁止です」

「残りは注文ではない」

「そういう隙間を突かないでください」


 レビュー狐が帳面を開いた。

 星を描きかけた。

 手を止めた。

 かわりに、丸を一つ描いた。


「それは?」

「こん」

「星ではない」

「こん」

「丸」

「こん」

「評価ですか」

「こん……」

「記録ですね」

「こん」


 私は頷いた。


「記録なら可です」


 レビュー狐は少し嬉しそうだった。

 よかった。

 星をつけない狐にも、仕事はある。


 勘定守りが算盤を見た。


「既食欲」

「計上しないでください」

「食べたことで、また食べたくなる」

「なります」

「負債だ」

「違います」

「再食欲」

「出さないでください」

「持ち帰り欲」

「もっと出さないでください」


 私は追記した。


 既食欲、再食欲、持ち帰り欲は計上しない。


 何を書いているのだ。

 だが、必要である。

 必要なことほど馬鹿馬鹿しい。

 この仕事はそればかりだ。


 会は閉じた。

 実食判定会ではない。

 実食差分確認。

 そういうことになった。

 そういうことにした。

 勝敗はない。

 星もない。

 骨は捨てる。

 実店舗は無関係。

 どちらも冷める前に食えばうまい。

 これ以上ないほど薄い結論である。

 しかし、薄い結論が一番燃えにくいこともある。


 白河さんは、紙おしぼりをきれいにまとめていた。

 私は見ないようにした。

 見た。

 また見た。

 どうして見るのか。

 やめろ。


「瀬戸口さん」

「はい」

「ひとつ、よろしいですか」

「はい」


 白河さんは、静かに言った。


「食べ方は、お上手ですね」


 私は固まった。

 本日いちばん固まった。

 胡椒でも、甘辛でも、電子レンジでも、鬼丸の「食う」でも、ここまで固まらなかった。


「え」

「骨の外し方が、きれいでした」

「そう、ですか」

「はい。少し意外でした」

「意外」

「失礼でしたら、すみません」

「いえ、あの、いえ」


 榊原さんがこちらを見た。

 見ないでほしい。

 レビュー狐も見た。

 見ないでほしい。

 鬼丸も見た。

 それは見なくていい。


 白河さんは何事もなかったように、紙おしぼりを置いた。

 ただそれだけだった。

 それだけなのに、私はさっき食べた胡椒よりも強く動揺していた。

 骨まわりよりも残った。

 仁義とか星辰とか、そういう言葉を全部押しのけて、白河さんの一言だけが残った。

 たいへんまずい。

 中立ではない。


 複合機が鳴った。

 紙が出る。


 実食差分確認:終了

 勝敗なし。

 実店舗無関係。

 骨処理済み。

 備考:瀬戸口連平、動揺。


「備考に書くな!」


 私は紙を奪った。

 遅い。

 全員、見た。

 白河さんだけは、少しだけ不思議そうな顔をしていた。


 夜、全員が帰った後、事務所は少しだけ手羽先の匂いが残っていた。

 換気しても、残る。

 食べた事実は残る。

 それは仕方ない。

 私は机の引き出しに、今日の紙を入れた。


 実食差分確認:終了。

 勝敗なし。

 実店舗無関係。

 瀬戸口連平、動揺。


 最後の行は消したい。

 消したいが、複合機の紙は消えない。

 私は引き出しを閉じた。


 天井を見る。

 蜘蛛がいる。

 今日も何も言わない。


「食べ比べは中立じゃないよな」


 蜘蛛は答えなかった。

 当然である。

 だが、答えないことだけは、いつも中立だった。


 私は少しだけ、蜘蛛が羨ましかった。

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