38 それぞれの進む道
昼間の丹花楼は賑やかだが、夜と比べればずっと静かだ。
胡蝶──淳雪はお茶と一緒に、蓮の実餡の饅頭を用意する。
「どうぞ」
「ありがとう」
素月と素弦は、兄妹そろって甘いものを好む。
「お二人がそろっていらっしゃるのは、珍しいですね」
二人とも、それぞれに仕事がある。
なので別々に来ることの方が多い。
時たま、淳雪が二人の住む家に足を運ぶこともあるが、やはりそれも仕事の都合によっては二人同時に会うことができないこともある。
「大事な話があって来たの」
饅頭に手をつけないまま、素月がこちらを真っ直ぐに見つめる。
この真っ直ぐな目は、昔から変わらない。
「悪い話ではないわ。けれど少しばかり、私が身を置く環境が変わってしまうから」
素月はゆっくりと落ち着いた声音で話し始める。
淳雪はそれを、黙って聞いていた。
「──斉王府の縫い子になるのですね」
素月の話は、とてもわかりやすかった。感情論ではなく、事実のみを淡々と話してくれたおかげだろう。
だからなのか、淳雪はすべてをすんなりと受け入れることができた。
「ほとぼりが冷めれば、花仙楼へ戻れるわ」
「そうですわね。後宮へ行くことに比べれば、ずっとずっとましですわ」
後宮は大きな大きな鳥籠。牢獄と表現する者もいる。
淳雪は皓国の国公の家に生まれ、蝶よ花よと育てられた。後宮へ入ったのは、嫁入り前に箔をつけるため。
本来、後宮へ入った者は個人の意思で出ることは叶わないが、良家の娘であれば皇帝、あるいは妃嬪の計らいで縁談を賜り、後宮を出ることができる。
淳雪も当然、そうなると思っていた。国公の娘であるため、下働きなどしたことは一度もなく、後宮へ入ってすぐ、皇后の一人娘である霽鏡公主・皓佳月の侍女となった。
妹がいた淳雪にとって、佳月は立場こそ上ではあるものの、妹のような存在だった。
毎日は穏やかに過ぎて行き、十七歳で初めて恋を知り、十八歳で後宮を出ることになった。──国が滅ぼされたから。
淳雪はそっと、左頬の火傷の跡に触れてみる。美しいと言われた自身の顔に、淳雪は傷をつけた。妓楼で二胡を弾くことは構わないが、妓女になりたくはなかったから。
もっと他に良い方法があったのかもしれないが、あの時はこうするしかないと思ったのだ。
国公府で大事に育てられ、後宮という大きな鳥籠の中で生きてきた娘は、あまりに世間知らず。
それでも己の尊厳を守るために出した、苦肉の策がこの火傷の跡。
結果として、淳雪は客を取ることはなかったので、無意味ではなかったと思う。
丹花楼の女将も、この火傷を見て同情してくれた。
「斉王府の縫い子になってしまわれたら、当分、注文はできませんね」
淳雪は少しばかり残念そうに、饅頭を食べる素月に声をかける。
素弦は半分ほど食べ終え、素月はようやく食べ始めたようだ。
「すぐに花仙楼へ戻れるわ。安心して」
素月が穏やかな笑みを浮かべる。
まだ十八歳なのに、この人は随分と苦労を重ねてきた。公主として生まれ、望めばなんでも手に入った何不自由のない生活が、ある日を境に一変した。
今でこそ落ち着いた生活を送れているが、ここに至るまでの道のりは相当に険しかった。
その当時、十八歳の淳雪でさえ悲しくて苦しくて悔しくて、いっっそ死んでしまえば楽になれるのに、と思っていたが、十歳の幼い公主と十三歳の皇子はどうだったのだろうか。
「そろそろ戻るわ。荷物をまだまとめ終えていないの」
冬が来る前に、素月は斉王府へ移り住む。
そのための準備をしている最中に、わざわざ立ち寄ってくれたのだ。
「兄上はどうする?」
「少し話があるから、残るよ。気をつけて帰るんだよ?」
一緒に帰ると思っていたが、素弦だけが一人、淳雪の部屋に残った。
素弦の話とはなんだろうか。素月のこと?
素弦は妹思いで、いつも妹の心配ばかりしているから、話というのも素月のことだと思っていた。
「高師父を探してみようと思うんだ」
思いがけない話に、淳雪は固まって身動きが取れなかった。
高師父というのはつまり、高子白のことだ。皓国の将軍。
そして淳雪の初恋の人。
もう一生、想いを伝えることもできない人。
「実は以前から、工房の親方に見聞を広めてみないか、と言われてたんだ。素月を一人残して行くのは嫌だったから断り続けてたけど……もしかしたら今なのかもしれない、と思って。修行も、師父を探しに行くのも」
素弦が懐から取り出したのは、子白の似顔絵だった。よく描けている。
淳雪の胸に、懐かしくも悲しい気持ちがじんわりと広がっていく。
「期待すればするほどに、落胆は大きいものですわ」
希望を持ちたくないのだ。愛した人を失う痛みは、一度で十分。
「わかってるよ。でも師父が簡単に死ぬような人だとは思えない。──最後の悪あがきだと思ってくれ」
「お嬢様にはなんと伝えるおつもりですか?」
「師父のことは言わないよ。反対するだろうから。ただ修行のために万華国を巡るとだけ伝える、今夜ね」
どうやら覚悟は決まっているらしい。
ならばもう、淳雪がどうこう言えるはずもない。
「──期待はしません、申し訳なく思いますが」
「それが正しいよ」
素弦は優しく微笑む。
たった二人の兄妹は、そろいもそろって優しすぎる。
だからこそ、淳雪も子白も守り抜こうと心に決めたのだ。
「ご無事をお祈り申し上げます」
覚悟の決まった素弦に伝えるべき言葉は、これしかない。
淳雪が仰々しく礼をすれば、素弦は困ったように笑っていた。
「素月のことを頼むよ。──きっと理解してくれるさ」
素弦は立ち上がり、部屋を出て行く。
それぞれが進むべき道へ進もうとしている。
自分はそれをただ見守ることしかできない。情けないが、二人が帰ってきた時、出迎える人間は必要だ。
淳雪は空になった茶杯を片付けながら、成長した二人の兄妹がこれから先、何事もなく穏やかに過ごせることを願うばかりだった。




