第9話 お義母様の履歴書
最初に気づいたのは、郁恵さんの座布団の位置だった。
お坊さまをお見送りして、座敷が仕出しの膳に変わるまでのほんの十数分で、彼女は末席から富貴子さんの左隣へ移っていた。喪服の膝をきちんと揃え、湯呑みを両手で包み、最初からそこが自分の席だったという顔をしている。距離にして畳三枚ぶん。この人の営業は、いつも席順から始まる。
祖父の法事に婚約者の母親が列席すること自体は、おかしな話ではないらしい。「ぜひご挨拶に」と先方から申し出があったと聞いた日から、私はこの座敷を式の前哨戦の会場として数えていた。むこうがそのつもりなら、こちらも支度をして来るだけだ。
貴文は膳が並ぶ前に腰を上げた。
「本当は最後までご一緒したかったんですけど、どうしても外せない接待が入ってしまって。千夏さんのおじいさまに結婚のご報告ができて、今日は本当によかったです」
砂糖の分量まで計ったような声で座敷をひと回りし、最後に私の耳元へ「母さんのこと、頼むね」と置いていく。
「はい。ちゃんと見ています」
頼まれたから、ではない。
膳が進むと、郁恵さんはよく働いた。銚子を持って伯父たちの間を回り、大叔母の取り皿をさりげなく替える。よく気のつく、感じのいい奥さま。
「富貴子さんはお幸せねえ、こんなに賑やかで。……でもこのお家、おひとりでは広すぎるでしょう。お庭も、土地のことも。ああいうものはね、管理する人がしっかりしていませんと」
権利証のときと同じ間で、同じ語順だった。私は箸を止めずにいた。
口火を切ったのは、郁恵さん自身だった。膳が一段落してお茶が回った頃合いに、帯から白いハンカチを抜いたのだ。
「……私、今日は皆さまにお詫びとお願いがあって参りましたの」
目元を押さえる。座が静まる。
「先日、こちらのお家に、式の費用のご相談で伺ったんです。それが千夏さんのお気に召さなかったようで……私、まるで嫁いびりでもしているように思われているんじゃないかと、眠れない日が続いておりまして。私はただ、あなたのためを、お二人のためを思って」
ハンカチの角が、きれいにアイロンされたままだった。本気で泣き潰す布なら、もっと皺が寄っている。
「まあまあ」最初に乗ったのは、末席の伯父だった。「千夏ちゃんも、お式の前に角を立てんでも。身内になる人なんだから」
「そうよ、おめでたい話なんだから」誰かが続く。伯父の「角を立てんでも」が座に広がっていく感触がある。一周目の私は、同じ流れの底で三年暮らした。
「誤解でしたら、今日この場で解いておきたいんです」
私は湯呑みを置いて、富貴子さんを見た。富貴子さんは頷いて、仏間の箪笥から茶封筒を持ってきた。先々週、郁恵さんが置いていったものを、約束どおりそのまま預かってもらっていた。
「拝見します」
中身を膝の上で開く。経理の仕事と同じ手順で、書いてあることだけを読み上げる。
「『金銭消費貸借契約書』と印刷されています。日付は今月八日。担保の欄に、このお家の土地の地番が印字済みです。借入額は空欄。貸主は銀行ではなく、貸金業の登録番号のある会社です。連帯保証人の欄には、祖母の名前を書く枠が用意されています」
顔を上げる。
「これを郁恵さんが、祖母がひとりの日にお持ちになりました。『式の費用が足りなくて、ほんの少しだけ』と。——ですが式の費用は、両家それぞれの貯金で賄うと決まっていて、見積書もございます。ローンは組みません。つまりこの書類の出番は、どこにもないんです。皆さまの前で、それだけ確認させてください」
声は張らなかった。
「私はただ、万一のときのためにと……」郁恵さんの敬語は崩れなかったが、湯呑みを持つ手が、飲みもしないのに二度、口元まで往復した。「年寄りの独り暮らしは何かと物騒ですから、備えというものが」
「備えに貸金業者の契約書を持ってくる人は、初めて見たわねえ」
富貴子さんがぽつりと言って、座敷のどこかで、こらえ損ねた息が漏れた。
そのときだった。斜向かいで黙って聞いていた八重子さんが、眼鏡を少し下げて郁恵さんを見た。
「沢渡さん。失礼ですけど、お宅、前は栄町の方じゃなくて?」
郁恵さんの手が、膝の上で止まった。ハンカチの角を、初めて本気で握ったように見えた。
「……ええ、昔、少しの間だけ」
「やっぱり。娘の嫁ぎ先があちらでね。沢渡さんて聞いて、どこかで、と思っていたのよ」八重子さんの声はのんびりしたままだった。「ご主人が亡くなられたあと、ご親戚から用立てたお金のことで、ずいぶん揉めたでしょう。町内の互助会の積立も、確か。……娘の姑がね、当時の役員さんだったの」
「あら」大叔母が扇子を止めた。「栄町の沢渡さん……うちの人の碁仲間も、確かあのあたりで。『あそこの奥さんとお金の話はするな』って、冗談だとばかり」
伯父たちが口を閉じた。さっきまで私に向いていた視線が、上座の隣に座る喪服の人へ揃う。
「昔の話です」郁恵さんの声から、砂糖が抜けた。「あれは、主人の弟が勝手に……私は判子を押しただけで」
「判子を押しただけ、ねえ」八重子さんは湯呑みに口をつけた。「その判子を、今度はこのお家で押させようとなさった、と」
「まあまあ」と言いかけた伯父が、言いかけたまま口を閉じた。それから咳払いをひとつして、まるで最初からそちら側だったような顔で言った。
「……荒立てたくない話なら、なおさらだ。千夏ちゃん、その書類は先方にお返ししなさい。うちには要らんのだから」
「はい、伯父さん。コピーを一部だけ取らせていただいてから、お返しします」
コピーは、鞄の内側のポケットへしまう。
郁恵さんは立ち上がった。ハンカチは、もう目元へ行かなかった。
「……皆さんで寄ってたかって、年寄りひとりを。私が何をしたと言うんです。息子夫婦の幸せを願っただけではありませんか」
誰も酌をしに行かなかった。彼女は富貴子さんに形のいいお辞儀をひとつして、座敷を出た。私は見送りに立った。婚約者の母親だ。玄関までは、まだ私の仕事のうちに入っている。
上がり框で草履を履いてから、郁恵さんは振り返った。表情はもう整っていた。この立て直しの速さだけは、いつも感心する。
「——千夏さん。あなた、賢くていらっしゃるのね」
「恐れ入ります」
「でもね、式はもう二か月を切りましたのよ。招待状も出て、皆さまお召し物の支度をなさってる。ここまで来て壊れたら、傷がつくのはうちじゃなくて、女のあなたの方。……あなたのためを思って、言って差し上げているの」
「お気持ちだけ、頂いておきます」
引き戸が閉まる。私は頭の中の帳簿に、今の文言を日付つきで記帳した。脅し文句の在庫は、まだ切らしていないらしい。結構なこと。棚卸しは、在庫が多いほどやり甲斐がある。
その夜、自分の部屋で手帳を開き、今日の分を書き終えたのは二十三時過ぎだった。出席者、座敷での文言、玄関での文言、書類のコピーの保管場所。ペンを置いたところで、スマホが短く震えた。
葵からだった。
『たまたま入った店で、隣の席が最悪だった。加工なし。念のため送る。イヤホン推奨』
続けて、音声ファイルがひとつ。
イヤホンを着けて、再生した。居酒屋のざわめき。グラスの音。それから、語尾の甘い後輩口調。
『タカフミさんてばあ、今日もお義母さまの尻ぬぐい? えらーい。ね、式のあとは箱根じゃなくて、ちゃんと海外連れてってくれるんですよね?』
砂糖を煮詰めたような、聞き慣れた声。
『式さえ終わればこっちのもんだって。千夏の給料もローンも、全部こっちに来るんだから』
笑い声が重なった。梨花さんの、語尾の甘い声が続く。
『奥さんのお給料で彼女と旅行かあ。私、悪い女ですねえ』
『千夏は文句言わないよ。あいつは、そういう女だから』
グラスの触れる音。再生が終わって、部屋が静かになった。
長い消し込み作業で、最後の一行が消えて貸借がぴたりと合ったときの、あの手応えだった。
私はファイルに日付と受け取った経緯を書き添えて、三か所に保存した。それから葵に返信を打つ。
『ありがとう。今度ご飯おごる。高いやつ』
手帳の隅に、小さく数字を書いた。式まで、あと五十六日。
清算の日取りとしては、悪くない。




