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21 再びの大理寺


 陽の光が射し込む衝立の向こう側、淡々と響くのは低い男性の声。

 素月はその声に耳を傾ける。今日は部屋に満ちる松香の香りが弱い。


 物音を立てないよう、なるべくゆっくりと体勢を変えれば、衝立の隙間から、ある人物の姿が見えた。


 斉王・徐慧──ここは大理寺で、少卿の執務室。

 徐慧のすぐそばには、部下である江紹が控えている。


 先日、素月ははっきりと宣言した。斉王・徐慧のためだけの吉服を仕立てる、と。

 そのために、無理を承知の上で徐慧に頼み事をした。


 半日だけでも良いから、もう一度、殿下と過ごす時間をください、と。


 徐慧が忙しく、また難しい立場にあるのは誰もが知るところ。半日も一緒にいる時間をくれだなんて、繍女が願って良いことではない。

 だが徐慧をきちんと真っ直ぐに見るためには、日を改める必要があると思ったのだ。

 余計なこと──斉王だとか、少卿だとかの身分や立場について一切何も考えず、ただひたすらに真っ直ぐ、徐慧という人間を見る。

 そのための時間が欲しい。


 そう願い出れば、徐慧はしばし考え込んだ後、大理寺で大人しくしているのであれば良い、と言ってくれたのだ。


 なので素月は今、大理寺にある少卿の執務室にいる。

 あの日、初めてこの部屋へ訪れた時とは真逆の立ち位置だ。

 きっとあの日、徐慧も今の素月と同じような光景を目にしていたのだろう。


「こちらが報告書になります。ご確認ください」


 徐慧に書簡を見せる江紹は、この場に素月がいることを知っている。


 素月はあまり、他者に対して興味がない。

 というより、深く関わらないよう、無意識のうちに距離を取ってしまう癖が出来上がってしまった、という方が正確だろう。


 そのため、徐慧が何歳で、どういった経緯で大理寺少卿という役職に就くことになったのかは知らない。

 だが少卿としては若い、ということはわかる。


 ──確か二十六、いや二十七だったか?


 どちらにせよ、まだ二十代後半。

 だというのに、あの落ち着きようは三十──いや、四十代かもしくはもっと上のようにも見える。

 まとう雰囲気も、厳しく冷たい。


 それが余計に、あの美貌を引き立てるのだろう。


「──誰か来たな」


 徐慧が口にするより早く、素月も気づいた。ゆっくりとした足音がこちらに向かって近づいてきている。一人分の足音だ。

 それが止むと扉の向こうから声が聞こえた。


「少卿、検視官の李瑾(り・きん)が参りました」


「入れ」


 徐慧の許可と共に、執務室へと足を踏み入れたのは、老爺だった。雪のように白い髪が、目を引く。

 老爺──李瑾は大理寺の一般的な官服ではなく、無地の紺色の服を着ている。刺繍などは何もなく、生地はおそらく麻だろう。

 老人ながらも背筋が伸び、足取りがしっかりとしている。


「少卿にご挨拶を」


「用件はなんだ?」


「こちらをご覧ください」


 李瑾が差し出したのは、書簡のようだ。

 それを江紹が受け取り、徐慧へと渡される。


「昨日の羅家の件か」


「さようでございます」


「解決したと聞いているが?」


 書簡に素早く目を通した徐慧は、すぐに視線を李瑾へと戻す。


(りゅう)評事が事故と結論を下されましたが、どうにも気にかかりまして」


 李瑾は少卿を前にしても、緊張していないように見える。肩からは程よく力が抜けていて、声も穏やかだ。


 検視官と言えば、その名の通り遺体の検視を担当する者。

 検視を生業とする者は昔から存在するが、遺体は不浄なものとされ、それを調べる検視人は人々に避けられてしまうと聞く。

 だがそれは昔の話。田舎などの閉鎖された場所では、今も検視人は肩身の狭い思いをすると言うが、ここは都でしかも大理寺。

 検視人は事件解決には欠かせない、重要な存在だ。


 その証拠に徐慧も江紹も、李瑾が部屋へ入ることを気にしていない。


「検視はしたのだろう?」


「形式的な検視でしたな。──柳評事がずっと見張っていたものですから細部までは見れずに、なんとも言えず中途半端に終わらされたようなものです」


「どういうことだ? 検視結果は溺死とあるが、違うのか?」


「どうにも引っかかるのです。柳評事に詳しく調べたいと申し出ても、却下されてしまいまして……」


「事故──溺死ではないと、お前は思うのだな?」


「さようです、私にはあのご令嬢が溺死には見えませんでしたな。ですが柳評事は事故と結論付けました。──少卿、どうかもう一度、ご遺体を調べることを許可いただけませんでしょうか?」


 李瑾の声に、真剣さが宿る。

 それに気づいたのは、当然、素月だけではない。

 徐慧は書簡を机に置き、静かに立ち上がる。


「ならばすぐに動くべきだな」


「感謝致します」


「江紹、あとは任せた」


「承知しました」


 徐慧は李瑾と共に執務室を出て行く。

 執務室に残ったのは、素月と江紹の二人だけとなった。


 ──羅家のご令嬢……


 その名に聞き覚えがある。

 もしも自分が知っている羅家、そこのご令嬢だとすれば、亡くなったのはもしや……、


羅元華(ら・げんか)様──……?」


「お知り合いですか?」


 素月の呟きに反応したのは、部屋に残った江紹。

 素月が慌てて顔を上げれば、こちらに穏やかな笑みを浮かべる江紹と目が合った。


「知り合いというわけでは……ただ、お会いしたことはあります」


「そうですか。──ところで、怖がりですか?」


「どういう意味でしょうか?」


「殿下の仕事ぶりをご覧になってはどうかと。もしかすると物騒なものを見ることになるかもしれませんが」


 素月は一瞬、悩んだ。

 大理寺へ来た目的は、斉王の吉服を仕立てるために、徐慧という男をきちんと知ること。

 そこに少卿の仕事を知る必要はないと思うが、羅家の令嬢、というのが気になる。


 もしも素月の知る羅家の令嬢が亡くなったというのであれば、花仙楼の繍女としては少々、無視できない。


「遠目から見るだけでも構いませんか?」


「もちろんです。現場へ連れて行ったら、私が殿下にお叱りを受けてしまいますので」


 江紹は相変わらず穏やかな笑みを浮かべているが、その瞳の奥に、素月を試しているような、そんな色が見え隠れしているような気がする。


「では、参りましょう。なるべく静かに」


 素月は立ち上がり、執務室の外へ出る。

 執務室の外は思っていたよりもずっと静かで、ひんやりとした風が吹くばかり。

 素月は先を行く江紹の背を見つめるだけ、一言も発することはなかった。


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