第7話 二周目の職場は空気が美味しい
新しい職場の朝は、静かだ。私は始業より二十分早く経理の席について、電卓の位置を直した。誰かに言われたからではない。帳簿は静かな時間にしか本当の顔を見せない。
二周目の職場は空気が美味しい。換気の問題ではなくて、たぶん、私の名前を呼ぶ声に値踏みが混ざっていないせいだ。
とはいえ、どこの会社にも給湯室はある。
「婚約中なのに転職って、普通する?」
「式ももうすぐなんでしょ。逆に謎じゃない?」
「訳ありだよ、絶対」
湯呑みを持ったまま入るタイミングを失った私は、三秒待って、普通の顔で入った。
「おはようございます」
会話は天気の話に変わった。訳あり、という評価は正しい。訳の中身が、想像と違うだけで。
席に戻ると、国見奏がファイルの束を抱えて立っていた。
「早瀬さん、頼みたい仕事があります」
おはようございますより先に仕事の話。悪くない挨拶だと思う。
「売掛金の消し込みです。去年の分から合わないものが溜まっていて、入金と請求書の紐づけが担当任せになっている。理由をつけて放置されているものを、全部割ってほしいんです」
「拝見します」
束は厚かった。厚い束は嫌いじゃない。厚みの分だけ、誰かが目をつぶってきた歴史が挟まっているからだ。
午前中で、半分を消した。二重請求が一件、値引の処理漏れが三件、入金日のずれを「不明」で済ませていたものが山ほど。付箋を色分けして、理由と証憑の場所を書き添えていく。前の会社で、誰にも頼まれずに身につけた癖だ。あの会社では癖のまま終わった。ここでは仕事になる。
昼前に途中経過を渡すと、国見は付箋を一枚ずつめくって、顔を上げた。
「半日でここまで割れるとは思っていませんでした。前の会社は、あなたに何をさせていたんですか」
「主に、お茶汲みの合間に決算を」
国見は笑わずに、次の束を私の机に置いた。
「では、こちらは安心してお願いします」
その置き方が丁寧だった。書類を渡すときの角度で、相手をどう扱っているかは分かる。胸の奥が少しだけ軽くなって、私はそれ以上その感じを追いかけないことにした。まだ束が残っている。
昼休み、非常階段で弁当を開いたところで電話が鳴った。貴文。
「千夏ちゃん、新しい会社どう? 無理してない?」
甘すぎる標準語で、心配を装った抑揚だった。
「おかげさまで。お昼もちゃんと食べてます」
「よかった。……あのさ、母さんがね、ちょっと言ってて。結婚前の大事な時期に、嫁の分際で勝手に転職なんて、って。俺は千夏ちゃんの味方だけど、ほら、母さん、ああいう人だから」
味方という言葉の使い方が独特な人だ。弾除けを自分の前に立たせることを、味方と呼ぶ。
「お義母さまには、お会いしたときにきちんとご説明しますね」
「うん、それでさ、式の費用のことなんだけど。日取りが早まったから、まとまったお金の目処は早めにつけたほうがいいと思うんだ。千夏ちゃん、管理得意でしょ? 一回まとめて千夏ちゃんの口座に……」
「費用は各自負担で見積もり直しましたよね。私の分は、私が期日までに払います」
三秒の沈黙。
「……なんで、そういう言い方するの」
語尾だけが、わずかに短い。
「事務的なだけです。仕事柄、慣れているので」
「もういい。切るね」
切れた。私は箸を持ち直す前に、手帳の記録へ日付と文言を足した。「まとまったお金」「一回まとめて」。
定時前、消し込みの最後の束に、行き場のない入金が一件だけ残った。
どの請求書とも合わない。取引先の会社名義でもない。振込人の欄に、カタカナの個人名。
サワタリタカフミ。
指が止まった。
偶然の同姓同名——と、三秒だけ考えてみた。相手先は、私の前の会社だった。注文の担当者欄の名前も、同じだった。
過去の入金一覧を、月を遡ってめくる。同じカタカナが、間隔を空けて何度か現れる。どれも端数のような小さな入金で、そのたびに、前の会社宛ての請求の不足分がちょうど埋まっていた。会社と会社のお金の間に、個人の財布が挟まっている。
埋めるそばから、また同じカタカナが出てくる。埋めても埋めても、足りていない。
窓の外はまだ明るかった。
この人、結婚を待ってる場合じゃないくらい、お金がないんだ。
日取りを急に前へ動かしたこと。式場で私の名義に付け替えられていた申込書。今日の「一回まとめて」。ばらばらに控えてきた数字が、一つの帳尻に向かって静かに並んでいく。
私は入金の一覧を日付順に写して、手帳の新しいページに挟んだ。これまでのページは、身を守るための記録。ここから先のページは、たぶん、使い方が違う。
「早瀬さん、残りは明日で大丈夫ですよ」
帰り支度の国見が声をかけてきた。
「はい。一件だけ、名義を確認したいものがあったので」
「名義?」
「入金の。……こういうの、放っておけない性分なんです」
「その性分にお給料を払っています」
国見は軽く頭を下げて出て行った。対等な礼だった。私はそれを、少しだけ気に入っている。
帳簿を閉じる。二周目の職場の空気は、夕方でもまだ美味しかった。




