33 尚服局の女官
冬が確実に近づいてきている。
娟如が肌寒さを感じ視線を窓際へと向ければ、窓が開いていた。
そうか、先ほど空気を入れ替えるために開けておいたのだ。閉め忘れていたことを、今になって思い出す。
娟如は窓を閉めるため、立ち上がる。
──今日は怖いくらいに静かね
ここしばらく花仙楼には皇后主催の園遊会の影響を受けて、立て続けに大量の注文が舞い込んでいたのだが、それがようやく落ち着いてきた。
丁重に注文を断り続けてきたおかげだろう。
それでも以前に比べれば、確実に客層に変化が見られつつある。
少し前ならば、花仙楼の注文客の大半が女性だったのだが、ここ最近は男性の注文が多い。
それ自体は良い傾向だ。
いずれは引き受けても良いとは思うのだが、今の時点では控えるべきだろう。
「今」の花仙楼に求められているのは、斉王の吉服に並ぶもの。
それを仕立てられる者は、この花仙楼でも限られる──ほとんどいないと言っても良いだろう。
──天賦の才、なのでしょうね
そう遠くない未来、一番弟子は師匠を超える。
その日が来るのが楽しみであるのと同時に、少しばかりの悔しさも感じてしまう。
「楼主!!」
静かな室内に飛び込んできたのは、錦児の慌てる声。
娟如は苦笑を浮かべながら、椅子から立ち上がる。
静かなのは一瞬。
でも賑やかなのは良いことだ。
なんて呑気なことを思っていたのだが、錦児の次の一言で状況は一変する。
「尚服局の林司衣がいらっしゃいました……!」
「尚服局……?」
あまりにも突然で、予想もしていなかった来訪者。
だが不思議と、驚きはない。
いつかは来るような、そんな気がしていたのだ。
娟如は錦児と共に、店の方へと移動する。
「お待たせして申し訳ございません。楼主の董娟如でございます、林司衣にご挨拶を」
「礼は不要です。董楼主、落ち着いて話せる場所に通してもらっても?」
「こちらへどうぞ」
娟如が名乗った相手は、娟如とさして歳は変わらないように思えた。
だが身なりは女官そのもの。
この女性が、尚服局の林司衣──宮女ではない。正六品の女官だ。
娟如は落ち着いた足取りで、林司衣を自分の部屋へと通す。来客用の部屋へ通すことも考えたが、ここは自分の部屋が妥当だろう。
「お茶を用意させますので、かけてお待ちください」
「気遣いは不要です。私が今日ここへ来た理由がわかりますか?」
娟如が案内した椅子に、林司衣は背筋を伸ばして腰掛ける。
本来、女官であれ宮女であれ、後宮を離れることはできない。
その一生を、後宮で終える者が大半だ。
だというのに、林司衣は堂々と城下にいる。
女官の外出を許可できる人間が、この国に何人いるだろうか?
「恐れながら、憶測で語るのは失礼かと存じます」
「──私も回りくどいのは好まないので、はっきり言いましょう。皇太后様が、素月という名の繍女を尚服局に招き入れたいと仰せです」
「そんな!」
大声を上げたのは、両手に持った盆を今にも落としてしまいそうなほど驚いた顔をしている錦児だった。
「錦児、下がりなさい」
娟如は立ち上がり、動けずにいる錦児から盆を受け取る。落とさなかったことが、唯一の救いだ。
「ですが……!」
「良いから下がりなさい。林司衣の前です」
相手は正六品の女官。失礼があれば、罰せられてしまう。
「……わかりました」
納得した様子ではなかったが、錦児は分別のある子だ。盆を娟如に渡し、一礼してから部屋を出て行った。
錦児の驚きようは、正直なところ責めようがない。誰だって驚くだろう。
いきなり後宮の女官が現れたかと思えば、繍女を尚服局に入れたいと言うのだ。驚くな、というほうが無理というもの。
「本日、素月殿は?」
「生憎、外に出ております」
「そうですか。──皇太后様の推挙です。心配することは何もありませんよ」
林司衣の口ぶりから察するに、拒否権はないのだ。
これは決定事項。
素月は冬が来る前に、後宮へ行ってしまう。
娟如は何も言えず、ただ黙っていることしかできなかった。わかることはひとつだけ。
素月はこのことを喜ばないだろう。
◇◆◇◆◇
空が徐々に茜色に染まる頃。
素月は花仙楼へと帰ってきた。
斉王府に届け物をして、そのあと丹花楼の胡蝶に会ってきたのだ。娟如には許可をもらっていたので、遅くなっても問題ない。
ただ時間的に見て、花仙楼へ戻って娟如への報告を済ませたら、今日の仕事は終わりと見て良いだろう。
たまには早く帰って、兄とゆっくり夕餉を食べるも良い。
そんなことを考えながら、素月が裏口から花仙楼へと戻ると、錦児が青い顔で駆け寄って来た。
「どうしたの?」
素月が声をかければ、錦児は瞳を潤ませる。
「錦児?」
「尚服局の林司衣がいらしてる」
「尚服局?」
それは後宮にある六局のうちのひとつだ。皇帝や后妃の衣服や装飾品、宝物の管理をしている。
皓国にもあったのだ。知らないわけがない。
「あんたを尚服局に連れて行くって」
「私を? なぜ?」
状況がちっともわからない。
どうしていきなり、尚服局が出てくるのだろう。
錦児はまるでそれが決定事項のように言っている。
「大出世よね。斉王の次は、尚服局──あーあ、嫌になっちゃう」
そう言ったのは、不機嫌を隠そうともしない阿葉だった。腕組みをして、こちらを見ている。
「楼主から言われてるでしょ。素月が帰ってきたら連れてくるように、って」
「……わかってるわよ!」
溢れそうになる涙を必死に引っ込めて、錦児は強い口調で言い返す。
「楼主の部屋に行って。そこに林司衣もいらっしゃるから」
やはり状況がわからない。
けれど行くしかないようだ。
素月は安心させるように錦児の肩を撫でてから、娟如の部屋へと向かう。
「楼主、素月が戻りました」
「入りなさい」
扉越し、娟如の声を落ち着いている。
先ほどの錦児の様子とは真逆だ。
一体、何が錦児をあそこまで動揺させたのだろう。
──私を尚服局に連れて行くって……
何度考えてみてもわからないまま、素月は扉を開ける。
「素月、こちらは尚服局の林司衣です。ご挨拶を」
部屋に入れば、そこは張り詰めたような空気で満たされていた。
娟如の声は落ち着いてはいるものの、こちらを見る目は不安に揺らめいている。
そんな娟如の隣にいるのが、林司衣。尚服局の女官だ。
「素月がご挨拶いたします」
「立ちなさい」
「感謝いたします」
「──繍女にしておくにはもったいない美人だこと」
林司衣の視線は、素月を品定めするかのようだ。
実際、そうなのだろう。
「あなたが斉王殿下の吉服を仕立てたのでしょう?」
「──はい」
なんと返すべきか、一瞬迷った。
秋の園遊会で斉王が着ていた吉服を仕立てたのが花仙楼であることは、知られている。
ただそれを仕立てたのがひとりの繍女──素月であることは伏せられているのだ。
娟如がそうすることに決め、繍女たちもそれに従った。
だが林司衣が知っているということは、どこかからこの話が漏れたということだ。
それは一体、どこだろうか。
「あの吉服を、皇太后様は大層お気に召したのです。あなたを尚服局に招き入れたいほどに」
「…………」
錦児が言っていた言葉の意味を、素月はようやく理解することができた。
なるほど、連れて行く、というのは文字通りの意味なのか。
素月は無言のまま、娟如を見る。
娟如は悲しい表情を浮かべて、素月を見つめ返す。
それでもう、答えはわかってしまった。
娟如にも、他の誰にもどうすることはできない。
──私が後宮に……
当然の如く、喜びはない。驚きも、怒りも、悲しみもなく、湧き上がるのは虚しさ。
兄と一緒に、ひっそりと慎ましく生きていこうとしてきたのに、結局、自分は逃れられないのか。
素月は目を伏せ、林司衣の言葉を静かに聞いていた。
何も考えたくない。
今はただ、誰もいない場所にひとり、逃げ込みたい気持ちでいっぱいだった。




