37 母が願う息子の幸せ
白蓮は息子に申し出た通り、皇太后の住まう五福宮へ来ていた。五福宮へ来たのは、今回が初めてではない。
もう何度も訪れている。
「皇太后様に拝謁いたします」
「礼は良いから、座りなさい」
「感謝いたします」
白蓮は皇太后の隣に腰掛け、皇太后を見やる。機嫌は良いようだ。
と言っても、皇太后が機嫌を悪くすることは滅多にない。怒るよりも先に、悲しむ人だから。
「そなたから訪ねてくるとは珍しい。何かあったのか?」
心配するような皇太后の声に、白蓮はこれ幸いと、言いにくそうに目を泳がせる。
すべては演技。人の良い皇太后を騙す形になるのは申し訳ないが、こちらにも息子との約束があるのだ。
「何かあったのだな? 申してみよ」
「…………」
「言いにくいことなのか?」
大袈裟に困ったような素振りをすれば、皇太后は白蓮の手をそっと握ってくれた。
「申してみよ」
「……どうかお怒りにならないでくださいませ」
覚悟を決めたように、白蓮は皇太后の手を握り返す。
「皇太后様が、我が王府の縫い子を後宮へ入れると聞いたのです。それは誠なのですか?」
「縫い子? 斉王府に縫い子がいたのか?」
「つい最近、新しく雇ったのです。素月と言うのです。聞き覚えはございませんか?」
白蓮が伏し目がちに言えば、皇太后は驚いた顔でそばに控える侍女・柊児を見た。
「素月とは、あの繍女の名ではなかったか?」
「さようでございます」
柊児は落ち着いた声音で答える。
かつては皇帝の乳母も務めた経験を持つ柊児は、侍女ではあるが六局を統べる女官さえも礼を尽くす存在だ。
今年でいくつになっただろうか。少なくとも六十は超えているだろうが、本人は生涯現役を貫くと公言している。
「陸尚服はそのようなことを言っていたか?」
「いえ、聞いてはおりません」
陸尚服はその名が示す通り、尚服局を統括する女官の名である。
「皇太后様の命に従わねばならないことは承知しておりますが、ようやく良いと思える縫い子を見つけたので……残念でならず……」
「そうだったのか……」
やはり皇太后は人が良い。
もう一押しといったところ。
「慧児の仕立ても一手に任せようと思っておりました。ですが皇太后様がお望みであるなれば」
「良い良い。繍女ならば他にもおる」
皇太后は明るい笑顔を浮かべ、安心させるように白蓮の白い手を撫でる。
「一体どれほどのことかと身構えたが、たかが繍女のことでこの世の終わりのような顔をするでない」
「義母上……感謝いたします」
これで息子に良い報告ができる。
白蓮は安堵し、皇太后に笑顔を向けた。
「慧といえば、あの孫はいつまで気楽な独身生活を送るつもりなのだ? 斉王なのだ。今すぐ妻を迎えよとは言わぬが、そう言った話が出てもおかしくはなかろう?」
その件については、白蓮もずっと頭を悩ませている。
だが本人にその気がないのだ。仕事ばかりで、浮いた話の一つもありはしない。
「わたくしもそれとなく話しているのですが、当の本人にその気がないのでは、どうしようもありません」
「周りがお膳立てしても、無理なのか?」
皇太后の言葉に、白蓮は考え込む。
あの仏頂面の息子が、女性に対して優しく愛情を持って接する姿が、どうにも想像できない。
まずもって、笑っている顔が浮かばないのだ。
父の徐珏は不器用ではあったが、不器用なりの優しさと愛らしさがあった。
兄の徐絋は軍人には思えぬほど朗らかで、春の日差しのような子だった。
なのにどうして、徐慧だけあんな愛想の欠片もなければ、理屈っぽい子に育ってしまったのだろうか。
兄が春の日差しなら、弟は凍てつく冬だ。
「近々、長葉県主が都に戻ってくるのだ、どう思う?」
どう思う──それはつまり、長葉県主を斉王妃にどうか、という意味である。
白蓮は平静を装いつつ、微笑みを崩さない。
「こればかりは巡り合わせとしか」
否定も肯定もせず、白蓮はそう答えるしかない。
白蓮だって、息子には早く妻を娶ってもらいたいと思っている。夫を亡くした後、長男も亡くした経験からか、人はいつ死んでもおかしくないのだと思うようになった。自分さえも、いつこの世を去るかわからない。
だからこそ、徐慧には妻が必要だ。妻がいれば、母を亡くしたあの子を支えてくれる。子がいれば、生きる意味も見出せる。
かつての自分がそうであったように。
ただ長葉県主はどうだ、と聞かれると、良いとは言えない。
──あの子は気が強いから……
幾度か顔を合わせ、言葉も交わしたことがある。愛らしい顔立ちと、常に堂々とした立ち振る舞いは、とても大事に育てられたことを感じさせる。
悪いわけではないが、良いとも言えない。
徐慧とは合わない、そう思うのだ。
「まあ良い。焦っていては、良縁を見逃してしまうからな。だが宝蘭が戻った際は、慧と会わせてみよう。良いな?」
「承知しました」
微笑を浮かべ、白蓮は頷く。
この話をしたら、徐慧はきっと、いや間違いなく機嫌を悪くするだろうが、白蓮にはどうしようもない。
本来の目的である、素月の後宮入りは阻止できたのだ。自分は良くやった。
◇◆◇◆◇
「なぜそんな話になったのですか?」
自分は良くやった──自分で自分を褒めてあげたいくらいなのに、息子ときたら相変わらずの仏頂面。凍てつく冬のような目で、こちらを睨んでくる。
「下手に断って皇太后様の機嫌を損ねて、繍女はやはり後宮へ、と言われでもしたらどうするつもりなの?」
良い香りのお茶に口をつけ、白蓮は視界から息子を追い出す。
実の息子とはいえ、やはり威圧感がある。
「…………繍女の件に関しては、感謝しています。しかし県主に会う気はありませんよ」
思っていた通りの反応は、実につまらない。
「県主が都へ戻ってくるのはまだ先よ。皇太后様がお忘れになる可能性だってある。そうやって怖い顔でこちらを見るのはやめて」
小さい頃は人並みに笑ったり泣いたりする子だったのに、いつからこんな冷徹人間になってしまったのだろう。
昔から自分に厳しい子だったけれど、拍車がかかり始めたのはやはり、父親が亡くなってからだ。
それを思うと、なんとも言えない気持ちになる。
本当は分かち合わせねばならない重責を、たった一人に背負わせてしまっているのだから。
「けれど実際のところ、結婚からは逃れられないわ。いずれあなたも、妻を娶る日が来る」
叶うのならば、徐慧を心から愛し、支えてくれる女性と幸せになってほしい。子どもは──いてもいなくても良いわね。
白蓮は茶杯を卓に置き、愛した男性のことを思い出す。
徐珏に嫁いだ白蓮は、一向に懐妊の兆しが見えず、斉王の母──つまりは徐慧の祖母に随分と嫌味や皮肉を言われたものだ。
義母は徐珏に幾度も側室を持てと話していたが、徐珏は一度として首を縦に振りはしなかった。
── 白蓮さえいれば、子がおらずとも良い
そう言ってくれたことが何よりも嬉しくて、白蓮はまた、徐珏に恋をした。不思議なもので、同じ人に何度も恋をするのだ。
きっとこれは、本当に愛する人を見つけた者にしかわからないだろう。
それから義母が風邪をこじらせて亡くなった翌年、徐絋が生まれ、その後、徐慧も生まれた。
過去、子ができぬことで数えきれないほど涙を流したのだ。
こんな経験、誰であってもしてほしくはない。
だから多くは望まない。望むことはひとつだけ。
たった一人残った息子が、心から愛し合う女性と結ばれること。
だがこの望みが叶うのは、非常に難しい。
何せ当の本人にその気が全くないのだ。
白蓮は仏頂面の息子を見つめ、これ見よがしにため息を漏らした。
郡主 県主
時代や作品などによって定義が変わってくるかと思いますが、今作では郡主を王の娘、県主は郡王、もしくはそれに準ずる女性に与えられる階級として使わせていただきます




