39 斉王府の縫い子
斉王府の裏口から、少ない荷物を運び入れる。
冬が間近に迫る今日、素月は斉王府の縫い子として働くため、王府へとやって来た。
「思っていたよりもずっと荷物が少ないですな」
出迎えてくれたのは家令の衛簡と二人の女性。
「仕立てに必要なものなどは、遠慮なく呂慈に言うといい。王府の布地などの管理を任せている」
「よろしくお願いいたします」
素月が礼をすれば、呂慈は笑うこともなくただ頷くだけだった。冷たそうに見えるが、敵意のようなものは感じない。
「私は文四娘。郡主様のお世話を任されているの。もし何かあれば、声をかけてちょうだい」
「感謝いたします」
挨拶のために来たのだろう。
四娘はさっぱりとした笑顔を浮かべて、立ち去った。
「呂慈、あとは任せても大丈夫だね?」
「はい」
衛簡は柔らかな物言いで、表情も穏やかだ。
「素月、今日から君はこの王府の縫い子だ。王府の名を汚さぬよう、言動には細心の注意を払うように。では、私は仕事へ戻るよ」
衛簡は穏やかだが、今の一言で彼が王府に対してどれだけ忠実なのかがわかった。
残された素月は、自分の少ない荷物を抱えたまま、目の前に立つ呂慈を見つめる。
呂慈は細身の女性だ。背は素月より少し高い。年齢は、どれくらいだろう。
素月よりも年上なのは確かだろうが、四十は超えているような気がする。
「あなたの部屋へ案内します」
「よろしくお願いします」
ようやっと呂慈が口を開き、歩き出した。
素月はその後を黙って追いかける。
ほんの数日前、兄の素弦が都を離れると言ってきた。
突然のことで驚いたが、兄は以前から考えていたことらしい。見聞を広めるため、工房の頼れる仲間たちと一緒に万華国を巡る。
そして高子白の行方も探したい──これは我儘だ。諦めるための、最後の悪あがき。許してくれ。
そう言って、誕辰を迎える前に都を離れてしまった。
皓国を脱出してからというもの、兄と離れることはほぼなかった。
正直に言えば寂しいし、不安もある。
だが兄の覚悟は決まっていたらしく、淳雪には先に話していたようだ。見送るしかない。
素月は兄を都の外門まで見送り、少し早いが誕辰の祝い品も渡した。
こうなると分かっていたら、もっと旅先で役に立ちそうな物を仕立てたのに。
「ここがあなたの部屋になります」
考え込んでいた素月は、呂慈に声をかけられるまで気づかなかった。目的地に到着していたらしい。
素月は案内された部屋に入り、少しばかり驚く。
なんと続き部屋になっているのだ。手前の部屋が仕事場、奥が寝室らしい。
「良いのですか?」
「王府には以前、縫い子がいたのです。その者が使っていた部屋ですが、あなたが来るまではただの物置でした。ようやく本来の使い方ができるのです」
呂慈は敬語を崩さない。真面目な人なのか、それとも素月に対して壁を作っているからなのか、今の時点では何もわからない。
「それにあなたは、流れたとはいえ、皇太后様が後宮へ入れようとまで考えた繍女なのです。それ相応の待遇は与えられて然るべきでしょう」
抑揚のない呂慈の声。妬みや僻み、それこそ敵意すらもない。
ただ淡々と、事実のみを述べている。
「部屋は掃除してあります。王府の案内は明日することにしますので、今日はゆっくりと休みなさい。夕餉の時刻になったら、迎えをやります」
言うべきことだけ言って、呂慈はさっさとどこかへと行ってしまった。
──迎えをやる、つまりは勝手に出歩くな、ということね
素月はしばし悩んでから、荷物を手前の部屋──仕事部屋に用意された机の上に置く。
悪くない。むしろ良すぎる。相部屋だろうと思っていたのに、まさか一人部屋を与えてもらえるとは。
仕事部屋には必要な道具が一式揃えてある。自分が長年愛用している物があるので、これらは予備として保管しておこう。
素月はひとまず、部屋の中を見て回ることにした。他にすることもない。
仕事部屋は作業をするための机に、刺繍台も用意されている。棚は空っぽだが、仕事を任されるようになればすぐに物で埋まるだろう。
部屋の隅には衝立も置いてある。採寸をする際、衝立がないと困るのでこれは非常に助かる。使うかどうかはわからないが。
作業部屋には窓があり、開ければ母屋を見ることもできた。
この部屋は母屋からそう遠くはないようだ。
仕事部屋を見終わると、次は寝室。続き部屋ではあるが、扉で区切られているわけではない。布──暖簾で部屋を区切ってある。
寝室には寝台と衣をしまうための箪笥、鏡台、一人用の机と椅子が置いてある。
どれも簡素な家具だが、十分すぎる待遇だ。
寝台は今日にでも使えるらしい。
「どうしたものかしら……」
屋敷で働くのは今回が初めてだが、それでもわかる。
他の使用人と明らかに格差が出ているはずだ。
何事もなく平穏に過ごせれば良いと考えている素月にとって、この待遇はあまりにも厄介すぎる。
後宮であれ王府であれ、妬み僻みは生まれるもの。
そういったものは避けて通りたいのだが、どうだろうか。
「うわぁ、ほんとに別嬪だわ!」
少しばかり沈みかけていた素月の耳に届いたのは、少女の騒々しい声だった。
「あなたは……」
いつのまにやら。
下女の衣を着た少女が、部屋の入り口に立っている。
「アタシは阿念、よろしくね」
少女は満面の笑みを浮かべて、素月に自己紹介をした。
◇◆◇◆◇
花仙楼の工房で、錦児は冴えない表情で刺繍を刺していた。刺繍には刺した本人の感情さえも映し出す時がある──そう娟如は語るけど、今の錦児の刺繍はきっと、暗い感情が反映されているだろう。
「そんなに落ち込まないの。後宮行きは免れたんだから」
同僚に励まされても、錦児の表情は冴えないまま。
つい先ほど、斉王府へ向かう素月を見送った。
同僚の言うとおり、素月の次の雇用先は後宮じゃなくて斉王府。会おうと思えばいつでも会える。
「そのまま斉王様の側室になったりするのかなぁ?」
別の同僚が下世話なことを言う。
「そんなことありえないわよ」
「そうかなぁ? 殿下がわざわざ王府で働けるようにしてくれたんでしょ? 素月にその気がなくても、向こうにはあるかもよ? あんまり笑ったりしないけど、素月は美人だし」
「…………」
錦児は言い返す言葉を探したけど、何を言う気にもなれなかった。
そう、錦児が冴えない表情をしているのは、この「下世話なこと」も関係している。
徐慧は斉王であり大理寺少卿でもあるため、表立って口にしたりはしないが、噂というものはどんどん広がっていくものだ。
実際、錦児は店で接客する際に客からそれとなく聞かれた。
斉王殿下が繍女にご執心なのは誠なの?
後宮へ入れぬため、皇太后様に逆らったとか?
「みんな暇ね。そんな下らない話を信じるなんて」
「相手は斉王様だもの。今まで浮いた話一つなかったのよ? それなのに、たかが繍女のために動いた。ほんとにお手つきになっちゃうかもよ?」
からかうような同僚の言葉に、錦児は眉間にしわを寄せる。
「ふざけたこと言ってないで、手を動かして!」
「はぁい」
同僚は笑って、手元の刺繍に視線を戻す。
錦児も作業に集中しようと、刺繍台と向き合う。
錦児だって花仙楼の繍女だ。縫い物も刺繍も、そこらの娘よりずっと腕が良い。
本人が努力家なこともあって、腕前は徐々に上がっている。
錦児も、余計なことを考えたくないときは、刺繍をすることにしているのだが、やはり今日は落ち着かない。
今まで何人もの同僚を見送ってきたけれど──故郷に帰ったり、結婚のために辞めていく者は少なくない──、素月は親友なのだ。
──王府でうまくやっていけるかしら?
心配は尽きない。
素月は隙のない子だから、きっとどこへ行っても上手くやれるだろうけど、やはり不安は不安なのだ。
──後宮へ行くより、ずっとましなんだから!
不安はそうやって誤魔化すしかない。
錦児は針を持った手を動かしながら、素月が王府で何事もなく平穏に過ごせることを願うしかなかった。




