40 月明かりの斉王府
阿念に連れられ、素月が向かったのは使用人たちが使う食堂だった。
さすがと言うべきか、斉王府は働いている人間が多いので、食事も全員が揃って食べるわけではない。
なので食堂に使用人全員が揃っているわけではないが、それでも二十人以上はいる。
「素月だよ。今日から王府の縫い子として雇われた子。全員知ってるだろうけど」
「よろしくお願いします」
阿念の声は大きくて通りやすい。
「一人一人紹介してたら一日が終わっちゃうから、働くうちに覚えればいいよ」
そう言って阿念は素月の手を引き、空いた席に座らせる。
夕餉は肉入りの麺だった。それから饅頭。
「ありがとう」
素月は阿念と並んで、夕餉を食べ始める。
──見られてる……
気のせいではない。
確実に今、食堂にいるほとんどの使用人が自分を見ている。
この自分に真っ直ぐ向けられている視線は、明らかに好意的なものじゃない。好奇心もあるだろうが、どことなく敵意のようなものも感じる。
全員が全員、歓迎してくれるとは思っていない。隣に座る阿念だって、こちらを歓迎しているかどうかは明らかではないのだ。
呂慈の指示に従っているだけ。
「見せもんじゃないんだけど?」
素月が黙々と食事をする中、視線に苛立ったのか阿念が大声を上げる。
その迫力はかなりのものだった。
こちらに向けられていた視線が、すっと消えていくのを感じる。
「ここでの生活、苦労することになるね、あんた」
にやっと笑う阿念には、不思議と腹が立ったりはしなかった。
むしろ悪戯っ子のようで、愛嬌を感じる。
「……ありがとう」
素月は小さく礼を言い、なるべく急いで食事を終わらせる。
元から人が多い場所は苦手なのだ。
「素月」
食堂から部屋へ戻る際、呂慈に呼び止められた。
「明日、朝餉の後に王府を案内します」
「わかりました」
「今日はゆっくり休みなさい」
素月に背を向け、呂慈は食堂へ。
今から夕餉なのだろう。
「呂慈さんは愛想ないけど、優しい人だよ。仕事も真面目」
この王府において、呂慈は上司ということになるのかもしれない。
「そうだ、一つ教えといてあげる」
素月の部屋の前、阿念が腕を掴んで部屋の中に入り込む。
「玉秀には気をつけなよ。間違いなく、あんたに対して良い感情は持ってない」
「玉秀? どうして、会ったこともないのに……」
「仕事はできるし愛想も良いけど、殿下に惚れてんの。だから気をつけなよ?」
阿念の言葉の意味は、説明を求めずとも理解ができた。
素月はそこまで鈍いわけじゃないから。
「じゃ、おやすみ〜」
「おやすみなさい」
悪戯っ子の笑みを浮かべて、阿念はひらひらと手を振り部屋を出ていく。
素月は一人になった部屋を見回し、蝋燭に火を灯す。
このまま眠ってしまっても良いと思ったのだが、目が冴えている。疲れているのに、頭ははっきりとしているのだ。
すぐに眠れる気がしないので、持ってきた荷物の中から刺繍道具を取り出す。気持ちを落ち着けるのなら、やはりこれだ。刺繍台に布を固定し、針に刺繍糸を通す。
何もない、ただのまっさらな布。
そこに針を刺し、糸を通していく感触。
ただそれだけに集中する。
他には何も考えない。
どこへ行こうが、繍女の自分がすべきことは変わらない。働く場所が、花仙楼から王府へ変わっただけ。
そして自分はいずれ、花仙楼へと戻る。
その日が来るとわかっているのだ。何も不安がることはない。
──波風を立てず、すべきことをすれば良いのよ
風が吹くと蝋燭の火も揺れて、素月の影も揺れる。
素月は揺れる灯りの中、眠くなるまで手を止めなかった。眠気が来る頃には、まっさらな布に見事な梅の花が咲いていた。
◇◆◇◆◇
夜、亥の刻。
徐慧は仕事を終え、江紹を伴い王府へと帰ってきた。出迎えたのは家令の衛簡と付き人の北斗。
「お食事はどうされますか?」
「不要だ、済ませてきた」
「さようですか……」
落胆した様子の衛簡を見ると、どうにも責められているような気分になる。
いや実際、責められているのだと思う。
徐慧は仕事を理由に帰りは遅く、食事も適当に済ませてしまうことが多々ある。
そして寝るのは自分の部屋ではなく書斎。
衛簡は主人の体を気遣っているだけ。
その気持ちはありがたいと思うが、何事にも優劣はある。
「今はそれで良くとも、いつ体が悲鳴を上げるかわからないものですよ。歳をとると、それがよくわかります」
「……わかったから、母上のようなことをお前まで言うな」
帰って早々のお小言は、気が滅入る。
「──承知しました」
納得した様子ではないが、引くしかない。
衛簡は徐慧よりも年上で、徐慧が生まれる前から王府で働いている。信頼しているが、やはり主従関係を壊すことはできない。
「やっとお帰りですか」
衛簡と別れ、書斎へ来た徐慧に遠慮なく声をかけたのは、下女の阿念だった。腕を組み、こちらを見ている。
「阿念、殿下の前で失礼だぞ」
「はいはい、わかりましたよ」
江紹に注意され、阿念はつまらなそうに姿勢を正す。
「問題でもあったのか?」
書斎に入らず、阿念に問いかける。
「特には何も。ただみんな、興味津々、って感じでしたねぇ。──あぁ、玉秀には気をつけろ、とだけは言っときました」
「…………わかった、下がれ」
「はいはい、っと」
悪戯っ子の笑みを浮かべ、阿念は軽い足取りで書斎を離れる。
「あいつは敬うということを知らんのか、殿下に対していつまでもあんな態度を取って……」
江紹が不満を口にするが、徐慧は気にしない。
元々、阿念を雇うと決めたときも、あれが自分に対して忠義を尽くすとは思っていなかった。
生まれは貧困層。言葉よりも先に、盗むことを教えられた、と本人も語るほど、徐慧とは生まれも育ちも違いすぎる。
それでも雇ったのは、色々と便利だからだ。金さえ払えば、あれは大抵のことならば引き受ける。
「何かお持ちしますか?」
書斎へ入れば、北斗が外套を受け取る。
「いや、いい。今夜はもう寝る。二人とも下がれ」
「承知しました」
江紹と北斗が書斎から出ていくと、室内は途端に静かになる。
ふと、蝋燭の火が揺れた。窓が開いているのだろう。
徐慧は剣を置き、窓に歩み寄る。少しだけ、窓が開いていた。窓の隙間から、月明かりが差し込む。
窓の向こうに見えるのは、夜空で真白く輝く月。
「…………」
窓を閉め、書斎を出る。
今夜は雲がないおかげで、月明かりを遮るものがない。灯りを持たずとも、問題なく歩ける。自分の足音だけが響く。
徐慧はしばらく歩いて、足を止める。視線の先には、縫い子の部屋がある。
あの部屋は先日まで、ただの物置として使われていた。
王府にも昔は縫い子がいた。尚服局で働いていた女官だったので、当然、腕は良かった。幼い頃は、その縫い子が仕立てた衣を着ていた。
だが歳には勝てず、生まれ故郷へ帰って余生を過ごしたいという本人の気持ちを尊重し、王府から縫い子はいなくなった。
他の縫い子を雇っても良かったのだろうが、わざわざ新しい縫い子を探してまで王府に置く必要もないと亡き父が判断したため、あの部屋はそれ以来、誰が使うこともなく、物置きになってしまったのだ。
その部屋に今は、灯りが見える。
素月は起きているのだろうか。
──想像もしていなかっただろうな、お互いに
徐慧にとって素月は、従弟の関心を引いた隙のない繍女。
多少、他の娘より違って見えたかもしれないが、まさか王府に雇うことになるとは思いもしなかった。
素月にとっての自分は、どうだろうか。
ただの大理寺少卿で斉王、といったところか。
この縁はどこかで切れると思っていた。
だというのに今、素月は斉王府にいる。助け舟を出したのは自分だ。決断に後悔はない。
案の定、根拠のない噂話が出回っているようだが、徐慧は皇族だ。表立って言いふらしたりする者はいない。
「…………何をしに来たんだろうな」
ぽつりと声を漏らす。
さっさと寝るつもりだった。寝室ではなく、いつもの書斎、寝心地が良いとは言えない簡素な牀榻の上で。
ただ窓が開いていて、それを閉めたら着替えを済ませて横になる。明日も仕事なのだ。
徐慧がそろそろ書斎へ戻ろうかという時、素月の部屋の明かりが消えた。縫い子の部屋は、他の使用人の部屋とは独立している。明かりが一つ消えただけで、周辺一帯の夜の色が一気に濃くなったように見えた。
なぜだかわからないが、明かりが消えた瞬間、徐慧は安堵した。理由は自分でもわからないが、素月はきちんと、寝台で眠るだろう。王府の主人である自分は、寝返りの打ちづらい牀榻で寝ると言うのに──ならば寝室へ行けば良いだけのこと、とわかっていても、やはり書斎での寝起きに慣れてしまった。
徐慧は来た道を戻る。月明かりに照らされる道を、一人歩く。一人分の足音が、耳に心地いい。
やがて見慣れた建物が見えた。明かりの灯る書斎。
徐慧は書斎へ入ると、手早く着替えを済ませ、蝋燭の火を消す。牀榻に横になり、目を閉じる。眠りに落ちるのに、そう時間は掛からなかった。




