第6話 人生を、転職します
国見さんの会社の会議室は、うちの応接室より狭くて、そのぶん窓が大きい。月次の支払照合の控えを渡し終えると、国見さんはファイルを閉じて、座り直した。
「ここからは業務外の話です。御社にではなく、早瀬さん個人に」
お茶に伸ばしかけた手を、膝に戻した。
「うちの経理に来ていただけませんか。主任待遇、給与は今より下げません。時期はご都合に合わせます」
窓の外で、貨物のトラックがゆっくり切り返していた。
「先月の相殺の食い違い、覚えていますか。うちの担当が三日かけて見つけられなかった数字を、早瀬さんは伝票番号ひとつで言い当てた。あれは偶然じゃなく、手順です。手順を持っている人を、うちはずっと探しています」
「……買いかぶりです」
「損得の話をしています。うちが得をするから声をかけている。恩に着る必要はないし、断っても何も変わりません。決めるのは早瀬さんです」
一周目にも、この誘いはあった。ただし、もっと後——式が終わって、姓が変わった頃だ。あのときは「家族に相談します」と持ち帰り、翌週には郁恵さんまで話に加わって、いつの間にか断ったことになっていた。断った本人は、たしか私ということになっていた。
順序が、また早まっている。
「一週間、考えさせてください」
「どうぞ。急かしません」
国見さんは名刺の裏に直通の番号を書き足して、寄越した。それだけだった。エレベーターまでの見送りも、いつも通りの角度のお辞儀だけだった。
水曜の夜、貴文がアパートに来た。手土産のプリンを冷蔵庫に入れる背中へ、私は先に言った。
「国見さんの会社から、うちに来ないかってお誘いをいただいたの。まだ返事はしていないけど」
背中が一拍止まって、それから振り向いた顔は、いつもの柔らかさのままだった。
「へえ、すごいじゃん。千夏、真面目だから買われるんだよ」
褒め言葉が先に来るのは知っていた。一周目と同じ順番だ。
「でもさ」
二秒で来た。
「今って一番大事な時期だろ。式もあるし、新しい職場でストレス溜めたら体に障るよ。俺、心配だな」
「共働きは続けるつもりだよ」
「うん、働くのはいいんだよ。ただ、今の会社なら勝手が分かってて安心じゃん。結婚するのに転職なんて、普通しないって」
「お母さんにも聞いてみようよ。ほら」
止める間もなく、スマホがスピーカーに切り替わった。呼出中の画面に、貴文が今送った『母さん。千夏が転職の誘いを受けた』という一文が見えた。三コール目で郁恵さんが出た。
「千夏さん? 貴文から聞きましたよ。あなたのためを思って言うのだけれど、式を控えたお嬢さんが職場を変わるなんて、先方様に聞こえがよくないわ。親戚筋に何て説明したらいいの」
「まだお受けするともお断りするとも、申し上げていないんです」
「お給料のことなら心配いらないのよ。家計はこれから、家族で一緒に見ていくんですもの。ねえ、貴文?」
「そうだよ。千夏が無理する必要、ないんだって」
二人の声が、狭い部屋の中で重なった。私は「ご心配ありがとうございます」とだけ言って、湯呑みの位置を直した。通話が切れたあと、貴文は機嫌よくプリンを食べた。私はノートに、日付と時刻と、「家計は家族で一緒に見ていく」という文言を書き足した。
その夜、一人になってから、ノートの新しいページに線を一本引いた。左の列に「消えるもの」、右の列に「残るもの」。
消えるもの。課長の異動の時期。査定の癖。来期のシステム入れ替えで経理課が混乱する日。——全部、今の会社の中でしか使えない先回りだ。移った先では、誰の機嫌も、どの棚の鍵も、初日から全部初見になる。台本のない舞台に、自分から上がりに行くことになる。
ペンが止まったのは、そこまでだった。
右の列を書き始める。沢渡家の手口。領収書の束と、ノート三冊。祖母との電話の約束。それから——照合の腕。国見さんが買ったのは私の記憶ではなくて、手順だ。手順は、会社を移っても消えない。
左の列は、あの親子の視界の中でだけ役に立つ地図だった。右の列は、どこへ持って行っても私のものだ。
書き終えて、読み返して、少し笑ってしまった。貸借が、こんなに分かりやすく合う日も珍しい。
翌日の昼休み、非常階段から国見さんの直通に電話をかけた。
「お受けします」
「ありがとうございます。理由は伺いませんが」
「行きたいので」
電話の向こうで、短く笑う気配がした。
「一番いい理由です」
言い切ったあとの静けさが、まだ残っていた。
午後、課長に退職願を出した。課長は封筒と私の顔を三回見比べて、「国見さんのとこか」と言った。「うちより数字にうるさいぞ」。それは褒め言葉として受け取っておいた。
土曜の昼、アパートに来た貴文に、順番どおりに伝えた。
「今の会社に退職願を出しました。来月末で退職して、国見さんの会社に移ります」
彼は、買ってきた紙袋を提げたまま、動かなかった。
「……は?」
笑顔が消えた、のではなかった。順番に外れていった。目元の柔らかさ、口角、最後に眉。全部外れたあとに残ったのは、平らな、温度のない顔だった。一周目の病室で聞いたのは声だけだった。顔は、初めて見た。
「聞いてない」
「今、お伝えしています」
「普通、相談するだろ。結婚すんだよ、俺たち」
「相談はしました。水曜に。お母様も交えて」
「あれは——」言葉が短くなっていく。「あれは、やめとけって話になっただろ」
「なった、とは私は言っていません」
貴文は紙袋を床に置いた。置く、というより、手から離した。拾い上げたときの顔には、笑顔が貼り直されていた。ただ、貼る位置が少しずれていた。
「……ごめん、驚いただけ。そっか。もう出しちゃったんだ」
「はい」
「分かった。……うん。お母さんには俺から言っとくよ」
彼は手土産——今日はゼリーだった——を冷蔵庫に入れず、袋ごとテーブルに置いて、三十分で帰った。ドアが閉まる直前にこちらを見た目は、貼り直した笑顔から外れたままだった。
夜の十時過ぎ、メッセージが届いた。
『式場さんから連絡もらった! 日程、前倒しで正式に確定したから。楽しみだね』
続けて、日付がひとつ。
カレンダーを開いて、印をつけた。元の式の日までの残りを指で数え、それから新しい日までを数え直す。ちょうど、半分だった。
ノートの最後のページに、二つの日付を並べて書いた。退職日と、式の日。片方は私が選んだ日付で、もう片方は選ばされた日付だ。並べてしまえば、どちらも、ただの数字が二つ。
数字の扱いなら、こちらの本職だ。




