35 酒を飲み交わす夜
「腕を水平に──ありがとうございます」
素月は慣れた手つきで、北斗の採寸を進めていく。
徐慧の書斎に通されたのは、今回で二度目。来た目的は、北斗の採寸。
前回、今の徐慧には合わない衣の新たな活用を個別に依頼された。処分するのは簡単だが、ほとんど袖を通していないだけでまだ十分着られる。
なのでそれらのいくつかを仕立て直し、付き人である北斗に賜与することに決まった。
北斗は十六歳を迎えたばかり。
これからまだまだ背も伸びるはず。少しゆとりを持って仕立て直せば、すぐに衣がお役御免になることもないだろう。
「殿下、本当によろしいのですか? 僕がいただいてしまって」
「私の付き人に、私のものを与えて何が悪い?」
書斎の奥、執務机で本に目を通す徐慧は、官服姿ではない。休みなく働いているのかと勝手に思っていたが、きちんと休暇はあるようだ。
「では、ありがたく頂戴します!」
北斗の声は溌剌としていて、夏の日差しを思わせる。自分とは二歳しか変わらないのに、北斗はなんだかとても──子どもっぽい。裏表がなく、無邪気な子どものようだ。
素月は二人のやり取りを微笑ましく思いながらも、やはり集中力に欠けている。
きちんと仕事に向き合わねば、とわかってはいても、ふとした瞬間に思い出してしまう。
尚服局、林司衣、後宮、そして皇太后──今受けているこの仕事は、他の者に引き継ぐことになるだろうか。
「素月さん? どうかしましたか?」
「え? あ……、なんでもありません。採寸は終わりました。ありがとうございます」
素月が丁寧に礼をすれば、北斗は明るい笑顔を返してくれた。
「お茶をお持ちしますか?」
「ああ」
「承知しました」
北斗は軽やかな足取りで、書斎を出て行く。黙っているよりも、動く方が性に合っているのかもしれない。
素月は採寸に使ったものを片付けながら、自分が記した寸尺を確認する。
「心ここに在らずだな」
確認に意識を向けていたせいで、徐慧の声にすぐ反応できなかった。
いや、実際はただ文字を眺めていただけだ。
徐慧の言う通り、心ここに在らずの状態。
「申し訳ございません」
謝罪を口にすれども、それが形だけであることを自分が一番よく理解している。
「その反応を見るに、後宮へは行きたくないようだな」
「なぜそれを……」
「立場上、いろんな話を耳にする機会が多くてな」
徐慧の方を見れば、彼はこちらを見てはいなかった。
そのことに少し安堵する。
「行きたくないのか?」
徐慧に問われ、素月はなんと答えるべきか迷った。
本音はもちろん、行きたくない、この一言に尽きる。
だが残念なことに、素月の意思は関係ないのだ。尚服局へ招きたいと言ったのは皇太后。
それはとても光栄なことではあるが、同時に拒否権はないという意味もある。
どれだけ考えても悩んでも、迎える結末は変わらない。
「──従うほか、ありません」
「つまりは行きたくないということだろう?」
素月が言いたくても言えない本音を、徐慧は簡単に言ってしまう。
それはこの人が、斉王だからだろうか?
「私が聞きたいのは、本音だ。建前じゃない」
「────行きたくありません、あんなところ」
まだ兄にも話せていない。
娟如や錦児にだって、はっきりと吐露していない本音を、なぜ自分は今、この人に向かって言ってしまったのだろう。言葉に出してしまったら、溢れ出てしまうとわかっているのに。
素月は感情を抑え込もうと、拳を握りしめる。油断したらまた、視界が歪んでしまいそうだから。
「あんなところ、か。──皇太后の推挙だ。ある程度の待遇は約束されているだろうし、場合によっては、今よりも良い暮らしができる可能性もある」
「私は今のままが良いのです」
徐慧と目が合った。真っ直ぐにこちらを見る徐慧の目を、素月は逸らさずに受け止める。
「私の願いは、ただ穏やかな日々が続けば良い。それだけなのです。他には何も、望みません」
今自分が、どんな顔をしているのかはわからないけれど、涙は溢れていない。
「なれど私の意思は無いも同然なのです。──私の仕事は、他の者が引き継ぐことになるかと思います」
せっかく任せられたというのに。
それは少しばかり残念ではある。
素月は気持ちを切り替えるように、荷物の片付けを再開する。
思いがけず本音を吐き出したからか、諦めがついたような気がした。
今夜、兄に話そう。
もちろん、淳雪にも。後宮へ行ってしまったら、もう二人には一生会えないかもしれない。先のことを考えると、やはり気分は沈む。
「もし行かずに済むとして──」
徐慧の言葉に、素月の手が止まる。
「多少のことなら我慢はできるか? しばらく花仙楼には戻れないだろうが」
「それは一体、どういう意味でしょうか?」
自分にはどうすることもできないこの状況を打開する術を、徐慧は持っているのだろうか。
否応がなしに、素月の胸に期待感が押し寄せる。
「言っておくが、私にできる範囲で動くだけだ。結局は後宮へ行く羽目になるかもしれない。それでも賭けてみるか?」
徐慧が椅子から立ち上がり、こちらに歩み寄る。目の前に徐慧が立つと、松香の匂いが強くなる。
先ほど、北斗の採寸を済ませたばかりだからか、やけに徐慧が大きく見えた。
「賭ける……?」
「うまくいく保証はどこにもないが、何もせずに待っているよりはましだろう。どうする?」
徐慧は肝心なことを口にしてくれない。
それが素月を躊躇わせたが、徐慧の言う通り、動かなければ状況は変わらないのだ。
ならば、答えは考えるまでもない。
「──殿下に賭けます」
素月が力強く答えれば、徐慧は満足そうに頷く。
「では斉王府の縫い子として雇うこととする」
「…………斉王府の、縫い子?」
何かを予想していたわけではないけれど、それでもやはり、予想外という表現が相応しいような気がする。
斉王府の縫い子になれば、後宮に入らずに済むのだろうか?
◇◆◇◆◇
夜、徐慧は珍しく母と二人、酒を飲み交わしていた。扉を開けているため、秋の夜風が心地よい。月も見える。
「珍しいこともあるものね」
「たまには良いでしょう」
意外なことに、白蓮は酒に強い。酔ったところは、一度として見たことがない。
逆に亡き父は、酒にかなり弱かった。酒自体、あまり好みではなかったようだ。
兄も酒に弱かったが、弱いくせに酒が好きだった。酒癖は悪くなかったが、すぐ寝てしまうのだ。何度、部屋まで運んだことか。
そして徐慧は母に似て酒に強いが、酒は好まない。
「あの繍女を側室に迎えたいの?」
母の遠慮のない言葉に、徐慧は口に含んだ酒を吹き出しそうになった。
「なんの話ですか……」
「皇后だけでなく、皇太后様にも関わろうとしてこなかったお前が、ただの繍女のために動いたからよ。野暮なことを聞いている自覚はあるけれど、そう見てくる者が出ることを覚悟なさい」
素月が帰ってすぐ、徐慧は家令の衛簡に縫い子を雇う旨を伝えた。
当然、白蓮の耳にはすぐ入る。
徐慧が未だ妻を娶っていない以上、この王府の家政を取り仕切るのは白蓮なのだ。
「──理解していますよ、そのくらい」
きちんと先の先まで読んで考えた上での決断だ。後悔はない。
「……皇太后様がお許しになるかしら」
「許していただかねば。──孫の頼みですからね」
徐慧は昔から、何かをねだったりすることがない。欲しいものはあるか? と聞かれても、首を横に振るばかり。我慢しなくて良いと大人たちに言われたものだが、本当に欲しいものはなかったのだ。大人たちから見れば、聞き分けの良い子だと思われていたのだろう。
だからこそ、徐慧の頼みを皇太后は聞いてくれるはずだ。
恐らく、徐慧が皇太后に孫として頼み事をするのは今回が初めてではないだろうか?
「お前が動けば、余計な噂が広がるだけよ。わたくしが近いうちに、皇太后様にお会いしてくるわ」
「面倒をかけるわけには」
「わたくしの我儘で、お前をここに縛り付けているのです。面倒をかけているのは、私のほうでしょう。……母親だというのに、情けないわ」
我儘、というのは徐慧の軍入りを頑なに拒んだことだろう。
兄の軍入りも、母は拒んだ。父が亡くなった後のことだったから。
その兄が戦死したことにより、母は残ったたった一人の息子だけはなんとしても守る──そう強く決意し、徐慧も母の気持ちを尊重した。
「本当に特別な感情はないの?」
「……ありませんよ」
酒杯の中には、まだ酒が残っている。
それをつまらなそうに眺めながら、徐慧はぶっきらぼうに答える。
傍目から見れば、自分は気に入りの繍女を後宮へ入れぬために、わざわざ縫い子という体で雇い、斉王府に囲ってしまったように見えるだろう。
そう見られるのは想定の範囲内。浮ついた話が一切出てこない斉王の色恋沙汰は、面白おかしく広まっていくだろうが、気にはしない。
どうせ人は、すぐに新しい話題に飛びつく。秋が終わり、冬が来て、新しい年を迎える頃には、都に広がる噂はまったくの別物に変わっている。
「母上、うまくやってください」
「心配せずとも、どう立ち回るのが良いのかぐらい、わかっているわ」
勝ち誇った笑みを浮かべる母を頼もしく思うのと同時に、一体、皇太后の前で何を言うのかと不安も覚える。
しかしここまで来たら、母に任せるしかない。
実際、自分が動けば事態が大きくなってしまう可能性があるのは事実だ。
──うまくいったとしても、彼女は当分、花仙楼へは戻れないだろうな
ほとぼりが冷めれば、解雇して花仙楼へ戻す。だが、もしかしたら良くない噂がついて回るかもしれない、という話を素月には事前に伝えている。
斉王が気に入りの繍女を王府に招き入れたが、しばらくして解雇すれば、追い出されたように見られてしまう。
年頃の娘にそんな評判がついてしまったら、嫁ぎ先を見つけるのに苦労する。
当人が望むのであれば、こちらが責任を持って良い縁談を用意しても構わない。
そんな懸念も一応伝えたが、素月は気にした様子もなかった。
──お気遣いに感謝いたします。なれど嫁ぐ気はないので、ご心配には及びません。
嫁ぎ気はない、か。それも良いだろう。素月の人生だ。本人が良いと思うのであれば、外野がとやかく言うべきではない。
そういえば素月は、後宮を「あんなところ」と言っていた。
まるで後宮がどんなものか知っているかのような口振りが、今になって気になった。
「心配すべきは皇后でしょう。──黙っていてくれることを願うわ」
白蓮はそう言って、酒杯の中の酒を飲み干す。
相変わらず、良い飲みっぷりだ。
母は機嫌の良い時にしか、酒を飲まない。悲しみや苦しみを、酒で誤魔化したりはしない。
もし母が悲しみを酒で誤魔化すような性格であったら、とうの昔、それこそ父が亡くなったとき、酒に溺れてこの世を去っていたことだろう。
母は父を心の底から尊敬し、愛していたから。
それは父も同じだ。父は側室を一人も持たなかった。白蓮さえいれば、子がおらずとも良い──そう言って側室の話を幾度も蹴ったとか。
息子ながら、良い夫婦だと思う。
徐慧は酒杯を見つめ、残った酒に口をつける。酒は好まないが、久しぶりの母との語らいは悪くはない。
徐慧は手酌で酒を注ごうとする母の手を制し、酌をする。
「たまには書斎ではなく、自分の部屋で休みなさい。良いわね?」
「…………善処します」
早くも前言撤回しそうになる。お小言はごめんだ。
徐慧は誤魔化すように、残った酒を一気に飲み干した。




