32 巡る思惑
芝蘭宮は人払いをしているため、とても静かだった。
宮殿にいるのは三人だけ。
宮殿の主である皇后・秦青薔と皇后付き侍女の桐児。
そして皇后付きの侍従・王彧。
「ひとりの繍女が仕立てたと? あれを? ……まことなのか?」
「まずもって間違いないかと」
王彧の報告を聞いた青薔は、信じられないといった様子で眉間に深い皺を刻む。
数日前の園遊会は何事もなく無事に終わった。皇太后も満足していたようだ。
本来の目的である未来の皇太子妃を見つけることはできなかったが、皇帝からの労いの言葉はもらえた。
だがしかし、青薔は気にかかることがあり王彧にあることを調べるよう頼んでいたのだ。
あの日、園遊会には珍しく斉王が出席した。
それだけならまだ良い。問題は、斉王が身に纏っていた吉服と、それを仕立てた繍女だ。
あの吉服を、皇太后は大層お気に召したらしい。
青薔も、あれは見事な吉服だと素直に認めたほどだ。
その吉服を仕立てた繍坊の名は、花仙楼。
なんという偶然なのか。
皇太子である徐徹の関心をひいた繍女が働く繍坊が、まさにこの花仙楼。
そして斉王の吉服を仕立てたのは、もはや偶然と呼ぶには出来過ぎている気もするが、これまた皇太子の関心をひいた繍女・素月なのだ。
以前、皇太子という立場にありながら徐徹は宮殿を抜け出した。向かった先は花仙楼。
配下の者に調査を命じたところ、徐徹が関心を持った娘は花仙楼で働く繍女だということがすぐにわかった。名は素月。生まれは辺境の名もない村。兄とふたり、慎ましく暮らしているようだ。
皇太子妃に相応しい生まれではない。
とはいえ徐徹の関心をひいたのは間違いないのだから、徐徹の気が変わらぬうちに、後宮へ入れても良いのかもしれない──そう最初の頃は思っていたが、斉王の吉服を見た瞬間、その考えに迷いが生じた。
──あの吉服に用いられた図案は、意図したものだったのか……
思い出すのは、見事な銀糸の麒麟。流れる水紋に、耐え忍ぶ松。
ただの図案と言われればそれまでだが、深読みしてしまう自分がいるのだ。
だがあれらを繋ぎ合わせた先にある答えを、今の青薔に知る術はない。
──素月という名の繍女は、まことにただの繍女なのか?
もしも斉王側の人間であるなれば、後宮へ入れるのは危険を伴う。
その考えを裏付けるかのように、あの繍女は斉王の衣を仕立てる役目を任されたというではないか。
ここで自分が動けば、斉王との間に何かあるのでは、と勘ぐる輩が出てくるかもしれない。
ようやく徐徹が異性に対して興味を示したというのに──歯痒いことこの上ない。
「恐れながら、皇太后様も花仙楼の繍女について調査を命じたようです」
「何故だ?」
「あの吉服を大層お気に召したようで、仕立てた者を尚服局に迎えたいようです。まだ皇太后様の耳に繍女の名は届いていないようですが、時間の問題かと」
「ふむ……皇太后が迎えたい、か」
青薔の口元に笑みが浮かぶ。
皇后である自分が動けば余計な噂がたつやもしれぬが、相手が皇太后となれば話は変わってくる。
斉王側の人間かどうかは、いずれわかること。
もしそうだったとしても、後宮は男子禁制の上、一度入ればそう簡単に出ることは叶わない。
こちらの手の中だ。
「皇太后様は今どちらに?」
「五福宮におられるようです」
「ちょうど良い茶葉が手に入った。お持ちせねば──桐児」
無言のまま控えていた侍女は、すぐに主人の意図を理解した。
しかしなんという縁だろうか。
ただの繍女が、あろうことか皇族の関心を次々と集めている。
ここまでくると、青薔自身もその繍女に会ってみたいものだ。
一体、どんな娘なのだろうか。
◇◆◇◆◇
「──相応しいと思った? 理由はそれだけか?」
徐慧はまじまじと自分を見つめる繍女を見つめ返す。
その瞳はどこまでも真っ直ぐだ。嘘はない。
職務上、様々な人間を見てきた。嘘が上手い者、下手な者、誤魔化す者、無知な者──そして正直な者。
今の素月は、正直そのもの。発言に、嘘偽りの影すらない。
だからなのか。
徐慧は肩透かしを食らった気分だ。
「もしや何か問題がございましたでしょうか?」
問題──はない。ないのが問題だ。
「話に聞くところによると、あの布は貴重で高価なだけでなく、非常に扱いにくいらしい。随分と思い切った決断をしたものだ」
たかが布一枚に、かなりの銀子を支払った。
だがこちらは当然の対価を支払っただけ。
もしも素月が失敗すれば、どうなっていたことか。
「あ──」
徐慧の指摘に、なぜか素月が驚いた顔をする。
あまり感情が表に出ない彼女にしては珍しい。
「どうかしたのか?」
興味本位。聞いてみたくなった。
「いえ、その……失敗した場合のことを考えていなかったことに、今気づきました」
「…………考えていなかった?」
途端、素月の視線が泳ぎ始める。
これは本当に先のことを想定していなかったらしい。隙のない娘だと思っていたが、これは予想外だ。
「決して己の腕を過信していたわけではなく、その、無我夢中だったと言いますか……」
弱々しく言い訳を並べる素月は、今まで見た中で一番、感情が漏れ出ている。
それがなんだかおかしく思えて、徐慧は笑ってしまった。
「ふっ、そうか……そうだな」
徐慧が笑うと、素月は不安そうにこちらを見た。
「すまない、あまりにも意外だったもので、ついな」
笑いを誤魔化そうとすればするほど、笑えてしまうのはなぜなのか。
徐慧は口元を抑え、視界から素月を追い出す。見ているとまた笑ってしまいそうだから。
「……殿下、お茶をお持ちしました」
室内の空気を入れ替えるように現れたのは、付人の北斗だった。両手で盆を持ち、書斎の入り口に立っている。困惑の表情を浮かべて。
「──入れ」
咳払いをし、徐慧はようやくいつもの厳しい顔つきに戻る。
「座ったらどうだ?」
「私はただの繍女ですので」
「茶が冷めるし、私は何杯も飲まない」
徐慧が目で座るよう促せば、素月は迷った末、座ることに決めたらしい。
普段、徐慧が寝起きしている牀榻がちょうど真正面に見える位置だ。
素月が座ったのを確認してから、徐慧も座る。定位置──ではないと思うが、江紹たちはそう思っているらしい──である執務机の椅子ではなく、素月の隣に腰を下ろす。
ふたつの椅子の間にはきちんと机が用意されている。
その机に、北斗が盆を置く。
「茉莉花茶?」
北斗が慣れた手つきでお茶を淹れる。湯気とともに広がるのは、華やかな甘い香り。
日頃、徐慧が飲んでいるものとは明らかに違う。
こういった類の茶は、女子が好むものだ。
「殿下の好みでないのはわかっていますが、飲んでいただかないと減らないんですよ。下賜品ですので、僕らがいただくわけにはいかないですし」
下賜品、という言葉を聞いた瞬間、茶杯に伸ばされた素月の手が止まる。
「気にする必要はない、ただの茶だ。──少なくとも、ここではな」
ここは大理寺でもなければ、宮廷でもない。
斉王府の中にある、自分の書斎。実の母でさえ、入る際は許可を求める場所だ。
「恐れ入ります」
素月は躊躇いがちに茶杯を持ち上げ、そのまま慣れた様子で茶を味わう。
──慣れている……
所作は文句なし。
むしろ文句のつけようがない。お手本のようだ。
やはりただの繍女ではないような気がする。
「殿下も飲んでください」
「わかったから急かすな」
一向に飲もうとしない徐慧に、北斗が不満そうな顔をする。
徐慧はそっと口をつけ、甘い香りの茉莉花茶を味わう。熱い茶が喉を通り過ぎ、胃の中をじんわりと温めていくこの感覚は、嫌いじゃないが、やはりこの手の茶は好みじゃない。
腹に入ればどれも同じ、と思ってはいても、好き嫌いはあるものだ。
「私はそろそろ」
「飲めるのなら飲んでいってくれ。私はこれで十分だ」
「……承知しました」
早く帰りたい素月の気持ちが透けて見える。
それを知りつつ引き止める自分は意地悪だな。
徐慧は穏やかな笑みを浮かべ、ゆっくりと茶を飲み干す。茶杯が空になると、北斗が茶壷に手を伸ばすが、徐慧はそれを手で制する。
茶は好きだが、この甘い香りは一杯で十分だ。
それに自分が飲んでしまったら、素月の飲む量が減ってしまう。
「どうかしたか?」
「……いえ、別に」
こちらを凝視する北斗を睨むように見れば、北斗は澄まし顔で視線を逸らす。
そしてそのまま何も言わず、書斎を出ていった。
「本当に飲まれないのですか?」
「ああ、これで十分だ」
「そうですか……」
素月にとっては居心地が良いとはとても言えないだろうが、必死に茶を飲み干そうとする姿は素直に微笑ましいと思う。
「ゆっくりでいい」
焦る必要はどこにもない。
こんなにも穏やかな日は、随分と久しぶりだ。




