22 羅元華という名の令嬢
遺体安置室は日が入らぬよう、地下に作られている。
ここへ足を運んだのは初めてではない。
大理寺少卿という立場にある以上、遺体を目にする機会は多い。
いつかは遺体にも慣れる、だが「死」に慣れるべきではない──そう言っていたのは誰だったか。
安置室に来るたびに思わずにはいられない。
ここは「死の匂い」が強すぎる。
徐慧は目の前の台に横たわる少女を、静かに見下ろす。
「羅家の一人娘・羅元華──」
直接の面識はないものの、名前くらいは知っている。先代の当主が失脚し、宮廷での地位も権力も失ってしまった羅家。
その羅家の一人娘が、昨日、屋敷の庭にある池に誤って落下し、そのまま溺れて亡くなっているのが発見された。
現場に向かったのは柳評事と数人の部下。現場はまだ、立入禁止となっているはずだ。報告書は提出されたが、それがまだ受理されていない。受理されて初めて、この件は解決扱いとなり、立入禁止も解除される。
羅家が遺体の返却を急かしているようだが、それもまた、手続き等がきちんと終わってからだ。
「検視報告が簡潔だな」
「そう書くように指示されましたので」
李瑾は口元を白い布で隠しているので、声がこもって聞こえる。
「失礼します」
李瑾が手袋をした手で、元華の首や手、爪の先までしっかりと確かめる。
「水死体を見たことはございますか?」
「何度か」
「溺れたご経験は?」
「ない」
「──まあ一般的に泳げない者が水に落ちれば、慌てるものです。そうなると、口の中に大量の水が流れ込んでくる。その水は気道に入り、肺を過度に膨張させるものです。昨日、検視した際は胸部が膨らんではいませんでした、確実に」
李瑾は饒舌に語る。
こちらの相槌など、求めてはいない。
「それに見つかった際、ご令嬢は水面に浮かんでいたとか。溺死したのであれば、遺体は沈むはずです。浮き袋となる肺が水で満たされているわけですから。──ああ、やはり」
「どうした?」
「ご覧ください」
李瑾が指差しているのは、元華の首だ。青白い首には、薄く細い線が見える。
「皮下出血──舌骨も折れていますな。つまり気道は完全に閉じられていたことになり──」
「これはつまり、首を吊って死んだ──彼女は自害したということか?」
「でしょうな」
徐慧は報告書の内容を思い出す。
昔から記憶力は良い。
つい先ほど読んだばかりの内容ならば、容易に思い出せる。
報告書には間違いなく、「事故」「溺死」と記されていた。
「自害を事故に偽装したのか? なんのために?」
「それは私には分かりかねます。私の役目は正しい検視結果を報告することですからな」
「柳評事と話す必要があるようだ。新しい報告書──いや、正しい報告書を提出するように」
「承知しました」
李瑾に指示を出し、徐慧は鋭い視線を安置室の出入り口へと向ける。
先ほどから、視線を感じていたのだ。
──あいつは一体、何をしているんだ?
護衛である江紹を残してきたのは、花仙楼の繍女を見張らせるためだ。
ここへ連れて来いとは、一言も言っていない。
「なぜここにいる?」
徐慧が近付いてきたことに気づいた江紹は逃げるように外へ出ようとしたが、残念ながら、徐慧の方が素早かった。
江紹を逃さぬよう首根っこを掴み、視線を素月へと向ける。
素月は無表情でこちらを見つめ返してきた。
ここは遺体安置室。年頃の娘が喜んで来るような場所ではない。
だというのに素月は、怯えた表情ひとつ浮かべていない。
それがどうにも、徐慧には不気味に思えて仕方がなかった。
◇◆◇◆◇
「なるべく音を立てないように」
江紹が小声で囁く。
素月は無言で頷きながら、遠目に見える徐慧の姿を見つめる。
まさか遺体安置室に連れて来られるとは思いもしなかった。怖いとは思わない。思えるはずがない。
だって亡骸ならいくつも目にしてきたのだ。
「見えますか?」
素月は少しだけ背伸びをしたが、見えるのは徐慧の顔だけだ。
安置室は地下にあり、光を通さない。蝋燭の明かりだけが頼り。
いくら五感が他者よりも優れているとはいえ、限界はあるもの。
だが声は聞こえる。
徐慧と李瑾の声が、反響して出入り口にいる素月の耳にも届いた。
──亡くなったのはやはり、元華様なのね。
素月は一月前、羅家へ出向いた。元華の採寸をするためだ。嫁入り前に、衣装をたくさん仕立てる必要があるから、と。
羅家はそれなりに歴史のある名家ではあるが、裕福とは言い難い。
その羅家が前払いで大量の注文をしてきたときは錦児と一緒に驚いたものだが、どうやら一人娘の輿入れ先が大層な金持ちなのだとか。
花仙楼が受け取った銀子は、羅家からではなく、娘の嫁ぐ予定の相手からだったということ。
素月はただの繍女。犯罪にでも巻き込まれない限りは、言われた通りに仕事をこなすだけ。
だが採寸をする中、幾度か元華と言葉を交わしたが、元華はちっとも嬉しそうではなかった。
むしろこの世の終わりでも訪れたかのような、深い悲しみの表情を浮かべていた。
安置室の冷えた、少しばかりつんとする匂いの中、思い出すのは最後に見た元華の憂い顔。
徐慧が見ている元華の顔は、素月の知っている元華の顔だろうか?
「自害、か」
江紹は何かを考え込むように、顎に手を当てている。
「素月殿はどう思いますか?」
話を振られ、素月はどう答えたものか悩む。
思い出すのは、あの日、元華を採寸した時のこと。記憶力はそれなりに良いほうだ。
元華が口にした内容を、素月は確かに覚えている。
ただそれを、簡単に口にしても良いのだろうか?
あの日、元華は心の内を素月に晒したが、あれは独り言のようなものだったと素月は思っている。
元華からすれば、ただの繍女。空気も同然。
故にあの場で聞いたことは、無闇に口に出すべきではないと思うのだが……どうなのだろう?
江紹は徐慧の護衛であるのと同時に、大理寺の役人でもあるのだ。話しても問題はない、はず。
「私は──」
「まずいっ!」
素月が口を開くのと同時に、江紹が慌てた声を上げる。
「なぜここにいる?」
聞こえたのは、安置室の空気よりもずっと冷たく、威厳に満ちた声だった。
「いや、これには深いわけがありまして」
逃げようとしたらしい江紹は、見事、徐慧に首根っこを掴まれ大人しくなった。
それにより、素月は言うべき時を逃してしまった。
「何にも触れず、何も言わず、執務室へ戻れ。いいな?」
「承知しました……」
江紹はきっと、徐慧からのお叱りを受けるのだろう。部外者をこんな所へ連れてきたのだ。罰は受けて当然で、それは素月も同様。
だが素月の意識は、静寂に包まれた安置室の奥を向けられている。
一月前、たった一度会っただけの令嬢が、亡くなった。
それも自害。
──わたくしは売られるのよ……。
あの言葉が、思い起こされる。
元華が自ら命を絶った。
その理由はきっと、あの一言に込められている。
「素月殿、戻りましょう」
素月は静かに頷き、安置室を去る。心は凪のように穏やかだった。
きっと羅家は困るでしょうね、嫁ぐ予定の娘が亡くなってしまったんだもの。
そういえば、花嫁衣装はどうなるのかしら……?
執務室に戻りながら、素月はふと思い出す。
元華の花嫁衣装を仕立てているのは、他でもない、自分だということを。




