第11話 女子大小路には手羽先の本陣がある
女子大小路には女子大がない。
これは、もう何度も確認した。
確認したくて確認したわけではない。確認せざるを得なかっただけである。名前が残っている。場所が残っている。通りが残っている。古い看板の裏に、古い部屋の扉の上に、閉店した店のレシートの隅に、何かが残っている。
だが、女子大はない。
ないものはない。
ないのに名前だけがある。
それだけでも十分に面倒だった。
そして困ったことに、女子大小路には、手羽先の本陣と呼ばれている店がある。
女子大はない。
だが、手羽先の本陣はある。
世の中には、なくなったものより、残っているものの方が厄介な場合がある。学校が消えて、名前が残り、手羽先が残る。何をどう間違えればそういう街になるのか。私には分からない。分からないが、目の前にあるものは対応しなければならない。
対応しなければならないものが多すぎる。
あの本会議もどきの翌朝、私は机に突っ伏していた。
正確には、机に突っ伏した状態で朝になっていた。
首が痛い。
肩も痛い。
腰も痛い。
身体の各所が、昨夜の会議に異議を申し立てている。もっとも、異議を申し立てたところで議事録に載るだけだろう。あれはそういうものだった。
いや、会議ではない。
未承認である。
条件付き延期である。
会議ではない。
そう自分に言い聞かせたところで、疲労だけは本物だった。
机の引き出しを開ける。
紙が並んでいる。
閉店処理。
四〇四処理。
鬼丸認証。
位置情報障害。
追憶カツ丼。
レビュー狐。
未食決済。
高架下会議音声。
本会議延期。
並びがひどい。
しかし、整っている。
整っているから余計にひどい。
私は最後の紙をもう一度見た。
第一回女子大小路本会議:条件付き延期
対象:女子大小路/東新町/空港線/関連各所
備考:名称に関する暫定メモ公開。未承認会議は無効。街の発言過多。蜘蛛棄権。手羽先派閥は保留。次回未定。
街の発言過多。
蜘蛛棄権。
手羽先派閥は保留。
手羽先派閥は保留。
私はそこを見て、少しだけ嫌な予感を覚えた。
保留という言葉は、解決ではない。未来への投げ捨てである。会社員時代、私はそれをよく見た。保留、継続確認、別途調整、次回持ち越し。どれも「今は燃えていないことにする」という意味であり、だいたい後で燃える。
手羽先派閥。
燃えそうである。
油で揚げているからではない。
いや、それもあるのかもしれない。
スマホが震えた。
私は反射的に身構えた。
昨夜以来、スマホの振動に対する信用が下がっている。
画面を見る。
新着メールがあります。
怪異IT相談所の問い合わせフォームだった。
私は開きたくなかった。
開きたくないが、開く。
開かないと、もっと悪い形で開かれる。
最近、そういう知見ばかり増えている。
件名:手羽先代理戦争に関する緊急声明
本文:宇宙の海さん派と無頼坊主派の抗争が、女子大小路周辺のレビュー欄、地図アプリ、会議資料、女王ツアーの景品交換所、外兎の券売機にまで波及しています。中立調停をお願いします。
差出人:手羽先中立委員会
私は画面を閉じた。
閉じた。
閉じたが、意味はなかった。
もう見てしまった。
「中立委員会」
声に出た。
手羽先の。
中立委員会。
嫌な組み合わせである。
中立というものは、だいたい両側から殴られる位置である。そこに手羽先が加わると、油と胡椒と甘辛ダレが飛ぶ。ろくなことにならない。
私は返信欄を開いた。
瀬戸口です。
まず確認します。
手羽先中立委員会とは何ですか。
また、宇宙の海さん派、無頼坊主派の双方は、実在店舗とは無関係な怪異側の派閥という理解でよろしいでしょうか。
抗争内容、発生場所、被害状況、骨の有無、レビュー改ざんのスクリーンショットを送ってください。
送信しようとして、手が止まった。
骨の有無。
自然に書いている。
嫌だ。
しかし必要である。
昨夜、ホテルロビーに骨が落ちていた。手羽先の骨。紙が巻かれ、仁義と書かれていた。骨はすでに資料になりかけている。
必要な確認だ。
私は送信した。
三分後、返信が来た。
早い。
緊急声明を出すだけのことはある。
手羽先中立委員会は、手羽先に関する中立的な立場を守るための任意団体です。
構成員は現在一名です。
私です。
助けてください。
私は少し黙った。
一名。
中立委員会、一名。
中立というものは、人数が少ないととても弱い。
一名でそこに立つのは危ない。かなり危ない。
続きがあった。
宇宙の海さん派、無頼坊主派は、実店舗とは関係ありません。
店側に問い合わせても「何のことですか」と言われました。
ただし、怪異たちは「店は関係ない。味が関係ある」と言っています。
抗争内容は主にレビュー、地図アプリ、骨、匂い、胡椒、甘辛ダレ、景品、券売機、会議資料です。
骨はあります。
添付します。
添付画像を開いた。
開きたくなかったが、開いた。
そこには、券売機の写真があった。
外兎の券売機らしい。
そば、親子丼、定食のボタンが並ぶ中に、ひとつだけ見慣れないボタンがある。
手羽先中立定食
売切
売切。
売っていないものが売り切れている。
そのボタンの横に、手羽先の骨が一本、きれいに立てかけてあった。
紙が巻かれている。
中立に味なし
私は画面を閉じた。
もう一枚。
女王ツアーの景品交換所らしき写真。
景品棚の隅に、手羽先型キーホルダーが大量に並んでいる。
ひとつひとつに紙がついている。
胡椒派
甘辛派
骨派
未定
棄権
瀬戸口
「私のやつがある」
勝手に作るな。
私は景品ではない。
いや、景品の分類名にもなるな。
瀬戸口派とは何だ。
たぶん中立の別名として扱われている。
やめてほしい。
さらにレビュー欄のスクリーンショット。
星が並ぶ。
本文がひどい。
★★★★★
宇宙の海さんの手羽先は、夜空に撒かれた胡椒の銀河である。骨は航路、皮は大気圏、皿は宇宙港。噛めば舌に星が落ちる。甘辛に逃げる者は、まだ夜を知らない。
★☆☆☆☆
無頼坊主の甘辛に仁義を感じましたが、宇宙がありませんでした。星がない。骨まわりの沈黙は認めますが、胡椒の乱気流が足りません。
★★★★★
無頼坊主の手羽先は骨まわりに道がある。甘辛とは照りではなく誓いである。食べ終えた骨を見れば、人の生き方が分かる。胡椒で騒ぐ者は、皿の上でまだ若い。
★☆☆☆☆
宇宙の海さんは派手。胡椒。星。夜。よろしい。しかし骨が軽い。噛み終えた後に、こちらを見るものがない。手羽先とは、食後に残るものまで含めて手羽先である。
私は目を閉じた。
食レポがうまい。
無駄にうまい。
どちらも食べたくなる。
それが最悪である。
争っている言葉なのに、販促になっている。抗争が広告になっている。現代的であり、たいへん嫌だ。
ノックがあった。
私は返事をした。
扉は、返事の途中で開いた。
榊原小夜子だった。
「おはようございます」
「今日も待ちませんでしたね」
「手羽先なので」
「理由になっていません」
「揚げ物は待つと冷めます」
「会話がもう駄目です」
榊原さんは今日も黒い服だった。
手には紙袋がない。
私は少し安心した。
手羽先の匂いがしたら、かなり危なかった。
「来ましたか」
「手羽先代理戦争が」
「来ました」
「早かったですね」
「昨日の今日です」
「保留は短い命でした」
「保留のまま死んでほしかったです」
私はメールを見せた。
榊原さんは、宇宙の海さん派のレビューを見ても、無頼坊主派のレビューを見ても、顔色を変えなかった。
強い。
この人は食べ物の文章に動じないのか。
私は少しだけ尊敬した。
「宇宙の海さんは、女子大小路側ですね」
「本陣があるそうです」
「あります」
「知っているんですね」
「有名です」
「行ったことは」
「あります」
「そうですか」
「瀬戸口さんは?」
「あります」
「でしょうね」
なぜでしょうねなのか。
いや、ある。
あるのだ。
女子大小路にいて、宇宙の海さんへ行ったことがないと言うのは、少し不自然だ。私はものぐさだが、食べ物に関しては例外がある。例外が多いという指摘は受け付けない。
「無頼坊主は」
「名前だけは知っています」
「熱田ですね」
「本店が熱田側にあるらしいですね」
「らしい」
「行ったことはありません」
「ひつまぶしの圧が強いから」
「そうです」
「筋が通っています」
「通っているでしょうか」
「瀬戸口さんの中では」
それはたぶん、褒めていない。
「ただし、今回の問題は店ではありません」
「はい。店側は無関係です」
「妖怪が勝手に背負っています」
「勝手に背負うな」
「背負いたいのでしょう」
「手羽先を?」
「味を」
「味を背負うな」
榊原さんは机の端を見た。
昨日の手羽先キーホルダーがまだある。
女王ツアーの景品。胡椒にも甘辛にも見える、よくない物体。
私はその存在を忘れようとしていた。
忘れられなかった。
「それ、向きが変わっていますね」
「言わないでください」
「昨日は女子大小路を向いていました」
「今日は」
「熱田の方を向いています」
「やめろ」
私はキーホルダーを紙の下に隠した。
紙の下から、少しだけ骨の形が浮いている。
隠せていない。
隠すという行為がもう負けている。
複合機が鳴った。
またか。
紙が出る。
手羽先代理戦争:予備整理
対象:宇宙の海さん派/無頼坊主派
根拠地:女子大小路側/熱田側
争点:胡椒、甘辛、骨まわり、食後の沈黙、食べ方、仁義、宇宙観
備考:実店舗は無関係。骨の取り扱い注意。
私は紙を見た。
「宇宙観が入っています」
「重要なのでしょう」
「手羽先に宇宙観は要りません」
「宇宙の海さん派は要ると言うでしょう」
「でしょうね」
「無頼坊主派は仏道観を主張するかもしれません」
「やめてください。増えます」
廊下の奥から声がした。
「手羽先とは、可食部と不可食部が同一の経験内に残る稀有な食物です」
ログ語りだった。
早い。
まだ呼んでいない。
呼んだ覚えはないが、記録が呼んだのだろう。
「出ないでください」
「記録上、手羽先は骨を残します」
「当たり前です」
「残る骨は、食べた証拠であり、食べ終えた後の記録です」
「始まった」
「宇宙の海さん派は、食前から食中にかけての胡椒による感覚の拡張を重視します。無頼坊主派は、食後に残る骨まわりの証拠性を重視します。つまり、この抗争は単なる味覚の対立ではなく、経験のピークをどこに置くかという時間論の対立であり」
「やめてください」
「さらに、手羽先の食べ方には指、骨、歯、舌、皿、紙おしぼりが関与し」
「やめてください」
榊原さんが少し笑った。
笑うな。
いや、今のは少し面白かった。
時間論の対立。
手羽先で。
最悪である。
だが、少しだけ納得しかけた自分がいる。
納得してはいけない。
私は問い合わせフォームに返信した。
瀬戸口です。
状況確認しました。
まず、本件は実店舗の評価・営業・責任とは切り離します。
宇宙の海さん派、無頼坊主派のいずれも、実店舗とは無関係な怪異側派閥として扱います。
レビュー欄、地図アプリ、券売機、景品交換所への干渉は一時停止してください。
骨による声明・抗議・威嚇・署名・家紋作成も一時停止してください。
送信。
三秒後、返信。
骨による威嚇ではありません。
骨による意思表示です。
中立委員会としては、一時停止を要請しましたが、両派とも「骨は止まらない」と回答しています。
骨は止まるだろ。
物理的には止まる。
しかし怪異的には止まらないらしい。
嫌だ。
別のメールが来た。
差出人は、宇宙の海さん派 見届け人。
件名:声明
本文:胡椒の降らぬ皿に、夜は来ない。
次。
無頼坊主派 見届け人。
件名:声明
本文:骨まわりを黙って食えぬ者に、仁義はない。
次。
レビュー狐。
件名:レビュー
本文:両派とも主張に具体性があり、星をつけにくい。どちらも五つ星。
次。
勘定守り。
件名:未食欲
本文:この件を読んだ者に手羽先欲が発生した場合、未食負債はどちらの派閥に計上しますか。
私はスマホを伏せた。
伏せても震える。
昨日と同じである。
手羽先は会議より油っぽいぶん、さらに悪い。
「瀬戸口さん」
「はい」
「現地に行きますか」
「行きたくありません」
「でも女子大小路側です」
「近いから嫌なんです」
「近いと」
「逃げ場がない」
「なるほど」
榊原さんは納得した。
納得しないでほしい。
現地確認。
宇宙の海さん。
女子大小路側。
本陣。
その言葉だけで、胃が少し動く。
私は腹が減っているのかもしれない。
危ない。
腹が減った状態で手羽先案件に当たるのは危険である。中立性が胃に負ける。
「先に何か食べます」
「外兎ですか」
「なぜ」
「近いので」
「外兎へ行くと、券売機が中立定食を出してきます」
「ではデナイド」
「ドリンクバーで済ませると余計に腹が減ります」
「ヒノキドラッグで栄養ドリンク」
「それは昨日やりました」
「では」
「何も食べずに行きます」
「一番危険では」
「そうです」
そうなのだ。
分かっていても、一番危険なルートを選ぶことがある。
人間には、準備をすると本番に行けなくなる時がある。私は今、準備をしたら手羽先を食べたくなる。だから準備せずに行く。
昼前、私たちは女子大小路へ出た。
事務所から外に出る。
昼の女子大小路は、夜とは別の顔をしている。
別の顔というより、化粧を落としかけている顔だ。看板は眠そうで、ビルは少し素っ気ない。夜に出てくるものたちが、まだ引っ込んでいる。だが、完全には消えていない。古い店のドア、閉まったシャッター、路地の奥、ビルの階段。そういうところに、夜の残りがいる。
私は女子大小路を歩いた。
女子大はない。
だが、手羽先の本陣はある。
そう思うと、街の見え方が少し変わる。
看板の赤。
提灯の文字。
店の匂い。
排気口から出る油の気配。
道に残る塩気。
胡椒の気配。
骨の予感。
骨の予感とは何だ。
考えたくない。
宇宙の海さんは、まだ開店前だった。
シャッターは下りていないが、店の中は静かだ。
店そのものは普通である。
普通の店だ。
少なくとも、昼の時点では。
ここで重要なのは、店が悪いわけではないということだ。店は手羽先を出す。客は食べる。会計をする。帰る。普通である。
問題は、その普通を勝手に神格化し、派閥化し、骨と胡椒を持ち出して仁義を叫び始めた怪異側にある。
私は店の前で立ち止まった。
「店には入らないんですね」
「営業前です」
「確認だけ」
「確認だけです」
「食べませんね」
「食べません」
「本当に?」
「なぜ確認するんですか」
「念のため」
「食べません」
その時、店の横の細い影から、声がした。
「食わずに語るとは、筋が通らんな」
出た。
出ると思った。
いや、出ないでほしかった。
店の横に、小柄な影が立っていた。
黒い羽織。
裏地に星のような細かい点。
顔はよく見えない。
鼻先に、胡椒の匂いがした。
人間ではない。
たぶん、宇宙の海さん派の見届け人だ。
「怪異IT相談所の瀬戸口です」
「知っている」
「実店舗への迷惑行為を止めてください」
「店は関係ない」
「なら店のレビュー欄に書かないでください」
「味は関係ある」
「では味だけ語ってください」
「味だけで済む手羽先などあるか」
「あります」
「ない」
断言された。
強い。
面倒なタイプである。
私は深呼吸した。
胡椒の匂いが入ってきた。
しまった。
腹が減る。
「あなたは宇宙の海さん派の見届け人ですか」
「見届け人ではない」
「違うんですか」
「胡椒筋の者だ」
「胡椒筋」
「そう呼ばれている」
「誰に」
「こちらで」
「こちらとは」
「皿のこちら側だ」
「話が広がる前に止めたいです」
胡椒筋の者は、少しだけ笑ったように見えた。
顔は見えないのに、笑ったと分かる。これも嫌だ。
「瀬戸口連平」
「はい」
「手羽先の何を知る」
「食べたことはあります」
「食べたことがあるだけでは、知ったとは言わぬ」
「では何をすれば」
「一口目で夜を受ける」
「受けません」
「二口目で骨の方角を知る」
「知りません」
「三口目で胡椒の星図を読む」
「読みません」
「食後に皿の上を見て、自分がどこから来てどこへ帰るかを知る」
「重すぎる」
榊原さんが横で静かに聞いている。
止めてほしい。
いや、止めてもたぶん長くなる。
私はスマホを取り出し、メモを開いた。
議事録ではない。
調査メモである。
会議ではない。
自分に言い聞かせる。
「確認します。宇宙の海さん派の主張は、胡椒を重視する」
「胡椒ではない」
「違うんですか」
「星辰だ」
「胡椒を星辰と呼ぶ」
「逆だ」
「逆」
「星辰が、皿の上では胡椒として現れる」
「帰っていいですか」
「まだ早い」
「私はかなり早く帰りたいです」
胡椒筋の者は、羽織の袖から小さな紙を出した。
声明文らしい。
長い。
見た瞬間に長いと分かる紙だった。
私は受け取りたくなかった。
受け取らないと、たぶん勝手に机に出る。
私は受け取った。
宇宙の海さん派 声明
一、手羽先とは夜の皿に開く航路である。
二、胡椒とは星辰であり、舌上に降る黒き天体である。
三、骨とは食後に残る航路標識である。
四、甘辛の照りは認める。ただし、それが星を覆い隠す場合、我らはこれを看過しない。
五、中立とは冷めた皿の言い訳である。
「五がひどい」
「真実だ」
「中立を攻撃しないでください」
「中立者は、だいたい冷ましている」
「そんなことはありません」
「なら食え」
「食べません」
その時、私のスマホが震えた。
画面を見る。
無頼坊主派 見届け人からメール。
件名:反論
本文:胡椒筋の詭弁に耳を貸してはなりません。手羽先とは食後に残る骨の沈黙をもって完了するもの。星などと言って騒ぐ者は、まだ肉の表面しか見ていません。こちらも向かっています。
「来るな」
声に出た。
胡椒筋の者が、少しだけ身構えた。
「熱田側か」
「来るそうです」
「ここへ」
「来るそうです」
「本陣前に」
「たぶん」
「ならば、こちらも筋を通す」
やめろ。
筋を通すな。
この場合の筋は、だいたい揉める。
「ここは実店舗前です。抗争、声明、骨、胡椒、甘辛、仁義、星辰、仏道、その他の派閥行為は禁止です」
「誰が決めた」
「私が今決めました」
「権限は」
「ありません」
「なら聞けぬ」
「正直すぎる」
私は怪異IT相談所の管理画面を開いた。
路上でスマホ。
まただ。
最近、私は路上で変なページを作りすぎている。
新規ページ。
タイトル。
手羽先代理戦争に関する暫定注意
本文。
宇宙の海さん派、無頼坊主派、その他手羽先に関する怪異側派閥は、実店舗のレビュー欄、地図アプリ、予約ページ、券売機、景品交換所、ホテルロビー、デナイド窓側席、外兎店頭、女王ツアー景品棚に干渉しないでください。
各実店舗は本件と無関係です。
味の好み、食べ方、胡椒、甘辛、骨まわり、仁義、宇宙観、仏道観については、怪異側の私的見解として扱います。
骨による声明、胡椒による結界、甘辛ダレによる署名は禁止します。
私は手を止めた。
禁止が多い。
だが、足りない気がする。
追加する。
中立者への骨の送付、景品化、派閥分類、勝手なキーホルダー化も禁止します。
公開。
ボタンを押す。
画面が固まる。
またか。
嫌な沈黙。
そして表示。
公開されました。
ただし、両派から異議申立てがあります。
「公開直後に異議を出すな」
胡椒筋の者が言った。
「胡椒による結界は、結界ではない」
「では何ですか」
「星図だ」
「禁止です」
「星図を禁じるか」
「店先では禁止です」
「店先以外なら」
「それも後で考えます」
「ならば保留だ」
「保留するな」
通りの向こうから、別の声がした。
「保留で済む話ではないな」
ゆっくりと、熱田側の見届け人が来た。
こちらは、袈裟のような羽織を着ている。色は濃い茶。甘辛ダレの照りのような光が、布の端に乗っている。顔はやはり見えない。見えないが、声が低い。
骨の匂いがした。
骨の匂いとは何だ。
だが、した。
甘辛い。香ばしい。少し静か。
無頼坊主派の見届け人だろう。
「あなたが無頼坊主派ですか」
「派ではない」
「またですか」
「骨まわりの者だ」
「骨まわりの者」
「そう呼ばれている」
「誰に」
「食後に」
「もう嫌です」
胡椒筋の者と、骨まわりの者が向かい合う。
宇宙の海さん前。
営業前。
昼の女子大小路。
人通りは少ない。
だが、少ないから目立つ。
私は二人の間に立った。
「ここでやらないでください」
「瀬戸口連平」
「はい」
「どけ」
「どきません」
「中立か」
「中立です」
「中立に味はない」
「さっきも聞きました」
「中立に骨は残らぬ」
「新しいのを足さないでください」
骨まわりの者が、静かに言った。
「手羽先に必要なのは、食後だ」
「食後」
「食っている最中に騒ぐ者は浅い。胡椒で舌を騒がせ、星だ夜だ宇宙だと口先で跳ねる。だが、食べ終わった後に皿の上へ残るものを見ろ。骨だ。骨だけが、何が食われ、何が残ったかを知っている」
「言い分がうまい」
「うまいのは手羽先だ」
「そうでしょうね」
胡椒筋の者が笑った。
「骨だけを見て、夜を知らぬ」
「夜は食えぬ」
「星は降る」
「タレは残る」
「胡椒は舌に来る」
「骨は指に残る」
「一口目で決まる」
「最後の一本で決まる」
「辛さだ」
「照りだ」
「風だ」
「沈黙だ」
「宇宙だ」
「仁義だ」
「店先でやるな!」
私は叫んだ。
叫んだ瞬間、どこからかスマホが震える音がした。
自分のではない。
通りのあちこちで震えた。
地図アプリ。
レビューアプリ。
会議アプリ。
予約アプリ。
景品アプリ。
存在しないアプリ。
通知が一斉に出たような気配。
手羽先代理戦争が開始されました。
私は頭を抱えた。
「開始するな」
表示は消えない。
通りの向こう、閉まっている店の看板が一瞬だけ光った。
女王ツアーの方向から、遠く大当たり音が聞こえた。
外兎の券売機が、どこかで電子音を鳴らした。
デナイドのドリンクバーの氷が落ちる音がした気がした。
ヒノキドラッグの自動ドアが開く音もした。
東新町から、空港線の車の音が降ってくる。
熱田の甘辛い匂いが、まだ来ていないはずの場所から来る。
女子大小路の昼が、少しだけ夜に近づいた。
榊原さんが言った。
「開戦ですね」
「言わないでください」
「でも」
「言わないでください」
胡椒筋の者が、袖から黒い粒を一つ取り出した。
胡椒。
たぶん。
骨まわりの者が、懐から骨を一本出した。
手羽先の骨。
たぶん。
二人が、それぞれ地面に置こうとした。
「置くな!」
私はしゃがんで、二人の手を止めた。
胡椒も骨も、店先の地面には置かれなかった。
置かれなかったが、私の手に乗った。
右手に胡椒。
左手に骨。
最悪の中立である。
通りが静かになった。
胡椒筋の者が言った。
「持ったな」
骨まわりの者が言った。
「受けたな」
「違います」
「右に星」
「左に仁義」
「違います」
「中立ではない」
「違います」
「両方持つ者は」
「言わないでください」
二人が同時に言った。
「調停人」
私は目を閉じた。
終わった。
何かが終わった。
いや、始まった。
スマホが震えた。
画面を見る。
手羽先代理戦争
調停人:瀬戸口連平
状態:未承認
「未承認なら無効で」
私は言った。
三秒後、表示が変わった。
未承認調停人:瀬戸口連平
「悪化した」
榊原さんが、少しだけ笑った。
笑うところではない。
いや、笑うところかもしれない。
私は右手の胡椒と左手の骨を見た。
どちらも小さい。
小さいのに、重い。
食べ物の残りと調味料である。
それなのに、街が少し傾いた気がする。
白河さんからメッセージが来た。
瀬戸口さん。
ホテルのロビーに表示が出ました。
「手羽先代理戦争 調停人控室はこちら」
こちら、とはどちらでしょうか。
私は返信した。
こちらではありません。
表示は剥がしてください。
すぐに返事。
剥がしました。
三秒後に戻りました。
なお、床に骨はありません。
よかった。
骨がないだけで安心する日が来るとは思わなかった。
私は胡椒筋の者と骨まわりの者を見た。
「まず、実店舗と街の設備を巻き込まない」
「味は街に宿る」
「宿ってもレビュー欄に書くな」
「骨は記録だ」
「記録でも床に置くな」
「胡椒は星図だ」
「星図でも結界にするな」
「甘辛は仁義だ」
「仁義でも署名するな」
「中立は」
「中立への攻撃禁止」
二人は黙った。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
私は続けた。
「話し合いの場を作ります」
「どこで」
「店ではないところ」
「皿は」
「ありません」
「なら語れぬ」
「語らなくていいです」
「語る」
「でしょうね」
私は考えた。
店ではないところ。
実店舗に迷惑をかけない。
レビュー欄でもない。
地図アプリでもない。
ホテルでもない。
外兎の券売機でも、女王ツアーの景品交換所でも、デナイド窓側席でもない。
いや、デナイドはだめだ。
前回、会議になった。
ドリンクバーがあると会議が始まる。
ではどこだ。
怪異IT相談所。
嫌だ。
だが、そこしかない。
「怪異IT相談所に、隔離ページを作ります」
「隔離」
「手羽先代理戦争用の声明置き場です。そこ以外には書かない」
「皿は」
「ありません」
「骨は」
「画像のみ」
「胡椒は」
「文字のみ」
「味は」
「比喩のみ」
「比喩なら」
「長すぎる比喩は禁止」
「それは無理だ」
即答された。
無理なのか。
無理だろうな。
この人たちは比喩でできている。
私は新しいページを作った。
手羽先代理戦争 隔離声明欄
項目。
宇宙の海さん派声明
無頼坊主派声明
中立委員会報告
骨による抗議画像
胡椒に関する主張
甘辛に関する主張
実店舗無関係確認
調停人への苦情
調停人ではないという瀬戸口連平の主張
最後は必要だ。
かなり必要だ。
公開。
今度はすぐ通った。
通るんだ。
手羽先には権限が甘いのかもしれない。
嫌な発見である。
胡椒筋の者が、スマホを見た。
持っているのか。
怪異もスマホを持つ。
もう驚かない。
いや、驚くが、処理を優先する。
「声明欄」
「そこへお願いします」
「最初に書く」
「どうぞ」
「長くなる」
「短くしてください」
「無理だ」
「分かりました。せめて改行してください」
骨まわりの者もスマホを見た。
「こちらも書く」
「どうぞ」
「骨の写真は」
「床に置かず、手に持って撮ってください」
「手か」
「はい」
「手は汚れる」
「紙を敷いてください」
「仁義が薄れる」
「薄れてください」
榊原さんがまた少し笑った。
私は疲れた。
昼の女子大小路に、少し風が通った。
胡椒の匂いと、甘辛い匂いと、古い油の匂いが混ざる。
店はまだ静かだ。
通りもまだ昼の顔をしている。
だが、始まってしまった。
手羽先代理戦争。
店とは無関係に。
味とは関係がありすぎる形で。
妖怪だけが勝手に仁義を背負い、骨を並べ、胡椒を星にし、甘辛を仏道にしようとしている。
私は右手を見た。
胡椒が一粒。
左手を見る。
骨が一本。
どちらも、どう処理すればいいのか分からない。
捨てると戻る気がする。
持って帰ると議題になる気がする。
店に置くのは絶対にだめだ。
「榊原さん」
「はい」
「これ、どうしたらいいですか」
「証拠品として保管では」
「怪異IT相談所に?」
「はい」
「また引き出しが増える」
「増えますね」
私はため息をついた。
事務所に戻ると、複合機の排紙トレイに紙が出ていた。
予想はしていた。
見たくなかった。
見た。
手羽先代理戦争:開戦
対象:宇宙の海さん派/無頼坊主派
備考:実店舗無関係。隔離声明欄を作成。瀬戸口連平は未承認調停人。骨と胡椒を保管。
「未承認調停人」
私は紙を見た。
「未承認なら、やめられませんか」
「難しいでしょう」
廊下の奥からログ語りが言った。
「未承認であることと、記録上そう扱われることは別です」
「嫌な真理ですね」
「記録しました」
「しないでください」
私は引き出しを開けた。
九枚の紙の隣に、新しい紙を入れる。
十枚目。
手羽先代理戦争。
その横に、小さな封筒を置く。
右手の胡椒を入れた封筒。
左手の骨を入れた封筒。
封筒には、それぞれ書いた。
胡椒/宇宙の海さん派
骨/無頼坊主派
書いた瞬間、どちらの封筒も少し重くなった。
書かなければよかった。
しかし、書かないと分からない。
名前は必要だ。
名前が厄介なのに、名前がないと扱えない。
この街の問題は、いつもそこへ戻る。
夜、問い合わせフォームに新しいメールが来た。
差出人は、手羽先中立委員会。
一名の委員会である。
件名:ありがとうございます
本文:隔離声明欄のおかげで、レビュー欄はいったん落ち着きました。ですが、両派が声明欄で長文を投稿し始めています。量が多すぎて読めません。助けてください。
私は画面を閉じた。
閉じても、内容は残る。
声明欄。
長文。
両派。
読めない。
次の問題が、もう来ている。
「手羽先、始まったな」
言ってから、私はしばらく黙った。
始まってほしくないものほど、始まった時に名前がつく。
名前がつくと、対応しなければならなくなる。
この街では、それが一番よくない。
天井の蜘蛛が少しだけ動いた。
私は言った。
「お前は中立でいろよ」
蜘蛛は答えなかった。
当然である。
だが、今日は少しだけ、蜘蛛がいちばん賢い気がした。




