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23 ただの繍女と哀れな令嬢


 執務室に戻った素月は、衝立の奥にある長椅子に腰掛ける。

 江紹は素月を送り届けた後、徐慧の元へと向かったため、室内には素月一人だけ。

 静寂の中、松香の香りが漂う。


 素月は目を伏せ、膝の上に置いた自分の手を見つめる。


 頭に浮かぶのは、一月前に初めて会った羅家の令嬢・元華の顔。十七歳を迎えたばかりの元華は、線の細い儚い雰囲気をまとう令嬢だった。

 その日は暗い表情を隠すように化粧が濃く、今にも泣き出すんじゃなかろうか、という顔で採寸を受けていた。


 花嫁衣装も仕立てることになっていたため、素月は通常の採寸時よりも長い時を元華と過ごしたが、元華はずっと心ここに在らずの状態。


 素月は何度か声をかけたが返事はなく、仕方ないと手順通りに採寸を済ませ、いろいろな布を彼女の白く澄んだ肌に当てながら図案などを考えていたのだが、不意に元華が話し始めたのだ。

 素月相手に話しているのではない。


 多分、自分自身に向かって話しているのだ。


 ──わたくしは売られるのよ……。


 素月はただ黙って、元華の独り言を聞いていた。口を挟むべきではないと思ったから。


 元華はとうとう涙を流しながら、吐き出すように、絞り出すように話し続けた。自分で自分を納得させるかのように。

 これは仕方のないこと、受け入れるしかないのよ──そう、自分に言い聞かせるかのような独白だった。


 元華の置かれている状況は、素月には痛いほどよくわかる。


 羅家の名は地に落ちているも同然。

 元華が身につけている襦裙は質こそ良いものの、何度も繕いながら着続けているのだろう。新調する余裕がないのだ。耳飾りや髪飾りなども、少しばかり輝きが落ちていた。


 元華が嫁ぐ先は裕福な商家だと聞いているが、成り上がりだ。五代──いや、三代遡れれば良い方。

 明らかに不釣り合いで、明らかに互いが金と家柄を目当てとしての結婚。


 よくある話だ。

 まだ素月が公主として生きていた頃も、同じような話を何度も耳にした。実家を守るため、愛してもいない男の元へ嫁ぐ──金のために。

 それはまるで、身売りのようだ。


 だが残念なことに、これは公主にだって起こり得ることでもあった。国のため、望まぬ結婚を強いられる──守るべきもの、背負うものが国か家かの違いだけ。

 愛する人と結ばれたいと願っても、それが叶うとは限らない。


 自分もいずれはそうなるのだろう。

 いかに父である皇帝が自分を寵愛して、誰の目にも触れさせぬよう後宮の奥深くに隠そうとも、いずれは誰かの手に渡る。


 そう思っていたのに、運命とは実に不思議なものだ。

 今の自分は公主ではなく、ただの繍女。誰にも結婚を強いられることはなく、むしろ生涯独身を貫く覚悟を決めている。


 そんな素月の目に、元華はただただ哀れに映った。落ちぶれた名家に生まれてしまい、その運命から逃れることのできない、哀れな令嬢。


 せめて元華の美しさを最大限に引き出せる花嫁衣装を仕立てよう。

 それしか今の自分にはできないと思い、いつもよりもずっと丁寧に刺繍をしていたのに……あの花嫁衣装は持ち主を失ってしまった。二度と日の目を浴びることはないだろう。


 そういえば、医師には守秘義務というものがある。

 大理寺にもあると聞いたことがあるが、繍女にはない。


 だから素月は、元華の独白を誰に語っても問題はないだろうが、そんな気にはなれなかった。

 元々、誰彼構わず話して回るような性格でもない。


 元華の独白は、誰にも話さず胸に秘めておこう。


 そう思っていたのだが、状況が状況だ。自分は言うべきなのだろうか?


 元華は輿入れを望んでおらず、自分の現状を憂いていた。

 それこそ、自ら命を絶ってもおかしくないほどに。


 ──私が気にすることではないわ……。


 素月は首を横に振り、余計なことを考えないように努める。自分はただの繍女で、元華の死は大理寺が解決すべき問題。


 それに今日ここへ来た目的は、徐慧の人柄を知るため。

 それ以上でも、それ以下でもない。


「素月殿」


 考え込んでいたせいで、素月は室内に誰かが入って来たことに気づかなかった。名を呼ばれ顔を上げれば、そこには徐慧が立っていた。


「今から柳評事がここへ来る。事件についての話をするので──」


「花仙楼へ帰りますわ」


 徐慧が言い終わる前に、素月から申し出た。

 さすがに長居しすぎていると、自分でも思う。吉服を仕立てられる絶対的な自信はまだないが、あまり我儘を言うべきではない。


「いや、花仙楼へはきちんと送り届ける。別室へ移動してほしいだけだ。江紹、案内を」


「素月殿、こちらへ」


 江紹は穏やかだ。

 まだお叱りを受けていないのだろう。

 それともお咎めはなし?


「こちらでお待ちください。あまり居心地が良いとは言えませんが、終わり次第、花仙楼へお送りしますので」


「恐れ入ります」


 案内されたのは、執務室の隣にある部屋だった。掃除はされているようだが、あまり使われてはいないようだ。

 ただ物がやたらと多い。棚には大小様々な壺が並び、それ以外にも(すずり)や扇子が置いてある。茶器もあるのだが、その中にはなぜか銅銭が数枚入っているし、床には弦のない弓や傘、鞘までもが置いてあって、この部屋は物置なのだろうか?


「どうしたものかしら……」


 困ったことに、この部屋には物が多いくせに椅子がないのだ。立ったまま待つしかなさそうだが、仕方ない。


「──────」

「──────」


 隣の部屋──執務室から声が聞こえるが、壁はしっかりと厚いので、はっきりとは聞こえない。

 いかに五感が他者よりも優れているとはいえ、限界はある。人はどこまでいっても人の枠からは出られないのだ。


 それに自分が聞くべき内容ではない。


「おや、先客がおりましたか」


 なんの前触れもなく部屋の扉が開いたかと思えば、そこには李瑾が立っていた。


「先程、江殿と一緒におられた方ですな。入ってもよろしいですかな?」


「構いませんが……」


「それでは失礼します」


 李瑾はにっこり微笑み、部屋に入る。何の用があるのだろうか?


「私は誰よりも長く、ここで働いておりますのでね。少卿すら知らぬことも、私は知っていたりするのですよ」


 そう言って、李瑾は壁際に寄る。

 そちらは執務室がある方角だ。


「何をされているのですか?」


 疑問に思った素月が声をかければ、李瑾が手招きをする。

 そこは部屋の奥。壁を隠すように置かれている棚には、観音像が飾られていた。

 まさか観音像をこんな奥に置くだなんて……信心深い者が見たら、発狂するんじゃなかろうか。


「ここは前少卿──今の大理寺卿が増設させた部屋なのですがね、その方は収集癖がありましてね。他人にはがらくたに見えても、あの方にとっては特別なのでしょう」


「なるほど……」


 物の多さの理由はわかったが、李瑾が何をしようとしているのかはわからないまま。


「この観音像をどかして奥の絵をずらせば──やはり塞がっていませんでしたな。ご覧になりますか?」


 李瑾が場所を空けてくれたので、素月は壁際に移動する。

 なんとなく李瑾の「塞がっていません」の言葉で察してはいたのだが、やはり壁には穴が空いていた。

 そこまで大きくはないが、声を聞くには十分だ。


柳越(りゅう・えつ)が参りました」


「入れ」


「失礼します」


 少し体の位置をずらせば、入室した人物が見えた。

 徐慧よりも年上の男は、なんと言うべきか……とても不満げな表情をしている。

 あれが柳評事のようだ。


「少卿、どのようなご用件でしょうか?」


「昨日の羅家で起きた令嬢の死についてだ」


 当然と言うべきか、話す内容は元華のこと。


 素月は咄嗟に壁から離れる。


「どうされました?」


「私は部外者ですので」


 聞くべきことではない。

 元華の死の真相を知ったところで、亡くなったという事実は変わらないのだ。自分が知るのは、そのくらいでちょうど良い。


「李瑾様はなぜ、ここへ?」


「私に偽りの検視報告書を書かせたのです。真実を知らねば納得がいきませんのでね」


 そう言って、李瑾は壁の穴に顔を近づける。

 李瑾は大理寺の検視官。間違いなく関係者だ。盗み聞きはどうかと思うが、真実を知りたいという気持ちは理解できる。


 だが部外者は一瞬の好奇心に負けて、首を突っ込むべきではない。

 素月は壁から距離を取る。


 何事も慎重に、確実に、間違えないように進まねば。


 それが自分を守る最善の道だと、素月は心得ているのだ。



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