第8話 指輪はふたつ買われていた
ショーケースのガラスに、店員さんの白い手袋が映っていた。
「お預かりいたします」
両手で受け取られたのは、私の婚約指輪だ。プラチナに、小さな石がひとつ。「一生に一度だから」と貴文が選んだ——ことになっている——指輪。
「クリーニングと、歪みの点検ですね。ほかにご用件はございますか」
「購入の証明になる書類を、再発行していただきたいんです。動産の保険に入ろうと思って。保証書一枚だけでは心許なくて」
嘘は言っていない。手放す予定の指輪にこそ、保険はきちんとかけておくものだ。査定のときに書類が揃っていると、話が早い。
店員さんは端末に向かった。
「沢渡様のお名前で……はい、ございました。二月十四日、こちらのリングを一点——」
指が止まり、画面を見て、それから私を見て、にこりとした。
「同じ日にお求めいただいた、もうひとつのリングは、いかがですか。サイズのお直しなども承れますので」
「もうひとつ」
「はい。ピンクゴールドの、七号の」
私の薬指は九号だ。
「……あちらは、大丈夫みたいです」
「かしこまりました。では、ご証明はこちらのリングお一点分で」
プリンターが静かに動いて、日付入りの書類が一枚出てきた。購入日、二月十四日。購入者、沢渡貴文。品名、金額。受け取って、折り目がつかないようにクリアファイルへ入れる。
婚約指輪と、もうひとつの指輪。同じ日、同じ店、違う号数。
算数としては、小学生の宿題より易しい。
店を出たところでスマートフォンが震えた。貴文だった。
《ごめんね、今日は急な接待が入っちゃった。埋め合わせは絶対するから、楽しみにしててね》
うさぎが頭を下げるスタンプが続く。
《お仕事お疲れさま。気をつけてね》
返信してから、受信時刻を手帳に書き写した。土曜日の接待。取引先というのは、暦を読まない生き物らしい。
葵の部屋は相変わらずで、壁際に雑誌の塔が三つ建っていた。ローテーブルには麦茶がふたつと、開きっぱなしのノートパソコン。
「見つけたよ、例のやつ」
葵が画面をこちらへ回す。公開設定のままの、梨花さんのアカウント。三月の連休の投稿だった。露天風呂の縁の写真。旅館の夕食。湯上がりらしい自撮りには、鎖骨の下で細いピンクゴールドが光っていて、頬に添えた右手の指にも同じ色があった。
《いつも頑張ってる自分に……じゃなくて、もらっちゃいました♡》
「この連休って」
「うん」
私は手帳を繰った。三月二十日から二十二日、貴文は大阪出張。《新幹線乗った。着いたら連絡するね》という受信まで記録してある。投稿に付いた位置情報は、箱根だった。
大阪と箱根。乗り物は同じ新幹線でも、向きが逆だ。
「スクショ保存した。投稿の日付とURLも控えてある」と葵が言った。「消される前にと思って」
「ありがとう。公開されているものを保存しただけだから、これは誰に見せても平気」
葵がローテーブルに身を乗り出した。
「ねえ千夏。あのさ、うちの短大の同期に、カード会社に勤めてる子がいるんだよね。頼めば、貴文の利用明細くらい——」
「駄目」
自分でも少し驚くほど、まっすぐな声が出た。
「その子は仕事を失う。下手をすれば私たちも罪に問われる。そうやって手に入れた紙は、どこにも出せない。出した瞬間に、悪者がこっちになる」
「でも、一番確実じゃん」
「一番確実に、全部を台無しにする近道」
麦茶を一口飲んで、続けた。
「明細が要るなら、弁護士さんに頼んで正式な手続きで照会してもらう。時間はかかるけど、そうやって取った紙は、誰の前に出しても通る。私が欲しいのは、胸がすく一瞬じゃなくて、通る紙」
葵はしばらく口を尖らせていたが、やがて息を吐いた。
「……千夏、いま完全に経理の顔してた」
「褒め言葉として受け取っておく」
ふたりで、紙を並べた。
指輪の購入証明。二月十四日、購入者・沢渡貴文、一点。同じ日にもう一点あったことは、店員さんの口が教えてくれた。箱根の投稿の印刷、日付とURL付き。葵が撮ってくれた駅前の写真。私の手帳の写し——恵比寿のタクシー領収書の件から、「サワタリタカフミ」名義の入金の件まで、日付と文言だけで並んだ細かい字。
角を揃えて重ねると、月末の帳簿を締めるときと同じ厚みの音がした。
ふいに、指が止まった。
この束を出せば、式は消える。沢渡の家との縁も、四年ぶんの「おはよう」も、指輪のサイズを測ったあの日の私も、まとめて消える。
テーブルの向かいに、一周目の私が座っている気がした。波風を立てなければ、みんな笑っていられるのに——と言いたげな顔で。
その波風の立たない海の底で、あなたは死んだのよ。
病室の天井。ドアの向こうの笑い声。三千万、と数える声。
紙の角を、もう一度揃えた。今度は、指は止まらなかった。
「千夏?」
「ん。ホチキス借りていい?」
帰り支度をしていると、スマートフォンが鳴った。画面には「おばあちゃん」。
「千夏かい。判子はまだ押してないよ」
挨拶より先にそれを言うのが、うちの祖母だ。膝の上で、指先がすっと冷えた。
「……誰か来たの」
「郁恵さんがね。あんたを通さないで、直接うちに」
祖母の声は落ち着いていた。落ち着いているぶん、一語一語がはっきり聞こえた。
「『式の費用が足りなくて……あの土地を担保に、ほんの少しだけ』——だってさ。ご丁寧に、書類まで持ってきてたよ。今日のところはお引き取り願ったけどね」
「判子は」
「押してないって言ってるだろ。約束だからね」
「ありがとう。明日の朝一番に行く。その書類、そのまま置いておいて。名前も日付も、触らないでそのままに」
「あいよ。……千夏。あんた、声が仕事のときの声だね」
「うん。いま、お仕事中なの」
電話を切って、葵の部屋の真ん中で、一度だけ深く息を吸った。
式の費用。担保。ほんの少し。
手帳を開いて、今日の日付と、祖母が繰り返してくれた言葉を、一言一句そのまま書き取る。
迷う仕事なら、さっき済ませてある。
ページはまだ、半分以上残っていた。




