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女子大小路 怪異IT相談所  作者: 堀吉 蔵人


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10/13

第10話 第一回女子大小路本会議

スマホのカレンダー通知で目が覚めた。


 朝ではない。

 まだ夜だった。

 いや、正確には朝だったかもしれない。時計は午前四時十九分を表示していた。午前四時十九分は朝ではない。夜の残りかすである。人間が起きて活動する時刻ではない。新聞配達と、鳥と、何かを終えられなかった人間だけが動く時刻だ。

 その時刻に、スマホが震えた。


 第一回 女子大小路本会議

 本日 二十三時五十九分

 場所:女子大小路

 参加者:街、その他


 私は画面を見た。

 削除したはずである。

 昨日、消した。戻った。もう一度消した。戻った。諦めて伏せた。伏せたものが、朝でも夜でもない時刻に震えている。

 最悪だった。

 カレンダー通知というものは、未来から来る督促状である。

 しかも今回は、未来ではなく街から来ている。


 私は通知を左へ払った。

 消えた。

 三秒後、戻った。


 第一回 女子大小路本会議

 事前資料が追加されました。


「追加するな」


 声に出た。

 部屋は暗い。事務所のソファで寝落ちしていたらしい。事務所で寝ると、身体のどこかが必ず変になる。今日は首だった。首の角度が、昨夜の会議をまだ引きずっている。

 私は起き上がり、スマホを開いた。

 添付資料がある。

 開かない方がいい。

 開かない方がいいものほど、開かないともっと悪くなる。

 私は開いた。


 事前資料一:女子大小路の名称に関する暫定整理

 事前資料二:残存店舗・消失店舗・仮想店舗・未承認店舗一覧

 事前資料三:食物系怪異に関する部会設置案

 事前資料四:手羽先代理戦争に関する議題化要望

 事前資料五:瀬戸口連平の役割について

 事前資料六:蜘蛛の出欠確認


 最後で目が止まった。

 蜘蛛の出欠確認。

 なぜだ。

 なぜ蜘蛛を確認する。

 蜘蛛は天井の隅にいた。いつもより少し低い位置にいる気がする。こちらを見ているのか、見ていないのか分からない。蜘蛛というものは、こちらの都合で表情を読ませない。そこがよい。そこが会議向きではない。


「お前、出るなよ」


 蜘蛛は答えなかった。

 当然である。

 私はスマホを伏せた。

 伏せた直後、複合機が鳴った。

 午前四時二十一分。

 複合機が起動する時間ではない。

 紙が出た。

 私はしばらく見なかった。

 見なくても、紙はある。

 見た。


 出欠確認

 瀬戸口連平:出席予定

 榊原小夜子:出席予定

 白河玲子:未回答

 ログ語り:記録上出席

 蜘蛛:欠席理由未提出

 街:出席


 私は紙を握った。

 握っても、文字は消えない。


「勝手に出席予定にするな」


 廊下の奥から声がした。


「予定は、まだ実行ではありません」

「ログ語り、いますね」

「記録上います」

「物理的には」

「場合によります」

「帰ってください」

「会議前です」

「それを理由に出てくるな」


 廊下は暗かった。

 事務所のドアの下から、廊下の細い光が入っている。その奥が、建物の奥行きより長い。もう何度も見た。見たくないのに、見える。見慣れたくないのに、見慣れてきている。

 そして今日は、廊下の奥から声がする。

 ログ語りの声だけではない。

 ざわざわしている。

 紙をめくる音。

 椅子を引く音。

 咳払い。

 誰かが小声で「資料ありますか」と言う声。

 やめろ。

 事務所の廊下で会議の準備をするな。


 私は電気をつけた。

 蛍光灯が一度ちらついた。

 机の上には、昨日の紙が並んでいる。

 閉店処理。四〇四処理。鬼丸認証。位置情報障害。追憶カツ丼。レビュー狐。未食決済。高架下会議音声。

 その横に、いつの間にか新しい紙が増えていた。


 本会議席次案


 私は見なかったことにした。

 見なかったことにしたが、視界の端に入る。

 視界の端で、文字がこちらを見ている。

 かなり嫌だ。


 朝になっても、通知は消えなかった。

 八時、九時、十時。

 毎時五十九分にスマホが震える。


 本会議まであと十五時間です。

 本会議まであと十四時間です。

 本会議まであと十三時間です。


 カウントダウンするな。

 私は十時五十九分の通知を無視し、問い合わせフォームを開いた。

 新しいメールはない。

 ない。

 それが怖い。

 いつもなら来る。変な件名、変な本文、変な差出人名。来たら嫌だが、来ないともっと嫌だ。

 嵐の前の静けさ、という言葉がある。

 私はそういう言葉をあまり信じない。便利すぎるからだ。

 だが、今日は静かだった。

 静かすぎて、逆にうるさい。


 ノックがあった。

 私は返事をした。

 扉は、返事を待たずに開いた。

 榊原小夜子だった。


「おはようございます」

「今日くらい待ってください」

「今日は待たない方がよいかと思いました」

「なぜ」

「会議が始まるからです」

「まだ昼前です」

「準備会は、もう始まっています」

「始めるな」


 榊原さんは今日も黒い服だった。

 黒いワンピースに薄い羽織。手には紙袋がある。

 私は紙袋を見た。

 今日は匂いがした。

 ソースの匂い。

 嫌な予感がした。


「差し入れです」

「何ですか」

「外兎の親子丼ではありません」

「では」

「外兎のそばでもありません」

「先に否定から入らないでください」

「ヒノキドラッグで買った栄養ドリンクです」

「なぜソースの匂いが」

「袋の中に、女王ツアーの景品交換所でもらった謎のソースせんべいが入っています」

「情報量が多い」

「東新町なので」


 榊原さんは机に紙袋を置いた。

 私は中を見た。

 栄養ドリンク二本。

 ソースせんべい一袋。

 なぜか小さな手羽先型のキーホルダー。

 私は手羽先キーホルダーをつまみ上げた。


「これは」

「女王ツアーの景品です」

「なぜ」

「出玉連動割引の件で」

「昨日の会議セットにありましたね」

「ありました」

「持ってこないでください」

「勝手に入りました」

「物理的に怖い」


 手羽先キーホルダーは、妙に重かった。

 小さいのに重い。

 骨の形がはっきりしている。

 胡椒らしき黒い粒が、表面に点々とついている。

 甘辛ダレの照りにも見える。

 どちらにも見えるのがよくない。

 私は机の端に置いた。

 置いた瞬間、キーホルダーが少し向きを変えた。

 女子大小路の方を向いた。

 たぶん。

 いや、そう見えた。


「今日の本会議ですが」

「出ません」

「出席予定になっています」

「勝手に」

「街の予定です」

「街に予定を入れる権限はありません」

「あるかもしれません」

「ないです」

「瀬戸口さんがないと言っても、街があると言えば、少し揉めます」

「揉めるな」


 私は椅子に座った。

 榊原さんも座った。

 向かい合う。

 この時点で、すでに会議の形になっている。

 私は立ち上がった。


「座らないでください」

「なぜ」

「会議っぽい」

「では立ちます」

「立ち会議もあります」

「では」

「どうすれば」


 詰んだ。

 人が二人いて、話題があり、紙があり、時間が決まっている。

 それはもう会議である。

 会議は形から入る怪異だ。

 人間が気づいた時には、始まっている。


 複合機が鳴った。

 紙が出る。


 議事進行案

 一、開会宣言

 二、女子大小路の名称確認

 三、旧女子大・現ホテル・残存学生寮の扱い

 四、飲食系未処理案件の整理

 五、手羽先代理戦争の予告的取扱い

 六、怪異IT相談所の管轄確認

 七、その他

 八、閉会できない場合の処理


「八が怖い」

「閉会できない場合」

「会議として最悪の想定です」


 ログ語りが廊下から言った。


「会議は、閉じられない時に本性を現します」

「黙ってください」

「記録として」

「黙ってください」


 私は紙を裏返した。

 裏にも文字があった。


 閉会できない場合、議題は街へ戻ります。


 私は紙を放した。

 紙が机に落ちる。

 軽い音。

 なのに、やけに重い。


「榊原さん」

「はい」

「街へ戻る、とは」

「そのままだと思います」

「そのままが一番嫌です」

「名前、場所、店、記録、未練、欲望、食べ物、通り、看板、部屋番号。そういうものが、街に戻る」

「戻ると」

「たぶん、混ざります」

「混ざるな」


 私のスマホが震えた。

 白河玲子さんからだった。


 瀬戸口さん。

 本日の本会議について、ホテルにも通知が届いております。

 当ホテルは会議室提供を承認しておりません。

 ただし、ロビーの一部が「傍聴席」と表示されています。


 私は画面を見た。

 ホテルのロビーが傍聴席。

 最悪である。

 白河さんの職場まで巻き込まれている。

 私は返信した。


 承知しました。

 会議室ではない旨を明記します。

 可能なら、ロビーの表示は剥がしてください。


 すぐに返事が来た。


 剥がしました。

 三秒後に戻りました。


 私は天井を見た。


「戻るな」


 通知がまた来た。


 なお、表示文は次の通りです。

 第一回 女子大小路本会議 傍聴席

 静粛に願います。

 拍手・録音・怪異への餌付けは禁止です。


 白河さんは続けて送ってきた。


 餌付けとは何を指すのでしょうか。


 私は返信に困った。

 餌付け。

 この場合、きよめ餅、ういろう、カツ丼、ひつまぶし、手羽先、ソースせんべい、ドリンクバー、ナポリタンの記憶、外兎のそば、女王ツアーの景品、レビュー狐の承認欲求。

 餌付けの範囲が広すぎる。


 ひとまず、食べ物を置かないでください。


 そう返した。

 白河さんから、短く返ってきた。


 承知しました。


 白河さんは強い。

 強いが、これで大丈夫とは思えない。


 昼過ぎ、事務所のドアの外で、人の足音が増えた。

 人ではないかもしれない。

 足音、爪音、衣擦れ、紙のこすれる音、骨が小さく当たる音、算盤の音、コーヒーカップが置かれる音、古い鍵が鳴る音、遠くで寮監の出席簿が閉じられる音。

 廊下の奥が、少し明るい。

 私は扉を開けた。

 開けてしまった。

 廊下に、椅子が並んでいた。

 パイプ椅子だった。

 誰が置いた。

 いや、誰も置いていないのだろう。

 会議が椅子を連れてきたのだ。

 そういう表現が自然に浮かぶ自分が嫌だった。


 廊下の壁には貼り紙があった。


 第一回 女子大小路本会議

 受付はこちら


 受付はこちら。

 矢印は廊下の奥を指している。

 奥などない。

 あるけど、ない。

 建物の奥行き以上の廊下の奥に、受付を置くな。


「榊原さん」

「はい」

「これ、剥がしていいですか」

「剥がすと」

「戻りますか」

「おそらく」

「燃やすと」

「議事録に残ります」

「破ると」

「破損資料として再配布されます」

「詰みですね」

「はい」


 私は扉を閉めた。

 閉めた瞬間、扉の内側に貼り紙があった。


 控室


「控室にするな!」


 私は貼り紙を剥がした。

 三秒後、戻った。

 分かっていた。

 分かっていたが、やった。

 人間には、無駄だと分かっていても剥がす時がある。


 午後三時。

 問い合わせフォームにメールが来た。


 件名:本会議の服装について

 本文:平服でよろしいでしょうか。

 差出人:鬼丸


 私は返信した。


 来ないでください。


 三秒後、鬼丸から返事が来た。


 出席予定になっている。


 私は頭を抱えた。

 鬼丸、律儀である。

 律儀な鬼は困る。


 午後三時十二分。

 別のメール。


 件名:門限について

 本文:二十三時五十九分開始では、門限後になります。寮生の参加は寮監室経由でお願いします。

 差出人:旧女子大 学生寮 寮監


 私は返信した。


 参加しないでください。


 返事。


 門限規則上、欠席も記録します。


 午後三時二十九分。


 件名:レビュー

 本文:本会議、資料の具体性がよい。会場未定なのに席次案がある。期待を込めて五つ星。

 差出人:レビュー狐


 私は返信しなかった。

 返信すると喜びそうだった。


 午後三時四十四分。


 件名:食後につき

 本文:追憶カツ丼は議題四に出汁として参加します。

 差出人:覚王山参道


 私はスマホを伏せた。

 伏せても震える。

 スマホの裏側から通知が響く。

 電子機器なのに、虫のようだ。


 午後四時。


 件名:未食欲の扱い

 本文:本会議中に手羽先、ひつまぶし、カツ丼、外兎の親子丼等を想起した場合、未食負債は発生しますか。

 差出人:勘定守り


 私は叫びそうになった。

 叫ばなかった。

 叫ぶと発言扱いになる可能性がある。

 今日は、声が危険だ。


 午後四時二十二分。


 件名:手羽先代理戦争に関する事前声明

 本文:宇宙の海さん派は、胡椒を星辰と認めない一切の甘辛思想に対し、骨をもって抗議します。

 差出人:宇宙の海さん派 見届け人


 午後四時二十三分。


 件名:同上

 本文:無頼坊主派は、胡椒を夜の粉雪などと称する軽薄な舌先商売を断じて認めません。骨まわりに残る甘辛こそ仁義です。

 差出人:無頼坊主派 見届け人


 午後四時二十四分。


 件名:重要

 本文:骨による抗議は会議資料に含まれますか。

 差出人:外兎 東新町店


 午後四時二十五分。


 件名:確変

 本文:女王ツアーは、本会議における大当たり演出の提供を希望します。

 差出人:女王ツアー


 私はスマホを机に置いた。

 置いた。

 遠ざけた。

 机の端へ押した。

 スマホは震え続けている。

 机の上で、少しずつこちらへ戻ってきた。

 やめろ。

 自走するな。


 榊原さんが静かに言った。


「瀬戸口さん」

「はい」

「そろそろ、対応方針を」

「出ない」

「それは方針ではなく願望です」

「願望も大事です」

「大事ですが、会議は始まります」

「始めない」

「街が始めます」

「街に司会をさせるな」


 私は立ち上がった。

 ノートパソコンを開く。

 管理画面。

 新規ページ。

 タイトルを打つ。


 第一回女子大小路本会議について


 本文を書く。


 本日二十三時五十九分に予定されている「第一回女子大小路本会議」について、怪異IT相談所は正式な主催者ではありません。

 当相談所は、当該会議の開催、議題、出席者、傍聴席、飲食提供、手羽先代理戦争、未食負債、レビュー、旧学生寮の門限、鬼の服装、蜘蛛の出欠について承認していません。


 私は手を止めた。

 多い。

 承認していないものが多すぎる。

 だが、書かないと増える。

 続ける。


 また、当該会議への返事、拍手、咳払い、独り言、腹鳴り、暖簾前停止、食欲、星評価、骨の配置、ドリンクバー利用、景品交換、そばと親子丼の同時注文は、出席意思とはみなしません。


「榊原さん」

「はい」

「腹鳴りは入れすぎですか」

「入れておきましょう」

「なぜ」

「鳴るかもしれません」

「鳴るかもしれないものまで書くのが嫌です」

「でも鳴ります」

「人間ですからね」


 私は続けた。


 会議音声、会議通知、カレンダー予定、席次案、事前資料、傍聴席表示が発生した場合でも、正式な会議として扱わないでください。

 もし街そのものが出席者として表示された場合は、直ちに画面を閉じ、現実の店名、現在の住所、現在の営業状況、現在の財布残高を確認してください。


 最後の一文で手が止まった。

 現在の財布残高。

 これが一番効く。

 人間を現実に戻すのは、神仏でもログでもなく、財布残高である場合が多い。


 公開ボタンを押す。

 画面が固まった。

 嫌な沈黙。

 そして、エラー。


 公開できません。

 本会議が上位権限を保持しています。


「上位権限を持つな!」


 声が出た。

 出た瞬間、スマホが震えた。


 瀬戸口連平が発言しました。


「してない! いや、したけど、違う!」


 また震えた。


 瀬戸口連平が補足発言しました。


「黙ろう」


 私は口を閉じた。

 榊原さんが紙に文字を書いた。


 黙るのは正しいです。


 私は頷いた。

 筆談。

 会議に対抗するには筆談だ。

 いや、筆談も議事録に載るかもしれない。

 私は榊原さんの紙に書いた。


 筆談は発言?


 廊下の奥からログ語りが言った。


「記録されれば発言です」


 私は紙を破りそうになった。

 破らなかった。

 破ると破損資料になる。


 午後六時。

 外が暗くなり始めた。

 事務所の窓から、女子大小路の夜の気配が上がってくる。

 看板。

 呼び込み。

 タクシー。

 店の扉。

 古いビルの階段。

 煙草の匂い。

 香水。

 酒。

 古いエアコンの室外機。

 誰かの笑い声。

 誰かの怒鳴り声。

 誰かの「またね」。

 またね、という言葉は怖い。

 また、が本当に来るとは限らない。

 来ないこともある。

 来すぎることもある。

 この街では、来すぎる方が怖い。


 午後七時。

 鬼丸が来た。

 扉を叩いた。

 どん。

 どん。

 私は開けなかった。


「瀬戸口。平服で来た」


 低い声がした。

 平服の鬼。

 見たくない。

 しかし、見ないと扉が壊れる。

 私は開けた。

 鬼丸は、古い羽織姿だった。角は少し磨かれている。手には紙袋。

 紙袋が多すぎる。


「来ないでくださいと言いました」

「出席予定だった」

「予定は消してください」

「消えん」

「分かります」

「では行くしかない」

「分からないでください」


 鬼丸は事務所に入ろうとした。

 肩がつかえた。


「縮んでください」

「忘れていた」

「会議前に扉を壊さないでください」

「会議なら広い場所でやるべきだ」

「やらないんです」


 鬼丸は少し縮んで入った。

 事務所が狭くなった。

 ただでさえ狭いのに、鬼が入ると部屋の面積が考え直しを始める。


 午後七時十二分。

 寮監が来た。

 出席簿を持っていた。


「門限後の参加者は記録します」

「参加しません」

「記録します」

「参加しないことを?」

「はい」

「帰ってください」

「帰る場所の記録も必要です」

「やめてください」


 午後七時二十分。

 レビュー狐が来た。

 小さな帳面をくわえていた。

 木札には「傍聴」と書いてある。


「こん」

「レビューしないでください」

「こん」

「五つ星をしまってください」

「こん」


 午後七時三十二分。

 勘定守りが来た。

 算盤を持っていた。


「会議中の未食欲を管理する」

「しないでください」

「腹は減る」

「減ります」

「では必要だ」

「必要ではないです」


 午後七時四十分。

 追憶カツ丼の店主は来なかった。

 代わりに、湯気だけが来た。

 事務所の隅に、玉子と出汁の匂いがした。

 私は目を閉じた。

 腹が鳴りそうだった。

 鳴るな。

 今は鳴るな。

 腹鳴りも出席意思になる可能性がある。


 午後八時。

 白河さんから電話が来た。

 私は出た。


「瀬戸口です」

「白河です。ホテルのロビーに、傍聴席の表示が増えました」

「増えた」

「はい。先ほどまでは一枚でしたが、現在は三枚です」

「内容は」

「一枚目は静粛に。二枚目は怪異への餌付け禁止。三枚目は、手羽先の骨を床に並べないでください、です」

「もう来てる」

「そのようです」

「白河さん、退避してください」

「職務中です」

「強い」

「ただ、ロビーに骨が一つ落ちていました」

「拾わないでください」

「清掃担当が拾いました」

「清掃担当、強い」

「ホテルですので」


 ホテルですので。

 強い。

 この街で最強の言葉かもしれない。

 白河さんは続けた。


「瀬戸口さん」

「はい」

「本会議を止めるには、会議として止めるより、名称の扱いを決める方がよいかもしれません」

「名称」

「女子大小路、という名前です」

「そこに戻りますか」

「そこに集まっているように見えます」

「女子大はない」

「はい」

「でも名前は残っている」

「はい」

「残った名前に、店、部屋、寮、レビュー、記憶、決済、手羽先まで集まっている」

「はい」

「手羽先まで」

「はい」


 私は笑いそうになった。

 笑えなかった。

 手羽先まで集まっている。

 狂っている。

 しかし、この街ならあり得ると思ってしまう。

 それが一番まずい。


「白河さん」

「はい」

「女子大小路って、何なんでしょうね」

「地名です」

「それはそうです」

「ですが、地名は、ただの名前ではありません」

「白河さんがそう言うと、重いですね」

「私の家の方では、名前は残りますので」

「白壁ですか」

「はい」

「白河さんの家、怖いですね」

「普通です」

「普通の旧家は怖いです」


 電話の向こうで、白河さんが少しだけ笑った気がした。

 気のせいかもしれない。

 そう思っておく。


 午後九時。

 事務所が会場になりかけていた。

 私は認めない。

 しかし、椅子が増えた。

 机の上に紙が増えた。

 鬼丸が床に座り、寮監が出席簿を開き、レビュー狐が帳面を開き、勘定守りが算盤を置き、榊原さんが平然と椅子に座っている。

 ログ語りは廊下にいる。

 追憶カツ丼の湯気が隅にいる。

 蜘蛛は天井で欠席理由未提出のまま動かない。

 最悪の待合室である。


「開会前に、確認します」


 私は言った。

 言ってしまった。

 スマホが震えた。


 瀬戸口連平が事前発言しました。


「もういい」


 私は諦めかけた。

 しかし、諦めると本当に会議になる。

 だから続ける。


「本会議は正式な会議ではありません。出席者の同意がありません。開催場所も不明です。議題も広すぎます。したがって、私は出席しません」

「ここにいる」


 鬼丸が言った。


「物理的にはいます」

「なら出席だ」

「違います」

「難しいな」

「難しくしているのは会議です」


 寮監が出席簿に何かを書こうとした。


「書かないでください」

「記録します」

「記録しないでください」

「記録しない記録が必要です」

「やめろ」


 レビュー狐が帳面に星を書いた。


「星をつけるな」

「こん」

「今のやり取りに星をつけるな」

「こん」


 勘定守りが算盤を弾いた。


「発言料」

「取るな」

「会議中だ」

「会議ではない」

「では何だ」

「事務所です」

「事務所料」

「取るな」


 私は頭を抱えた。

 言葉が増える。

 言葉を止めるために言葉を出す。

 出した言葉がまた会議に拾われる。

 会議は言葉の掃除機だ。

 しかも吸ったものを捨てない。

 議事録にする。


 午後十時。

 窓の外が、少しおかしくなった。

 女子大小路の看板が、いつもより明るい。

 いや、看板だけではない。

 道が少し長く見える。

 ビルとビルの隙間が増えている。

 閉店した店の看板が、一瞬だけ点く。

 知らないスナックのドアが開いて、誰かが笑う。

 池田公園の方から、白い廊下の光が薄く流れてくる。

 覚王山の参道の匂いが混ざる。

 熱田の甘辛い香りが、なぜか路地を曲がってくる。

 空港線の車の音が、女子大小路の上を走っているように聞こえる。

 あり得ない。

 あり得ないが、見える。

 地名が、位置を守っていない。

 名前が、場所を引っ張っている。


 スマホが震えた。


 第一回 女子大小路本会議

 開会まであと二時間です。

 会場が拡張されています。


「拡張するな」


 私は窓を閉めた。

 閉めても音が入る。

 街の音は、窓の外からだけ来るとは限らない。

 床からも来る。

 壁からも来る。

 引き出しからも来る。

 私は引き出しを見た。

 閉店処理。四〇四処理。鬼丸認証。位置情報障害。追憶カツ丼。レビュー狐。未食決済。高架下会議音声。

 紙が震えている。

 並んだ紙が、薄く光っている。

 案件管理ではない。

 これは招待状だ。

 いや、地図だ。

 いや、議題だ。

 いや、全部だ。

 言葉が一つに決まらない。

 それが危ない。


 榊原さんが言った。


「瀬戸口さん」

「はい」

「本会議を止めるのではなく、議題を狭めましょう」

「どうやって」

「女子大小路の名前だけにする」

「名前だけ」

「はい。他の案件は、名前に集まっているだけです」

「だけ、が重すぎる」

「でも、そこに絞れば、会議は小さくなります」

「小さくなりますか」

「たぶん」

「たぶん」

「この街で確実なことは少ないです」


 私はノートパソコンを開いた。

 また管理画面。

 さっきのページは上位権限で弾かれた。

 なら、別の形にする。

 会議を否定するのではなく、議題を狭める。

 会議を止められないなら、会議の暴走範囲を削る。

 嫌だ。

 かなり嫌だ。

 だが、仕事っぽい。

 仕事っぽいものは、私を動かす。

 よくない習性である。


 タイトル。


 女子大小路の名称に関する暫定メモ


 本文。


 女子大小路には、現在、女子大はありません。

 かつて存在したもの、閉店した店、失われた部屋、旧名、旧寮、食物の記憶、未食欲、レビュー、手羽先派閥、その他の未処理案件は、すべて現在の街そのものではありません。


 手が止まる。

 違う。

 これでは弱い。

 街そのものではない、と切り離すだけでは足りない。

 この街は、切り離したものが戻ってくる。

 なら、別の言い方が要る。


 私は書き直した。


 女子大小路には、現在、女子大はありません。

 ただし、名前は残っています。

 残った名前に、過去の店、部屋、寮、記憶、食欲、レビュー、決済、骨、看板、地図、会議音声が寄ってくることがあります。

 それらは、現在の営業、現在の住所、現在の支払い義務、現在の本人確認、現在の出席義務とは別に扱ってください。

 名前が残っていることと、今ここで対応すべき義務が発生することは同じではありません。


 私は息を吐いた。

 少しだけ、よい。

 いや、よいかどうかは分からない。

 だが、今までよりは戦える。


 さらに書く。


 女子大小路という名前は、削除対象ではありません。

 ただし、未承認の会議、未承認の予約、未承認のレビュー、未承認の決済、未承認の代理戦争、未承認の出席確認を発生させる権限はありません。


 鬼丸が言った。


「未承認の代理戦争」

「あなたは関係ないでしょう」

「手羽先は食う」

「今は黙ってください」


 レビュー狐が星を書こうとした。

 私は見た。

 狐は止まった。

 少しだけ勝った。


 公開ボタンを押す。

 画面が固まる。

 固まる。

 固まる。

 長い。

 嫌な長さ。

 そして、表示が変わった。


 公開申請中

 本会議の承認待ち


「承認待ちにするな!」


 スマホが震える。


 瀬戸口連平が発言しました。


「はいはい、しました!」


 また震える。


 瀬戸口連平が発言を認めました。


「認めてない!」


 さらに震える。


 瀬戸口連平が発言を否認しました。


「もういい!」


 榊原さんが、かなり珍しく笑った。

 声に出して笑った。

 私は見た。

 榊原さんは口元を押さえた。


「すみません」

「今笑いましたね」

「はい」

「笑うところですか」

「少し」

「少しですか」

「だいぶ」


 私は力が抜けた。

 笑われた。

 だいぶ笑われた。

 それで少しだけ、会議の圧が薄くなった。

 馬鹿馬鹿しさは、会議に効くのかもしれない。


 午後十一時。

 白河さんが来た。

 事務所に。

 来てしまった。

 黒いコートを羽織っている。ホテル勤務後らしい。髪はきちんとしているが、少しだけ疲れが見える。手には紙袋。

 また紙袋。

 この街は紙袋でできているのか。


「白河さん」

「こんばんは」

「来ない方が」

「ロビーが傍聴席になりましたので、こちらの方がまだましです」

「こちらも会場になりかけています」

「存じております」


 白河さんは事務所の中を見た。

 鬼丸、寮監、レビュー狐、勘定守り、湯気、榊原さん、私、天井の蜘蛛。

 普通なら帰る。

 白河さんは帰らない。

 強い。

 怖い。


「差し入れではありません」

「紙袋」

「回収物です」


 白河さんは紙袋から、ホテルロビーに落ちていたという骨を出した。

 手羽先の骨だった。

 きれいに並んでいる。

 三本。

 小さな紙が巻かれていた。


 仁義


 私は目を閉じた。


「まだ早い」

「早いですね」

「誰ですか」

「不明です」

「宇宙の海さん派か、無頼坊主派か」

「骨だけでは断定できません」

「骨で断定する話になっているのが嫌です」


 白河さんは骨を机に置かず、紙袋に戻した。

 えらい。

 机に置くと、たぶん議題になる。


「瀬戸口さん」

「はい」

「先ほどの暫定メモ、よいと思います」

「見たんですか」

「ホテルの傍聴席表示に出ました」

「なぜ」

「本会議の資料として」

「まだ公開できていません」

「承認待ちですね」

「最悪です」


 白河さんは静かに言った。


「承認させればよいのでは」

「誰に」

「本会議に」

「本会議を止めるための文を、本会議に承認させる」

「はい」

「矛盾してませんか」

「会議ではよくあります」

「強い」


 白河さんはスマホを出した。

 ホテルの業務用らしい端末も出した。

 二台持ち。

 強い。

 榊原さんもスマホを出した。

 私もノートパソコンを見る。

 鬼丸がスマホを出した。

 割れている。

 出すな。

 寮監が出席簿を出した。

 レビュー狐が帳面を出した。

 勘定守りが算盤を出した。

 ログ語りが廊下で「記録します」と言った。

 蜘蛛は何も出さなかった。

 えらい。

 唯一えらい。


「本会議が承認待ちにしたなら、投票を要求しましょう」


 白河さんが言った。


「投票」

「はい。議案の承認手続きです」

「会議を会議で殴る」

「はい」

「白河さん、やっぱり強いですね」

「ホテルでも、よくあります」

「ホテルは戦場ですか」

「時々」


 私は管理画面に、承認要求を出した。


 議案:女子大小路の名称に関する暫定メモ

 承認方法:出席者多数決

 出席者:街、その他


 すぐにエラー。


 出席者「街」の票数が大きすぎます。


「街、票を持ちすぎ」

「では、出席者を分割しましょう」


 白河さんが言った。


「分割」

「街を、場所ごとに」

「女子大小路、東新町、空港線」

「ヒノキドラッグ、デナイド、外兎、女王ツアー、ホテル」

「店も票を持つんですか」

「すでに参加者一覧に出ていました」

「嫌だが、理屈は通ってしまう」


 私は出席者を分割した。


 女子大小路

 東新町

 空港線

 ヒノキドラッグ

 デナイド

 外兎

 女王ツアー

 隣接ホテル

 旧女子大 学生寮

 四〇四号室

 喫茶こかげ

 覚王山参道

 熱田社前

 宇宙の海さん派

 無頼坊主派

 蜘蛛


 蜘蛛を入れるな。

 入った。

 削除しようとした。

 削除できない。


 投票が始まった。


 女子大小路:保留

 東新町:条件付き賛成

 空港線:音声不明瞭

 ヒノキドラッグ:賛成

 デナイド:ドリンクバー利用者に限り賛成

 外兎:そばなら賛成、親子丼なら保留

 女王ツアー:確変中

 隣接ホテル:正式手続きに限り賛成

 旧女子大 学生寮:門限後のため保留

 四〇四号室:見つかりません

 喫茶こかげ:★★★★★

 覚王山参道:食後につき賛成

 熱田社前:未食欲保留

 宇宙の海さん派:胡椒の記載がないため反対

 無頼坊主派:骨まわりへの配慮がないため反対

 蜘蛛:未回答


「バカなのか」


 私は言った。

 震えた。


 瀬戸口連平が発言しました。


「もう発言でいい」


 投票結果が出ない。

 保留、条件、星、確変、未回答。

 民主主義が死んでいる。

 いや、これは民主主義ではない。

 街路主義だ。

 地名合議制だ。

 そんな言葉はない。

 今できた。

 できるな。


 白河さんが言った。


「反対理由を潰しましょう」

「胡椒と骨ですか」

「はい」

「そこを入れるんですか」

「入れないと通りません」

「暫定メモに手羽先を?」

「脚注で」

「脚注なら許されると思ってます?」

「会議では、脚注に重要事項が入ることがあります」

「ありますね。嫌ですね」


 私は暫定メモに脚注を足した。


 脚注一:手羽先に関する胡椒・甘辛・骨まわり・食べ方・派閥・仁義・宇宙観・仏道観については、本議題では扱いません。第二章以降、必要に応じて別途協議します。


 危ない。

 第二章以降、と書きかけた。

 消した。

 危ない。

 作中に制作都合を入れるな。

 私は書き直した。


 脚注一:手羽先に関する胡椒・甘辛・骨まわり・食べ方・派閥・仁義・宇宙観・仏道観については、本議題では扱いません。必要に応じて、別途正式な手続きを設けます。


 再投票。


 宇宙の海さん派:条件付き保留

 無頼坊主派:条件付き保留


「賛成しろよ」

「派閥ですから」

「派閥は面倒ですね」

「はい」


 女王ツアー:大当たり


 画面が光った。

 派手な音がした。

 スマホからパチンコ屋の大当たり音が鳴る。

 事務所が一瞬、七色に光った。

 鬼丸が驚いた。

 寮監が出席簿を閉じた。

 レビュー狐が目を丸くした。

 勘定守りが算盤を落としかけた。

 蜘蛛が少し動いた。


「やめろ!」


 私は叫んだ。

 叫びは当然、発言になった。


 瀬戸口連平が強めに発言しました。


「強め、じゃない!」


 女王ツアー:賛成


「賛成なんだ」

「当たりましたからね」


 榊原さんが言った。

 なぜ分かる。


 外兎:そば親子丼セットなら賛成


「メニューを増やすな」

「外兎らしいですね」

「榊原さん、外兎に理解を示さないでください」


 デナイド:ドリンクバー利用継続を条件に賛成


「条件が軽い」

「デナイドですから」


 隣接ホテル:正式手続きに限り賛成


 白河さんが頷いた。


「ありがとうございます」

「ホテルと会話しないでください」

「職場ですので」

「職場、強い」


 蜘蛛:未回答


 蜘蛛だけが残った。

 みんな、蜘蛛を見る。

 蜘蛛は天井にいる。

 動かない。

 沈黙。

 沈黙が伸びる。

 会議の沈黙は危険だ。

 誰かが余計なことを言う前触れである。


「蜘蛛は棄権扱いで」


 私は言った。

 画面が震える。


 蜘蛛:棄権


 通った。

 通るんだ。

 蜘蛛の棄権は通るんだ。


 投票結果。


 条件付き承認


 画面が白くなった。

 複合機が唸った。

 スマホが震えた。

 廊下の奥で椅子が片づく音がした。

 高架下の車の音が遠くなった気がした。

 女王ツアーの大当たり音が薄れた。

 外兎の券売機の音が消えた。

 デナイドのドリンクバーの氷の音が一瞬だけ鳴った。

 ヒノキドラッグの自動ドアが閉まる音がした。

 白河さんのホテルのロビーで、貼り紙が剥がれる音がしたような気がした。

 女子大小路の看板の光が、一段落ち着いた。

 全部、気のせいかもしれない。

 気のせいでもいい。

 今はそれでいい。


 公開されました。


 画面に出た。

 私は深く息を吐いた。

 息を吐いた瞬間、腹が鳴った。

 鳴ってしまった。

 事務所が静かになった。

 スマホが震えた。


 腹鳴りは出席意思とはみなしません。


 私は机に突っ伏した。


「勝ったのか、負けたのか分からない」


 白河さんが静かに言った。


「暫定対応です」

「そうですね」

「お疲れさまでした」

「ありがとうございます」


 その一言で、少しだけ戻った。

 人間側に。

 たぶん。


 二十三時五十九分。

 何も起きなかった。

 いや、正確には、何かは起きた。

 スマホが震えた。


 第一回 女子大小路本会議

 条件付き延期


 延期。

 中止ではない。

 会議は、死なない。

 知っていた。

 知っていたが、やはり腹が立つ。


 延期理由:議題整理不足、蜘蛛棄権、手羽先派閥保留、街の発言過多。


「街の発言過多」


 私は読み上げた。

 榊原さんが笑った。

 白河さんも、ほんの少し笑った。

 鬼丸は意味が分からない顔をした。

 寮監は出席簿を閉じた。

 レビュー狐は五つ星を書いた。

 勘定守りは算盤をしまった。

 ログ語りは廊下の奥で言った。


「記録しました」

「するな」

「しました」

「でしょうね」


 そのあと、みんな少しずつ帰った。

 鬼丸は縮むのを忘れて扉にぶつかり、寮監は門限後の退室として自分を記録し、レビュー狐は「会議としては長いが、混沌に味がある」と帳面に書き、勘定守りは未食欲を本人管理へ戻し、湯気は薄く消えた。

 白河さんは最後まで残った。

 榊原さんも残った。

 私は机に座っていた。

 疲れすぎて、立つ気になれなかった。


「瀬戸口さん」

「はい」

「今日は、かなり変でしたね」


 白河さんが言った。

 かなり変。

 白河さんがそう言うなら、相当である。


「白河さんでも、そう思いますか」

「はい」

「よかった」

「よかった?」

「私だけがおかしいのかと思ったので」

「それは違います」

「違いますか」

「街もおかしいです」

「救いがない」


 白河さんは少しだけ笑った。

 榊原さんも笑った。

 私は笑えなかった。

 いや、少し笑ったかもしれない。

 疲れていた。


 白河さんが帰り、榊原さんも帰った。

 事務所に一人になった。

 天井の蜘蛛だけがいる。

 私は机の上の紙を見た。

 複合機から、最後の一枚が出ていた。


 第一回女子大小路本会議:条件付き延期

 対象:女子大小路/東新町/空港線/関連各所

 備考:名称に関する暫定メモ公開。未承認会議は無効。街の発言過多。蜘蛛棄権。手羽先派閥は保留。次回未定。


 私は紙を引き出しに入れた。

 閉店処理。四〇四処理。鬼丸認証。位置情報障害。追憶カツ丼。レビュー狐。未食決済。高架下会議音声。本会議延期。

 九枚。

 九枚の紙。

 十話目なのに九枚。

 いや、数えるな。

 数えると増える。

 この街では、数えると増える。


 スマホが震えた。

 私は反射的に身構えた。

 画面を見る。


 新しい予定はありません。


 怖い。

 何もない通知が一番怖い。

 私はスマホを伏せた。

 天井を見る。

 蜘蛛がいた。

 蜘蛛は、少しだけ動いた。

 私は言った。


「お前、今日はよく棄権した」


 蜘蛛は答えなかった。

 当然である。

 だが、今日はそれでよかった。

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