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第5話 その名義、私じゃありません

打ち合わせ室のドアが閉まると、生花の匂いが濃くなった。白いテーブルの向こうで、担当のプランナーが書類を三枚、扇のかたちに並べる。指先が最後の一枚を、わずかに私のほうへ押した。


「本日ご署名をいただけましたら、お日取りが正式確保となります」


隣の椅子で、貴文が私の肩に手を置いた。


「ついにだね。千夏、緊張してる?」


「少しだけ」


微笑んで、私は書類を手前に引いた。数字より先に、名前の欄を見る。経理を十年やった手の癖だ。


見積書。申込書。それから、提携ローンのご案内という薄い紙。


申込書の支払名義の欄に、印字があった。早瀬千夏様。ローンの案内の申込人欄にも、鉛筆の薄い字で同じ名前が下書きされている。丸くて右上がりの、見覚えのある字だった。


一周目の私は、この欄を見なかった。日取りとドレスの頁だけ見て、言われた場所に署名して、笑って写真まで撮った。


「あの」と私はプランナーに顔を上げた。「お支払いの名義、前回のお打ち合わせでは沢渡になっていたと思うのですが」


「え、あ……ご変更のお申し出をいただいておりまして」


プランナーの目が、ちらりと貴文へ動いた。


「あぁ、それ、言ってなかったっけ」貴文の声は砂糖を足したように甘くなった。「俺の口座さ、いま会社の積立の関係でちょっと動かしにくいんだ。だから式のぶんは一回千夏の名前で通しておいて、終わったらまとめて精算しようと思って。そのほうが手続きも一本で楽だしね」


「精算のお約束は、書面にしていただけますか」


「……ちなっちゃん」


甘い声のまま、音量だけが下がった。


「そういうの、可愛くないよ。お金の話ばっかりする花嫁って」


一周目の私は、ここで謝った。ごめんね、疑ってるわけじゃないの、と。


今回の私は、見積書の角を揃えただけだった。


「一つだけ確認させてください」私はプランナーへ向き直った。「この申込書は、名義人本人の署名がなければ成立しませんね?」


「は、はい。ご本人様のご署名をいただけませんと、お手続きは」


「ありがとうございます」


卓上のペンを取り、キャップを確かめてから、書類の上にそっと戻した。


「その名義、私じゃありませんので」


部屋が三秒ほど静かになった。空調の音だけが続いた。


「ご提案があります」と私は続けた。「お式の費用は、二人がそれぞれの負担分を、それぞれの名義でお支払いする形に変えてください。ローンは組みません。手元の貯金で足りる内容まで、お見積もりを組み直していただけますか。……こちら、私が負担できる金額と項目を書き出したものです」


鞄から出したメモを、プランナーの前に置く。ゆうべ、電卓を二度叩いて作った一枚だ。


「まあ……とても、整理されていらっしゃいますね」


プランナーの声に、初めて仕事の張りが戻った。夢を売る顔から数字を扱う人の顔になって、彼女は私のメモとプランの頁を並べ始めた。会話は私と彼女のあいだで進んだ。装花のランクを一つ下げる。料理は落とさない。引出物は品数より質。ええ、ええ、と頷き合う声の外側に、貴文だけが残った。


「……なんだよ、それ」


低い声がした。見ると、貴文は腕を組んで、パンフレットの端を親指で折り曲げていた。


「千夏、変わったね」


「そうでしょうか。仕事では、前からずっとこうですよ」


「俺、そういうつもりで言ったんじゃないし。楽にしてあげようと思っただけだし」


文がだんだん短くなる。だし、で終わる話し方は、機嫌を損ねた時の癖だ。一周目は、この「だし」が出るたびに私が折れた。


貴文は湯呑みに手を伸ばしかけて、やめた。代わりに膝の上で指を組み、解き、また組んだ。私と目が合いそうになると、視線は先に書類へ逃げた。怒っている、というのとは少し違うように見えた。強いて言えば、暗い場所で足元を確かめる時の目に似ていた。たぶん、初めて私の値札が読めなくなったのだと思う。


「じゃあさ」


不意に、貴文が身を乗り出した。


「式、早めようよ」


「……早める?」


「そう。三ヶ月後じゃなくて、もっと早く。ほら、日程って空きが出ることあるでしょ。地味な日でいいからさ。千夏のおばあちゃんだって、元気なうちに見たいだろうし」


プランナーが手を止めて、私たちを交互に見た。


一周目、式の日取りは一度も動かなかった。これは、知らない手だ。


「空き状況の確認だけ、お願いできますか」私はプランナーに言った。「確認だけ、です。お返事は、名義の件が整ってからにさせてください」


「かしこまりました」


貴文はそれ以上ペンの話をしなかった。帰り支度のあいだ、彼はずっと携帯を見ていて、画面をこちらに伏せて持った。


エントランスの自動ドアを出ると、八月の夕方の熱がまとわりついた。駅までの並木道に入ったところで、前から来た女が足を止めた。


「あれ? 沢渡先輩?」


語尾がやわらかく伸びた。白いワンピースに、歩き慣れていない高さのヒール。


「やだ、偶然。……あ、もしかして、式場の帰りですか? すごーい、大人って感じ」


「……桐生。なんで、ここ」


貴文の声から甘さが抜けて、短くなった。


「私はお稽古の帰りですぅ。この先にお料理教室があって。……初めまして。先輩と同じ課の、桐生梨花っていいます」


女は私に体ごと向き直って、丁寧に頭を下げた。つむじまで愛想のいいお辞儀だった。


その声を、私は知っていた。最後の夜、白いカーテンの向こうで数字を数えて笑っていた声より、いくらか高い。若さの分だけ。


「早瀬千夏です。沢渡がいつもお世話になっております」


「えー、こちらこそですよぉ。先輩の彼氏さんって、ほんと優しいですよね。私、何度も送ってもらっちゃって」


梨花はそう言って、口元を両手で押さえた。


「あっ、やだ、車の話です? 方向が一緒なだけなんですけど。……婚約者さん、思ってたより、その……ふふ、落ち着いた方なんですね。私、勝手にもっと派手な人かと思ってました。先輩、面食いだから」


「桐生、俺たち急ぐから」


「はぁい。お式、楽しみにしてますね。呼ばれるか分かんないですけどぉ」


ヒールの音が遠ざかっていく。貴文は駅までの十分間、暑いね、しか言わなかった。


帰りの電車で、私は鞄からノートを出した。今日の日付。式場名。支払名義の件と、式を早めたいという発言。それから、一行足す。


並木道にて。同僚・桐生梨花。「何度も送ってもらっちゃって」。


向こうから差し出してくれるものを、断る理由はない。私はノートを閉じて、窓の外の夕焼けに目の焦点を合わせた。二度目の夏は、まだ始まったばかりだった。

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