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25 互いを思い浮かべる夜

 蝋燭の火が夜風に揺れると、素月の影も合わせるように揺れる。


 素月は視線を窓に向け、少しだけ窓が開いていることに気づいた。

 徐々に肌寒くなってきている。秋が来れば、すぐに冬だ。冬が来れば、春──そうして日々を重ねていくのだろう。


 素月は窓をしっかりと閉め、作業中の机に戻り椅子に腰掛ける。


 ここは花仙楼の一室。夜になれば素月は花仙楼が管理する寮ではなく、兄が待つ自宅へと帰る。

 だが今夜は、花仙楼で一人静かに作業をしたかったのだ。兄には了承を得ている。

 もちろん、楼主である董娟如にも。眠くなれば、寮の空き部屋を使えば良いと言われたが、まだちっとも眠くない。


 それはきっと、吉服の形が決まりそうだから。


 机の上には何冊もの布見本が広げられているが、素月の目にはある一枚の布地が、まるで光っているかのように見えた。

 これがあの人には相応しい。

 これしか考えられない。


 そう思わずにはいられない、濃く深い青色の布地──天狼銀絹布(てんろうぎんけんふ)


 仰々しいその名に相応しく、この布地はとても高価で希少。


 花仙楼にこの布地は置いていない。

 なので娟如の許可をもらい──すぐに許可はもらえなかったが、それでも結果として許可は出た──、錦児に注文してもらった。注文を頼んだ時の錦児の顔は、それはそれは凄まじいもので、今思い出してもつい笑ってしまうほど。


 何度も確認された。本当にその布で間違いないのか、と。


「これ以外に思い浮かばないのだから、仕方がないわ」


 布見本に貼り付けられた布地を、そっと撫でる。布の大きさは、素月の手のひらにちょうど収まる程度。

 それでも滑らかさは十分すぎるほどに伝わる。


 だがこの布地の本質は絹特有の滑らかさではない。


 素月は布見本を持ち上げ、角度を変えて布地を見る。


 それは夜空のように濃く深い青──濃紺と呼んでも差し障りないだろう。

 一見すればただ重厚感のある絹の布地。


 素月は蝋燭の火に見本を近づける。

 すれば布地がその暗く重たい色合いを、まるで生きているかのように変化させた。

 深い夜を思わせた濃紺が、宝藍のような華やかさを見せる。

 かと思えば青紫のような鮮やかさを一瞬見せて、また深い夜の色に戻る。


 そう、この布地は光のあたり具合で色合いが変わるのだ。

 特別な染料、特別な製法で作られた天狼銀絹布は、一般に流通していない。

 万華国の一部の地域でのみ作られており、随分と昔、皇帝に献上されたことにより存在が知られることとなった。


 当時の皇帝は非常にこの布を気に入り、早速、尚服局に服を仕立てるよう命じたそうだが、上手くいかなかったと聞いている。

 天狼銀絹布は扱いが難しいのだ。断ち方、縫い方、そのどれを間違えても布本来の良さを一気に台無しにしてしまう。


 しかも希少な布であるため、やり直しがきかない。


 そのため、一般には流通しなくなったのだ。

 時折、これで吉服を仕立てたいという者が現れるが、娟如は丁重に断っている。

 娟如ほどの腕があれば扱える──だが娟如はそれをしない。


 ──誰にでも扱える布ではないということは、誰にでも似合う布でもないということよ


 娟如はそう言っていた。


 確かに、この布で仕立てた衣を着こなせる者はそういないだろう。

 そこらの者では、衣に負けてしまう。


 でも素月は、この布が浮かんだのだ。


 一見すれば重たく地味に見えるそれが、太陽の下、歩くたびに表情を変える──それに銀糸で刺繍を施せば、まるで夜空に煌めく星のように見えるのではないだろうか。


 あの人ならば、負けはしない。むしろ──


 素月は今日見た徐慧の姿を思い浮かべる。


 最初に抱いていた、冷たく厳しい印象は変わっていないが、どこまでも真っ直ぐで、自身の仕事に誇りを持った芯のある人だと思った。

 真実一路──結局、素月は羅元華の死の真相を知ってしまった。

 元華は自ら命を絶ち、それを隠したい羅家が柳評事に賄賂でも渡し、報告書を偽造させたのだろう。役人と賄賂は、切っても切り離せない関係で、よく聞く話でもある。


 だがそれを良しとしなかったのが、徐慧。

 元華が亡くなったのは事実で、それが事故か自死かの違いだけ。

 そのぐらいなら、と見過ごす者もいる中で、徐慧は見逃さなかった。


 あの人のことはよく知らないけれど、自分の仕事に責任を持ち、良くも悪くも頑固なのだろう。

 こうと決めたら、進むのみ。


 ──何を刺繍すべきかしら……


 たった一枚、手のひらに収まるほどの布地を見つめ、素月は一人の男の姿を思い浮かべる。


 背が高く、細身かと思えばそうではない。

 きちんと鍛えた、しっかりとした厚い胸板と広い背中。香るのは、清涼感のある松香。

 そして冷たく凍るような厳しさを宿した切れ長の瞳は黒く、強い光を宿している。

 気安く触れようとすれば、その鋭利さで怪我をしてしまうのではないか。

 そんな近寄りがたさがありつつも、ひとつひとつの事件を真摯に精査し、部下の進言にも耳を貸す。


 素月は紙と筆を用意し、頭の中に浮かぶ図案を描く。


 それはこの世でたった一人の男のために描く、世界に一つだけの図案だ。



 ◇◆◇◆◇



 夜も更けているというのに、斉王府にある書斎には未だ明かりが消えていない。


 王府の者は徐慧を探すとき、自室ではなく真っ先にこの書斎を見に来る。

 それほど徐慧はこの書斎に籠っているのだ。


 実際、徐慧はほとんどを書斎で寝起きをしている。自室には寝心地の良い立派な寝台があるというのに、書斎の固く寝返りの打ちづらい簡素な牀榻(しょうとう)で寝起きをしているのだ。


 それゆえ母からはことあるごとに小言を言われているが、無視を決めこんでいる。

 ただ近頃は徐家の家令である衛簡(えい・かん)からも、「もっとお身体を労ってください」と言われてしまった。


 さすがに眠る時くらいは自室へ行くべきか、と思いはするものの、やはり書斎で眠ってしまうのだ。


 そして今夜も、書斎で眠ることになるだろう。


 徐慧はきちんと書き直した報告書をなんとも言えない気持ちで見つめていた。


 羅家へ赴けば、羅家の当主は簡単に白状した。結婚を間近に控えた娘が自ら命を絶ったなど、外聞が悪すぎる。

 それを隠すため──嫁ぎ先に知られたくなかったのだろう。柳越に賄賂を渡し、事故として処理させようとした。


 擁護するつもりはないが、羅家の当主の気持ちは理解できる。

 羅家の現状はあまりよろしくない。宮廷での立ち位置も危うい。屋敷は立派に見えても管理が行き届いておらず、それはそこに住む者も同じだった。使用人は最低限。庭師も解雇したのだろう。

 元華が溺れたとされる池も、ひどいありさまだった。

 誰が見ても、羅家は困窮している。


 そんな中での娘の結婚。

 実にめでたい話ではあるが、元華の嫁ぎ先を聞いた瞬間、徐慧はすべてを察した。


 ──金のために娘を差し出そうとしたわけか


 成り上がりの商人と、歴史はあれど日々の生活で手一杯の名家。

 これはよくある話だ。

 だから結末は大抵、二通り。

 素直に結婚を受け入れ、愛してもいない男の元へ嫁ぎ実家を助ける。

 それか逃げ出す──金目の物を持ってどこか遠くへ逃亡するか、命を絶ち永遠にこの世から逃げるかの違いだ。


「自殺となれば、結婚したくないと言っているも同然だからな」


 思わず言葉が漏れたが、事実だ。


 事故ならば哀れな話で済む。嫁入り道具を準備するため、嫁ぎ先から渡された多額の金も返さなくて済むかもしれない。

 だが自殺となれば話は変わってくる。嫁ぎ先は不満があるのか! と烈火の如く怒り、渡した金を全部返せと言うだろう。


 徐慧はすべてをきちんと理解した。羅家の現状、元華の命をかけた訴え──それらすべてを理解した上で、報告書には「自死」と自ら書き記した。

 後悔はない。


 自分は大理寺少卿なのだ。情も時には必要だろうが、それを切り捨ててでも「正しく」事件を終えるべきだ。


 徐慧は報告書を丁寧に閉じ、深く息を吐き出す。

 机に置かれた茶杯はすっかり冷めてしまっているが、付人の北斗(ほくと)を呼んでまで淹れ直させようとは思わない。喉を潤せればそれで良い。


 ──あの娘は、吉服を仕立てられるのか……?


 茶杯を空にした徐慧の脳裏に浮かんだのは、白い肌の繍女の姿。

 こちらを真っ直ぐに見つめ返す素月は、半日だけでも共に過ごす時間をくれ、と頼み込んできた。


 普段ならば断る。立場のせいなのか、やたらと女性を紹介されるし、女性が自ら近づいてくることもあるので、断るつもりでいた。

 だがなぜか、自分は了承した。半日、大人しく執務室にいるのであれば、と。


 実際、素月は大人しくしていた。余計なことは何も言わず、まるで人形のようにただそこにいるだけ。

 江紹が変な気遣いをしたようだが、それでも素月は意見を口にするようなこともなかった。

 花仙楼へ送り届けるその瞬間まで、素月は本当に徐慧の言いつけを守ったのだ。


 吉服を仕立てるためと言っていたから、何か聞かれるのかと思っていたが、肩透かしを食らった気分ではある。

 何かやかましく言ってくることがあれば、すぐに追い出せばいい──だが今日のあの様子で、吉服を仕立てられるとは到底思えない。


 いや、それは自分が繍女ではないからそう思うのだろうか?


 花仙楼へ送り届けた素月に、落胆した様子は見られなかった。

 むしろこちらをしっかりと強い目で見つめ返してきたほどだ。

 何かを見つけたのだろうか?

 ほぼ会話などしていないというのに。


「──不思議な娘だ」


 今まで、あんな女子(おなご)と会ったことはない。

 ふとした瞬間に思い浮かべてしまうのは、そのせいなのか?


 徐慧は茶杯に手を伸ばし、空なことを思い出す。


 もういい、今夜は寝てしまおう。仕事はしっかりと終わらせたのだ。


 程なく書斎の明かりは消え、王府の主人は相変わらず固く身動きの取りづらい牀榻で眠りに落ちた。



牀榻 この作品では腰掛けとしても寝台としても使える物の場合に使用しております。

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