34 ただの繍女の行く末
今日も今日とて、大理寺は忙しい。
徐慧は少卿としての務めを果たすべく、朝からずっと報告書に目を通している。
その報告書の中に、「柳越」の名を見つけた。
以前、羅家の令嬢の死を、賄賂のために偽装した男だ。
この事件をきっかけに、柳越の身辺をきちんと調査したのだが、どうやら随分と金にがめつい男だったようで、賄賂を受け取ったのは羅家が初めてではなかったらしい。予想はしていたが。
その後、柳越は大理寺を解雇されることとなった。
当然の結果だ。異論を唱える者はおらず、徐慧からすればよい見せしめになったとさえ思っている。
役人と賄賂はどうにも切り離すことが難しい組み合わせのようだが、金に目が眩んだ結果が悲惨なものでしかないと知れば、不正を働く者も減るだろう。
「殿下、今よろしいでしょうか?」
「どうかしたのか?」
報告書を閉じ、部屋に入ってきた江紹を見やる。
どうやら大事な話があるらしい。表情が真剣だ。
「事件か?」
「いえ──いや、ある人にとっては事件かもしれません」
「どういう意味だ?」
「柊児殿から、殿下のお耳に入れておいた方が良いとのことで」
江紹が近づき、耳打ちする。
徐慧は表情を崩すことなく聞き終え、考え込むように机の上で手を組む。
「皇太后が知ったのか」
「誰かが漏らしたのでしょう。皇后もそのことを知り、素月殿の後宮入りを後押ししているそうです」
皇太后は、あの日の園遊会で徐慧が着ていた吉服を気に入ったらしい。腕の良い繍女は何人いても困らない。
ならば、と花仙楼の繍女を引き抜こうと思い立ち、調べるように命じた。
その結果、あの吉服を仕立てたのが一人の繍女であることを知り、さらに興味を持ってしまったようだ。
皇太后は純粋に、仕立てた腕の良い繍女を尚服局で働かせたいだけ。
問題は皇后だ。
「思惑が透けて見えるな」
「そうですね。十中八九、皇太子殿下のためでしょう」
皇后は自分の息子を監視しているも同然。
どうせ徐徹が宮中を抜け出した際の動向も、把握しているはずだ。
──皇太子の性格ならば、彼女をぞんざいに扱うことはないだろうが……皇后はどうだ?
徐徹が実際、素月に対してどういった感情を抱いているのか、徐慧は明確には知らない。知る必要などないと思ったからだ。他人の色恋になど、興味がない。
とはいえ、もしも徐徹が本当に素月に対し恋愛感情を抱いているのであれば、皇后は余計なことをするはずだ。
「しかし、素月殿は今、殿下の衣服の仕立てを一手に任されている立場です。皇后が後押しするとは、意外ですね」
「皇太后が動いたからだろう。皇后自身が動けば勘繰られるだろうが、言い出したのは皇太后だ。皇后にとっては好都合だろうな」
徐慧はこめかみに手をやり、目を閉じる。
これは自分が関わるべきなのだろうか。
「──放っておけ」
しばし考え、下した結論は実に簡潔だった。
「どうした?」
江紹を見れば、驚いた顔でこちらを見ている。
「……何もされないのですか?」
「何も、とは?」
「素月殿が後宮へ行ってしまっても、殿下は構わない……?」
「それは──」
江紹の問いに、徐慧は即答できなかった。
皇太后が望んでいる以上、本人の意思などあってないようなものだ。
この世はままならぬことが多い。素月は後宮へ行くしかないだろう。
徐慧はもう一度、目を閉じて考え込む。
素月は後宮でもやっていける。
あの立ち振る舞いを見るに、礼儀作法はなんら問題がない。
何かを隠しているようだが、大理寺に足を踏み入れても堂々としていた様子を見るに、後ろめたい隠し事ではないのだろう、と勝手に推測している。
初対面の際は、その隙のなさとただの繍女にしては完璧とも言える立ち振る舞いなどが不審感を抱かせたが、幾度か顔を合わせ、言葉を交わした結果、今ではそういった感情は薄れている。
素月は悪い人間ではない。
──だからこそ、後宮は息苦しいだろうな
あそこがどんな場所か、徐慧は知っている。知っているからこそ、従弟を不憫に思うし、皇后のことも警戒するのだ。
素月は後宮でやっていける。敵を作らず、うまく立ち回れるだろう。
だが思い浮かべる素月は、笑っていない。一人で耐え忍ぶのだろう。長い付き合いではないが、そう思える。
「殿下は素月殿を気に入っていると思っていました」
「……そう見えたのか?」
「書斎へ女性を入れたのは初めてですよ」
「母上が」
「奥様と素月殿は違いますよ」
母上がいるだろう、そう言おうとしたが、江紹はまるでわかっていたかのように言葉を被せてきた。
「必要だったから入れただけだ」
「わざわざお茶を全部飲ませる必要はあったのですか?」
「あの手の茶は好みじゃない」
「素月殿に無理やり飲ませず、使用人に下げ渡せば済む話では?」
「それは──」
否定の言葉を言うつもりだった。
だが気づく。否定すればするほどに、言い訳しているようだ、と。
「良い傾向ですよ。素月殿は分別のある方ですし、親交を深めるには最適だと思いませんか?」
「ただの繍女だ」
「そのただの繍女に、殿下は気を許しはじめているんですよ。素月殿はもう、殿下の中でただの繍女ではないのでは?」
江紹は実に真剣だった。茶化すような雰囲気は一切ない。
だからこそ、徐慧は何も言えないのだ。揶揄うような素振りが少しでもあれば、さっさと部屋から追い出してやるのに。
「素月殿が後宮へ行ったら、殿下は彼女を気にかけますよ。そして後悔するはずです。行かせるべきではなかったと」
未来でも見えているのか。
江紹ははっきりと断言した。
そしてそれを否定できない自分は、やはり江紹の言う通り、素月はただの繍女ではなくなってしまったのかもしれない。
◇◆◇◆◇
いくら箝口令を敷こうとも、口を開く者はどの界隈にも一人や二人、必ずいるものだ。
花仙楼の誰かが、斉王の吉服を素月が一人で仕立てたことを漏らしたのだろう。
それが結果として、素月を後宮にある尚服局へと導くことになってしまった。情報を漏らした犯人を探すべきだと錦児は考えているようだが、素月には無意味に思える。
たとえ犯人を見つけたと、今のこの状況を変えることはできないのだ。
林司衣は準備を整えた上で、正式に素月を迎えに来ると言って店を去って行った。
それが数日前のこと。
素月はあれ以来、刺繍に集中できない。何をしても、何を見ても、気分が沈んだまま。
兄にも話せずにいることが、余計に心苦しい。
どうやって切り出せば良いのか、そしてなんと説明すれば良いのか。
けれど話さずとも、兄の反応は容易に想像できる。驚いて、慌てて、顔を青くして、そして都を離れようと言うだろう。
実のところ、自分も考えた。兄と胡蝶──いや淳雪とともに逃げてしまえば良い。
また別の土地で、三人で協力しながら暮らしていけば良いのだ。
そう思ったが、できるはずがない。都に来たばかりなら、すぐにでも逃げ出しただろう。
だが今は、それができない。
花仙楼に娟如、錦児──今の素月には、ここに留まりたい理由ができてしまった。
花仙楼と娟如には、多大なる恩がある。
錦児だって、過去を詮索するようなことはせず、いつも優しく、時には厳しく寄り添ってくれる良き友だ。
もしも自分が逃げ出せば、責を負うのは花仙楼なのだ。娟如はもちろん、錦児や他の繍女にも迷惑をかけてしまう。
──私はやはり、後宮に行くしかないの……?
ここは皓国ではないし、今の自分は公主ではなくただの繍女。
後宮に入れば、他の宮女と同じ立場だ。
そして二度と、自分の意思で出ることは叶わないかもしれない。
後宮とは、そういう場所だ。
──いやよ、行きたいはずがない……!
皓国は万華国とも交流があった。
後宮に、もしも過去の自分を知る者がいたら?
その者が暴露したら?
もう「素月」ではいられない。
亡国の公主など、誰も興味を持たないと信じたいところだけれど、現実は違う。
この身に流れる皇族の血には、まだ価値があるのだ。価値があると知っているからこそ、名を変え、誰にも知られぬよう生きてきた。
その努力が、たった一枚の吉服を仕立てたことで水泡に帰す。
素月は自分で自分を抱きしめる。
幾度となく、自分の生まれを呪った。国が滅ぼされなければ、せめて公主でなければ、もっと穏やかな人生を送れたはず。
なのに現実はどこまでも残酷だ。過去はいつまでもついて回って、離れない。
きっと死ぬまで、過去の自分に怯えて生きていくのだろう。
素月の視界が、涙でぼやける。泣くのは嫌い。
なのに今は、泣く意外に何もできそうになかった。




