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26 止まった赤と進む青

 作りかけの鮮やかな赤い花嫁衣装を、素月は丁寧にたたみ風呂敷に包む。

 これは羅元華のための花嫁衣装だ。形こそ出来上がってはいるものの、刺繍はまだ未完成。


 だがもう持ち主はこの世におらず、羅家も引き取るつもりはないと言ってきた。

 こういうことはたまにあり、仕立て直して店で売ることもあるが、さすがに花嫁衣装となると話は変わってくる。

 しかも嫁ぐ前とはいえ、着る予定だった娘は自害したのだ。縁起がよろしくない。


 娟如はどうしたものかと考え込んでいたが、自分が引き取ると素月が言えば、驚きはしたものの何も言わず未完成の花嫁衣装を渡してくれた。


 ──羅家は都を出たのね


 錦児が教えてくれた。

 羅家は屋敷も土地も売り払い、嫁ぐ予定だった商家の男に銀子を返したらしい。全額返せたのかまでは、わからない。

 何もかもを失った羅家は、田舎の遠い親類を頼って都を出たのだとか。

 羅家の屋敷には今、その商家の男が住んでいるらしい。


「……あなたはどうしたい?」


 風呂敷に包んだ花嫁衣装に、素月は声をかける。

 何も返ってこないことはわかっているけれど、聞いてみたくなったのだ。


 元華の墓に一緒に入れても良かったのかもしれないが、元華はそれを絶対に望まないだろう。


 ならばいっそ、燃やしてしまうべきか。

 それなりに高価な布や糸を使っているとはいえ、もうこの花嫁衣装に出番はないのだ。


 素月はしばらく考え込んだが、答えは出なかった。


「素月!!」


 扉が勢い良く開いたかと思えば、興奮した様子の錦児が立っていた。


「届いたわよ、注文した例の布が」


「そう、意外と早かったのね」


 もっと時間がかかるものと思っていたが、これならば秋の園遊会に間に合いそうだ。


 素月は落ち着いた様子で、錦児と一緒に工房へ向かう。


 工房には繍女たちが集まって大混雑していた。

 それを錦児がかき分け、素月を手招きする。


「まさか本物を見れる日が来るなんて……」

「この世の物とは思えないらしいわよ?」

「これ、一体いくらしたの?」


 繍女たちの声を無視して、素月は机の上に置かれた箱に触れる。

 この中に、天狼銀絹布が入っているのだ。


「あ、開けるのよね?」


「不備がないか確認しないと」


「そ、そうよね」


 緊張した様子の錦児と違い、素月は落ち着いていた。木製の箱の蓋を持ち上げる。

 瞬間、錦児を含んだ繍女たちが一斉に声を上げた。


「これが天狼銀絹布……」


 箱の中に収められた布は、光っているかのようだった。濃く深い青、それが窓から差し込む日の光によって色合いをころころと変える。

 まるで表情が次から次へと変化する子どものようだ。


 素月は躊躇いもせず、布を箱から取り出す。


「極上の絹だわ」


 これほどの絹は、そうそうお目にかかれない。

 公主だった頃を思い出す。父は自分に、最高の物だけを与えようとしてくれた。

 この布のことを知っていれば、父は間違いなく取り寄せたことだろう。


「さ、触ってみてもいい? ううん、やっぱりやめとく!!」


 錦児や他の繍女が好奇心で触れようとしたが、誰も素月の答えを待つことなく、手を引っ込めてしまった。


 その気持ちはわからなくもない。

 ただの布地のはずなのに、触れることを躊躇ってしまうほどの圧がこの布にはある。


「皆がここに集まっているから、店が空っぽだわ。誰がお客様の相手をするの?」


 騒々しい工房に響いたのは、娟如の声だった。

 楼主の登場により、集まった繍女たちは蜘蛛の子を散らすように各々の仕事へと戻っていく。


「届いたのね」


「はい、つい先ほど」


 素月は布を箱へと戻す。


「郡主様が許可を出してくださるとは思いもしなかった」


 娟如は布をじっと見つめ、ため息をつく。

 この布を注文するにあたり、娟如は徐慧の母である青陽郡主・蕭白蓮に許可を求めたのだ。

 斉王の吉服を仕立てるのに、予算は設けられてはいなかった。


 とはいえ、素月が使いたいと申し出た布はかつて皇帝に献上されたこともある程の希少で高価な布。

 白蓮にお伺いを立てる必要がる、と娟如は判断したのだ。


 娟如は反対されるかと思っていた。

 そもそもとして、白蓮がこの布について知っているのかどうかすらもわからない。

 となればその価値について説明する必要があると思っていたのだが、予想に反し白蓮は「好きになさい」の一言で終わらせてしまった。


 さすがは郡主、斉王の母、とでも言うべきなのか。


「まだ時間はあるとはいえ、間に合うの?」


「今日、今から取り掛かりますので問題ないかと」


「今から?」


「はい、もう何を作るかは決まっておりますので」


 驚く娟如を、素月は澄んだ瞳で見つめ返す。


「やり直しはきかないのよ? わかっているわね?」


「承知しております」


「……時々、あなたが怖く思えるわ」


「それはどういう意味でしょうか?」


「肝が据わっているというか……まあ、良いわ。きっと素晴らしいものが出来上がるわね」


「はい、それは間違いないと思います」


 素月の中には、もう既に完成品が出来上がっている。

 あとはそれを、形にするだけ。


 なんの迷いもない。心は秋の空のように澄み渡っていて、凪のように穏やかだ。


 ◇◆◇◆◇


 徐慧は母から渡された一枚の紙を真顔で──いや、眉間に深い皺を刻んで睨むように見ている。

 その紙には、ある布地の金額が書き記されているのだ。見間違いか、あるいは書き間違いか。

 たかが布に、この金額?


 徐慧は信じられず、視線を紙からすまし顔の母へと向ける。


「これを許したのですか? 正気とは思えない……」


「なんの問題があるというの? 息子──それも斉王のための吉服を仕立てるためなのですよ? 出し惜しみをするなんて、わたくしだけでなく、斉王府の名が廃るというもの」


 白蓮はにこやかに微笑み、茶杯にそっと口付ける。


「吉服など、そうそう着る物ではないことぐらい、母上ならばご存知でしょう? そんなもののために、こんな大金──」


「そう思うのならば何度も袖を通せば良いわ。これを機に、社交の場へ顔を出してみてはどう?」


 音もなく茶杯を卓に置いた白蓮が、強い意志を持った瞳でこちらを見てくる。


 ああ、なるほど。そういうことか。


「──母上のお考えはよくわかりました。ですが私は仕事がありますゆえ」


「まことにわかっているの?」


「……身を固めろと仰りたいのでしょう」


 自身の立場がわからぬほど、徐慧は愚かではない。


 母のもとにはきっと、徐慧に伝えていないだけでいくつもの縁談の話が来ていることだろう。伝えないのは母の優しさか、気遣いか。


 男ならば手柄の一つでも挙げてから、などと言う者もいるだろうが、徐慧には身分と立場がある。

 そう遠くないうちに妻を娶る日が来るだろうが、それは今ではない。


「頑固なのは父親譲りね」


「母譲りでもあるかと」


 言い返せば、睨まれた。

 母に睨まれるのは慣れている。


 徐慧は気にした様子もなく、ありえない金額が記された紙を白蓮の侍女へと返す。


「これほど高価な布地を使う必要があるのですか?」


「わたくしが指示したとでも? あの繍女がどうしてもこの布を使いたいと申し出たらしいわ。董楼主からその布について説明を受けたけれど、とても希少な布のようね」


「──天狼、銀絹布……」


 初めて聞く名前だ。

 そもそも衣どころか布地にさえも興味を持ったことがないのだ。事件に関することであればいくらでも調べるが、衣や布といったものとは今のところ縁がない。


「どんなものが出来上がるか実に楽しみだわ。董楼主の話だと、その布は扱いがとても難しいそうよ。この金額、やり直しはきかぬでしょうね」


 いたずらっ子のように笑う母を、徐慧はなんとも言えぬ表情で見つめ返す。

 やり直しはきかぬ──失敗すれば恥をかくのは斉王で、繍女と繍坊は罰を免れることはできない。

 母はあの素月という名の繍女がどんな吉服を仕立ててくるのか純粋に楽しみにしているのだろうが、何も知らぬ者が聞けば意地が悪いと言われても仕方のない物言いだ。


 普段は郡主として、斉王の母として凛とした佇まいを崩さない白蓮だが、その性分を一言で表すのであれば天真爛漫。


 父と長男を立て続けに失った母の顔からは、昔のような笑顔は消えてしまった。笑いはするものの、常に憂いを帯びている。

 たった一人残った息子を見る目に、また失うのではないかという恐怖と不安が宿っていることを、徐慧はきちんと気づいている。


 だからこそ、いつもより少しばかり楽しそうな母の姿に、徐慧はこれ以上何かを言う気にはなれなかった。


 願うのはひとつだけ、あの繍女が失敗しないこと。

 母が満足するものを仕立ててくれれば、大金を払う価値はあるというものだ。

 どんな吉服が出来上がるのかなど、徐慧には想像すらもできないが。



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