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29 青い麒麟と赤い牡丹

 池のほとりに立ち、徐慧は水面に映る自分の姿を見下ろす。


 普段ならば園遊会になど参加せず仕事に没頭しているのだが、皇帝からたまには宮中に顔を出せと言われてしまった以上、逆らえるはずもない。


 その結果、新しい吉服を仕立てることになってしまったのだが、待っていたのはあまりにも予想外の展開。


 花仙楼が優れた繍坊なのは母からの話で把握していたが、まさかこんなにも軽々と予想を飛び越えてくるとは思いもしなかった。


 特別な布地──天狼銀絹布で仕立てられた吉服を見たのは、今日が初めて。

 斉王府に届いたのは数日前なのだが、浮かれた小娘じゃないのだ。急いで確認する必要もないだろう。

 何より母が大層満足した様子だったため、徐慧は当日までなんの不安も抱いていなかった。


 だが確認すべきだったのかもしれない。


 水面に映る自分の姿を、徐慧は複雑な気持ちで見つめていた。


 この吉服は、まるで自分のためだけに用意されたもののようだ。

 実際、徐慧のために仕立てられたのだから、その感覚は間違っていない。

 だが徐慧が言いたいのは、そういうことではないのだ。


 ──あまりにも体に馴染みすぎている……


 寸分違わぬとはこのことを言うのだろう。袖も裾も襟元も、ちっとも窮屈ではない。

 かといってゆったりとしているわけでもない。


 今朝、この吉服に袖を通し、帯を締めた瞬間、言いようのない心地良さを感じた。


 ──きちんと仕立てますわ。殿下のために──殿下のためだけの吉服を、仕立てます


 あの言葉は大袈裟に思えたが、そうではなかったのかもしれない。

 自分で言うのもおこがましいが、この吉服は他の誰でもない、自分のためのものだ。他の者が袖を通しても、きっと似合いはしないだろう。


「兄上」


 静寂を破ったのは、控えめな青年の声だった。

 徐慧は振り返り、背後に立つ従弟を見据える。


 琥珀色の吉服には見事な牡丹が刺繍され、皇太子に相応しい。


「やはりこういった場に出席するのは、不本意だったのでは?」


 この池は園遊会の会場である百花園の中心地からは離れている。

 とはいえ、園遊会の賑やかさから隔離されているわけではない。


「それはお互い様だ。だが本当に不本意なのはお前の方だろう」


「…………」


 徐慧の言葉に、徐徹は何も返さない。

 徐徹自身もわかっているのだ。今日の園遊会の真の目的を。


 皇太子に冊立されて三年が経った。妻を娶っていてもおかしくはない。皇太子妃の席が空いたままだと、大臣だけでなく民も不安を感じるものだ。


 何より皇后が早くその空席を埋めたいと考えているだろう。


 ──皇后にとって、俺の存在は邪魔でしかないからな


 秦青薔の考えくらい、簡単に見透かせる。


 徐慧は皇帝の地位になど興味も関心もないが、本人の意思など無視して周りが勝手に騒ぎ始めることがある。反乱だとか皇位簒奪だとか、そんな物騒な歴史はどの国にも存在しているものだ。


 だからこそ、徐慧は皇后の不安と焦り、そして自分を警戒すべき対象として見る気持ちがわかる。


「私はまだまだ未熟者です。学ぶべきことも、積まねばならない経験も山のようにあります。なのに妻だなんて……」


 うつむく徐徹は、幼く見える。

 昔から、徐徹は自己肯定感が低い。謙虚と言えば聞こえはいいが、将来の君主がこれでは、臣下に示しがつかない。


「兄上の方が先だと思うのです。年齢的に見ても」


 まさかここで自分に矛先が向くとは思っていなかったので、徐慧は反応が一瞬、遅れてしまった。


「良いと思う方はいないのですか? その……兄上は人気がある、と侍女たちが言っていましたよ」


「くだらない話を真に受けるな」


 徐慧がひと睨みすれば、徐徹は慌てて口を閉じた。


 二十八──男ならばまあ急ぐ年齢ではない。仕事に打ち込み、三十を超えてからでも問題ないはずだ。


 だが実の母親からも近頃はその手の話をほのめかされる。夫と息子を立て続けに亡くした経験からなのか、それとも純粋な気持ちからなのか、孫の顔を見たいのだろう。


 ──孫……自分の、皇族の血を継ぐ子……


 果たしてそれは、純粋に祝福される命だろうか。

 皇后の警戒をより強めることになるのでは?


 徐慧は先の先まで読み、慎重に行動してきた。

 それは自分を守るため、母を守るため、斉王府を守るため。


 母にこの話をして、理解してもらえるか正直なところわからない。困らせたくはないのだ。

 母には健やかに、なんの悩みもなく過ごしてもらいたい。

 もう十分、あの人は苦労したのだから。


「……仕立てたのは彼女(・・)ですか?」


 躊躇いがちに徐徹が再び口を開く。

 何を聞きたいのかはすぐにわかった。


「──そうだ」


「そうですか……。見事な腕前ですね。刺繍に詳しくなくとも、わかります」


「……──そうだな」


 麒麟の刺繍に添えられているのは松と水紋。

 徐慧も刺繍について詳しくはないが、素人目に見てもこれがそこらの繍女が容易に真似できる技法ではないことぐらいわかる。


 ただ今日の園遊会では目立って仕方がない。招待客のほとんどは娘だが、中には青年もいる。青年たちは落ち着いた色合いの衣をまとっているが、その中にいてもなお、徐慧の吉服は目を引いてしまう。


「花仙楼の良い宣伝にはなるだろうな」


 皇太后に花仙楼の話をした際、素月の名を出さずに済んだことには安堵している。


 もしもこの吉服を一人の繍女が仕立てたと知れば、きっと面倒なことになった。


「彼女は元気でしたか?」


 徐徹の方から女性の話をされると、どうにも違和感が先に来る。

 お互い、会えば近況を話す程度。

 従兄弟ではあるが遠慮がちだ。


 それは自分たちが皇族に生まれたことが関係しているのだが、徐慧が自ら先に距離を取ることも原因のひとつだろう。

 無用な争い事を避けるための最善策なのだ。


「ほとんど顔を合わせてはいないが、期日までに納品したのだから、不調ではないのではないか?」


「そうですか……」


 あからさまに残念そうな徐徹の横顔を見て、徐慧はやはり先ほど素月の名を口にしなかったのは正しかったのだと確信する。


「皇太子殿下、皇后様がお呼びです。──席へ戻るように、と」


「……わかった。兄上はどうぞゆっくりお過ごしください」


 護衛の桓遠が申し訳なさそうに耳打ちをする。

 その内容は徐慧にも聞こえた。


「あまり気負うな」


「ありがとうございます」


 桓遠と共に、徐徹は園遊会の中心へと向かって歩き出す。

 心なしか、その足取りが重そうに見える。


「…………はぁ」


 誰もいなくなったことを確認してから、徐慧は深い吐息を漏らした。


 昔はこういった場にも顔を出していた。好きではなかったが、両親と兄と一緒ならば、我慢できた。子どもだったから、ある程度の我儘ならば両親もやれやれといった様子で許してくれたのだ。

 だが父が亡くなり、兄も亡くなり、背負うものが増え、それらが大きく重たくなるほどに、徐慧の顔からは笑顔が消えていった。

 宮中には仕事で出向くことはあれど、宴などは避けるようになった。


 わかってはいる。自分で自分を追い込みすぎた結果が今なのだと。


「──殿下!」


 重たい空気を打ち破る、弾んだ娘の声。

 徐慧は水面に向けていた視線を持ち上げ、声のした方を見やる。


 そこには桃の色を思わせる襦裙をまとう年頃の娘が立っていた。背後には侍女が二人いる。


 娘には見覚えがあった。誰だっただろうか?

 どこかで見た覚えがあるのだが、今日はあまり冴えていないようだ。

 すぐに出てこない。


「李淑と申します。父は郢国公の」


「ああ、思い出した」


 名乗った李淑の言葉を遮り、徐慧はすぐに理解した。

 あの放蕩息子・李旦の妹か。


「殿下、もしよろしければご一緒しても?」


 許可が出る前に、李淑は素早く徐慧の隣へとやって来る。

 実に素早い動きだ。

 そこは素直に褒めよう。


 ただ化粧なのか香り袋なのか知らないが、香りが強すぎる。


「今日のために花仙楼で仕立てましたの! いかがでしょう?」


 弾んだ声で話しかける李淑の背後に控える二人の侍女は、わかりやすく慌てている。


「花仙楼が優れた繍坊なのは皆知っていますからね。良い繍坊を選ばれたのでは?」


「わたしはどうでしょう?」


「お嬢様!」


 さすがに今の李淑の発言は見過ごせなかったらしい。侍女の一人が李淑に駆け寄る。


 淑女というものは、男性に対して自分はどうか? などと聞かないものだ。


「申し訳ないが、仕事が残っているのでここで失礼します」


「殿下! お待ちください! 殿下ー!!」


 淑女にあるまじき大声ではあるが、幸い、あの場には徐慧しかいなかった。誰も李淑の淑女らしからぬ言動を目にしていないだろう。


「皇太后様と皇后様、それと母上に伝えてくれ。斉王は急な呼び出しがあったため、先に失礼する、と」


「承知しました」


 近くにいた侍女を引き止め、言伝を頼む。

 侍女は頬を赤らめつつ、託された言伝を皇太后たちに届けるため、早足でその場を去る。


 きちんと出席はしたのだ。陛下も文句は言うまい。

 母からの小言もないはず。


 自分の役目をしっかりと果たした徐慧は、早歩きで百花園から遠ざかる。


 しかしこの吉服、次に着る機会は来るのだろうか?

 これほどの逸品だ。一度だけしか着てもらえないのは不憫というもの。


 だが着る機会は当分来ないだろう、申し訳ないが。


 ──たった一日だけのために、あの金額を払うのか……


 いや、わかっている!

 この仕上がりを見て、なおかつ袖を通して良さを実感した身だ。

 あの金額は妥当だと断言できる。


 それでもやはり、思わずにはいられない。


 なぜこんな高級な布を使う必要があったのか。

 素月にもう一度会うことがあるのなら、聞いておくべきだろう。


 でなければ、到底納得などできはしない!



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