31 重なる不安
お盆を両手にしっかり持った北斗は、明日は大雪か、もしくは槍でも降るんじゃないだろうかと思いながら、主人である徐慧の書斎へと向かっていた。
北斗が持つお盆には、茶壺と茶杯が二つ乗っている。
元々は花仙楼の繍女である素月に出すため、北斗は厨房で水をもらってきた。
だが徐慧の登場により、北斗はもう一度、厨房へと引き返す羽目になってしまった。
主人の徐慧に水だけを出すのはよろしくない。
「北斗? どうしたの、悩み事?」
「あ、玉秀さん」
廊下を歩く北斗を呼び止めたのは、侍女の玉秀。
北斗の顔色が冴えないことに気づき、声をかけてくれたらしい。
「悩みというか……殿下が戻られたのですが、その」
「お怪我でもされたの?」
「いえ! いつも通りのご様子です。ただ、書斎に女性を通されるのを初めて見たので、ちょっと驚いたというか……」
「殿下が書斎に、女性を──?」
「玉秀さんも驚きますよね。お母上の郡主様でさえ、通されることを嫌がるのに」
徐慧はきちんとした自室があるにも関わらず、いつも書斎にばかりこもっている。仕事があろうとなかろうと関係なく、いつだって書斎だ。
徐慧が明確に宣言しているわけではないが、徐慧の許可がない者は勝手に出入りをしないことが斉王府では暗黙の了解となっている。
それは実の母である白蓮も同じ。
北斗は付き人であるため、徐慧がいなくても書斎の出入りは許されている。掃除だとかのためだ。
護衛の江紹も許可されている。
そんな中、徐慧が自ら女性を書斎へと案内したのだ。
これは天変地異の前触れなのか?
「明日は雪──いや、槍が降るかも──玉秀さん? どうしたんですか?」
「え? あ、私も驚いたの。殿下が女性を書斎へ通されるなんて、本当に初めてだから……。どこのご令嬢なのかしら?」
「花仙楼の繍女ですよ」
「繍女?」
「とても綺麗な方でしたよ! お茶を持って行くので、ここで失礼しますね」
早くしないと、お茶が冷めてしまう。茶がぬるい! と徐慧に叱られたことはないが、やはり一番美味しい状態のものを飲んでほしい。
北斗は屈託のない笑顔を浮かべて、書斎に向かって歩き出した。
◇◆◇◆◇
素月が通されたのは、母屋から離れた場所にある書斎だった。
最初に案内された徐慧の自室と違い、こちらは松香の匂いがきちんとする。
「この中に、普段使っているものをしまっている」
徐慧の視線の先を追えば、確かに箪笥がある。
だがそれは、あまりにも簡素な箪笥だ。自室にあった螺鈿細工が施された箪笥よりも地味だし、小さい。使われている木材は上等の物で、飾り彫りもある。
それでもやはり簡素な箪笥なのだが、こちらの箪笥の方が徐慧らしいと思えるから不思議だ。
「私からすればまだまだ使えるものだが、専門家の意見はどうだ?」
「失礼いたします」
徐慧に礼をし、素月は箪笥を開く。中はきちんと整理されている。乱雑にしまわれているものはひとつもない。
──手入れはされているけれど……
いくつかの衣が気になる。破れてもいないし、汚れているわけではないが、やはり同じものを着続ければ劣化していくもの。袖が擦り切れているものがある。
この程度ならば、たいした手間ではない。
すぐに終わるだろう。
「こちらの三着のみ、持ち帰らせていただいても構いませんか?」
「わかった」
徐慧の許可を得てから、素月は三着の衣を取り出し、箪笥をゆっくりと閉める。
「他にご用命がありましたら、承ります」
「──ひとつ、聞きたいことがある」
気のせいだろうか。
徐慧の声が低くなったような気がする。
「わたくしめがお答えできることでしたら」
平静を装いつつも、内心は緊張している。
素月は未だ、徐慧への警戒心をゆるめてはいないのだ。
油断すればすべてを見透かされてしまいそう。
そんな恐怖が、徐慧を前にするとじわじわと湧き上がってくる。
「あの吉服は実に見事だった。素人目に見ても、類を見ない出来栄えだ」
「恐れ入ります」
自画自賛なんて滅多にしないけれど、素月自身、あの吉服は満足のいく仕上がりだった。頭の中に描いていたものを、そのまま完成させることができた喜びと達成感は、そう簡単に得られるものではない。
もう一度同じものを作れと言われても、きっと無理だろう。
「聞きたいのは布地についてだ。あれでなくてはならない理由があったのか?」
「……それは、どういう意味でしょうか?」
質問に質問で返すのは良くないとわかってはいても、聞き返すことしかできなかった。
徐慧の質問の意図がわからない。自分は何かを間違えたのだろうか?
「言葉通りだ。あの布でなくてはならなかった理由、それを知りたい」
「理由──相応しいと思ったからです」
「相応しい?」
「はい。あの布が、一番相応しいと思ったから選んだのです」
思い描く理想の形。
それを現実にするために、何よりも必要だったもの──それが天狼銀絹布だった。
ただそれだけの理由。
他には何もない。
素月がはっきりと迷いなく答えれば、徐慧はなんとも言えない目でこちらを見つめ返してきた。
やはり自分は、何かを間違えてしまったのだろうか?
◇◆◇◆◇
次々と運ばれていく褒美の入った箱を横目で見つつ、娟如の意識は常に白蓮へと向いている。
素月が退室してから少しばかり。
白蓮は何も言わず、優雅にお茶を飲んでいる。
頃合いを見てお暇すべきなのだが、どうにもそんな雰囲気ではない。
娟如はただ、白蓮が動くのを待つしかなかった。
「──あの吉服は、唯一無二ね。親の贔屓目なしに見ても、慧児以外には着こなせないでしょう」
ようやっと、白蓮が動いた。
そのことに娟如は内心、安堵する。
「恐れ入ります」
「なれど気にかかる点もあるわ」
「と申されますと?」
「あの繍女は何か思惑があったのかしら。あの刺繍に用いられた図案──あれには何か、深い意味が?」
白蓮は笑っている。穏やかで美しい、完璧な微笑。
怒りは感じない。説明を求められているだけ。
娟如は脳裏に思い浮かべる。
素月が天狼銀絹布を用いて仕立てた、斉王の吉服を。
たしかにあの吉服は見事だった。
あの日、園遊会に出席した招待客たちは当然ながら徐慧の吉服を見たのだろう。
園遊会の翌日から、花仙楼には注文が大量に舞い込んできたが、娟如はそれらすべてを丁重に断った。
誰もが皆、あの吉服のような衣──いや、それ以上のものを求めていることがわかるから、断ったのだ。
あれを仕立てられる者はひとりだけ、そして超えられる者もひとりだけ。
「素月は殿下に相応しいと思うものを仕立てたと言っておりましたので、それ以上の意味はないかと思われます」
「相応しい、か」
意味ありげに白蓮がつぶやく。
白蓮が何を言いたいのか、娟如にはわかる。娟如も繍女なのだ。図案の意味くらい、把握している。
──あの子が用いた図案を深読みすれば、郡主様の反応は当然なのだわ
あの日、完成したばかりの吉服を見た娟如でさえも、素月の意図を深読みしようとした。
優れた君主、あるいは聖人が誕生する際に現れるとされる瑞獣・麒麟を引き立てるのは、水紋と松。
濁らず常に清らかに絶えず流れて尽きることのない永遠の象徴と、厳しい冬を耐え忍ぶ松──これらが組み合わさると、人は何を思うのだろうか。
「あれは唯一無二──まさしく斉王・徐慧のための吉服。褒美を得るに相応しい出来ではあるけれど、同時に危うさもある。意味はわかるわね?」
「……はい」
誰も口にはしない。してはならない。
もし口にしてしまえば、素月が賜るのは褒美ではなく罰なのだ。
「あの繍女はしたたかなのか、それとも純朴なだけなのか。今のわたくしには判断できないけれど、気をつけることね。皇后に目をつけられたら最後なのだから」
「郡主様のご忠言、胸に刻みます」
娟如は立ち上がり、礼を返す。
「──手遅れにならなければ良いけれど」
白蓮の囁きは、静かに溶けるように消えていく。
娟如はそれからすぐ、有り余るほどの褒美と消えぬ不安を伴い、花仙楼へとひとり戻った。




