36 過去の面影
斉王府の縫い子として雇うと言われたその日の夜、素月は気持ちを落ち着け、兄・素弦に最近起きた出来事を話すことに決めた。
素弦は妹のいつもとは違う様子に身構えていたが、その表情は素月が予想していた通り、驚いて、慌てて、そして最後には青くなった。
「なんで黙ってたんだ!?」
「兄上、声が大きすぎるわ」
「そんなこと今は──!」
椅子から立ち上がった素弦は、落ち着くためなのか部屋の中を歩き回る。
素月は黙って、兄の言葉を待った。
この日まで話さなかったのは、本当に申し訳ないと思っている。大事なことはきちんとお互いに話す、それは二人だけの兄妹の、唯一の決まり事。
素月だって本当はすぐに話したかった。
けれど話したところで、問題は何一つとして解決しないとわかっていたのだ。兄がどんな反応をして、何を言うかも容易に想像ができた。
今の自分たちは無力なのだ。自分たちの生活を支えるだけで手一杯。
たまの贅沢ができれば上々。
そんな中で、素月に救いの手を差し伸べてくれた人がいた。思いがけない提案ではあった。斉王府の縫い子になる──仕事は今と変わらない。働く場所と、主人が変わるだけ。
この騒動が落ち着いて、人々の関心が薄れた頃に、花仙楼へ戻れば良い。
徐慧はそう言っていた。他にもいろいろと気遣いをしてくれたが、素月は後宮へ行かずに済めば、それだけで満足だ。
もちろん、まだそうと決まったわけではない。
徐慧もうまくいく保証はないと言っていた。
これは賭けなのだ。
この賭けに勝てれば、「素月」でいられる。
「都を離れよう! 淳雪にも伝えて」
「兄上、私はここにいるわ。──殿下に賭けたんだもの」
やはり兄は逃げることを選んだ。
素月は冷静に首を横に振り、兄を見つめ返す。
「きっとうまくいくわ」
「……相手は皇太后なんだろう? そう簡単に覆ったりするものか」
「でも信じるしかないわ。私は信じると決めたの」
ここで逃げたら、花仙楼に迷惑がかかる。
何より逃げてばかりの人生は嫌だ。
「……もしもうまくいかなかったら、嫌だと言って暴れたとしてもお前を連れて都を離れる。花仙楼や楼主に恩があるのは僕も十分過ぎるほどにわかってる。それでも、お前を後宮へ行かせるわけにはいかない」
ようやく落ち着いたのか、素弦は椅子に座り直した。青かった顔には、赤みが戻っている。
「けど殿下はなぜ、そこまでしてくださるんだ?」
「それはわからないわ。聞かなかったから」
正確には聞けなかった、という表現が正しいような気がする。
あの時は自分の最悪としか言えない現状が打開できるならば、とそちらにばかり気が向いていて、徐慧がなぜ自分を助けようとしてくれているのか、という考えに至らなかった。
「ただの繍女に、普通はここまでしないはずだ。考えたくはないが、お前に対して特別な感情があったりしないのか?」
「特別な──ありえないわ」
すぐに兄の言葉を否定した。
そうであってほしいと願うから。
それに徐慧は、斉王府を辞めた際、素月について良からぬ噂がついて回った場合のことまで考えてくれている。
あいにくと嫁ぐ気はないので、良からぬ噂はむしろ好都合だ。
「良からぬ噂か……確かに、ありもしない噂を真に受ける者はいるだろうな」
兄の言う通り、素月はただの繍女だ。
そのただの繍女を後宮へ入れさせないため、斉王府で雇うとなれば、第三者にはどう見えるだろうか。
斉王のお手つき、そう思われる可能性もある。
「構わないわ。どうせ嫁ぐ気などないもの」
「それはそうだが……」
貞淑がどうだのと、今はそんなことを言っている場合ではない。
「後宮に行くより、ずっとましだわ。もしも後宮で私の正体が知られでもしたら、どうなると思うの? 兄上、私たちは殿下を信じるしかないの。わかってくださるでしょう?」
「…………わかったよ」
納得した様子ではないが、今の自分たちにできることは何も無いのだ。信じて待つしかない。
こういう時、何もできない自分を歯痒く思う。
嫌な記憶が蘇る。
あの日、母を残して生まれ育った皓月城を脱出した際も、自分は何もできなかった。幼かったから仕方がない──そんなの言い訳だ。自分よりも年下の皇子や公主が残っていることを、知っていたのだから。
もしも自分が皇子で、成人していて、戦の経験もあったのなら、城に残って最後まで戦い抜いただろうか。
それとも母を連れて、一緒に逃げ出しただろうか。
考えたって無意味だとわかっていても、考えてしまう時があるのだから仕方がない。前を向いて歩けと言われても、人は過去を振り返らずにはいられないのだ。
過去があって今があるのだから、誰も過去からは逃げられないし、拒むこともできない。
「後宮と比べれば、たしかに斉王府の方が何十倍もましだ」
諦めたのか、納得したのか。
素弦は疲れた顔で、何度も頷く。
「兄上は近頃、何も変わりはないの?」
「……僕は何もないよ」
素弦は優しく笑う。
でも素月にはわかった。兄は何か隠し事をしている。嘘が昔から下手だから。
そして笑顔も、昔からちっとも変わらない。優しくて、穏やかで、柔らかい。
素弦は母親似なのだ。周徳妃を思い出す。素弦の実母だ。
素弦と同じように優しくて穏やかで、柔らかい女性だった。息子に対して甘すぎる、と素月の母──つまりは皇后に言われていたが、徳妃の甘さが変わることはなかった。
素月のことも可愛がってくれて、よくお菓子をくれたものだ。
そういえば兄は甘いものが大好きなのに、近頃は食べているところを見たことがない。
「淳雪にも会いに行かないと。聞いたら驚くだろうな……」
疲れ切った兄の横顔を、素月はぼんやりと眺める。
兄は大人になったけれど、優しい笑顔も嘘が下手なところも変わっていない。
兄と比べると、斉王は随分と仏頂面だ。
ふとそんなことを考える。松香の匂いがまだ、残っているような気がした。
「素月? 疲れたのなら、もう休むといい」
話しかけても妹がまったく反応しないから、心配になったらしい。
素月は肩を叩かれ、こくりと頷く。
近頃は本当にいろんなことが重なって、あまりよく眠れていないのだ。
なんとなく、今夜は眠れそうな気がする。
素月は兄を残し、先に寝台へと横たわる。目を閉じると、松香の匂いが一層、強くなったような気がした。
そんなの気のせいに決まっているのに、目を開けたら、目の前にあの人が立ってるんじゃないか、と思ってしまった。
素月はその夜、久しぶりに熟睡できた。
翌朝、目を開ければそこには優しい笑顔を浮かべる兄がいて、松香の匂いを感じることはなかった。




