第4話 親友を、今度は手放さない
給湯室の前で貴文に呼び止められたのは、昼休みだった。
「千夏、ちょっとだけいい?」
砂糖を煮詰めたような声。一周目の私はこの声を「優しい」と訳していた。いまは成分表示が読める。
「週末、葵さんと会うんだって?」
「ええ。久しぶりなので」
「そっか。……あのさ、怒らないで聞いてほしいんだけど」貴文は眉を下げて、心配そうな顔の型に自分をはめた。「葵さんって、千夏にちょっと悪い影響がある友達だと思うんだ。ほら、彼女、はっきりものを言う人でしょ。千夏、会うたびに影響されてる気がしてさ。俺は千夏に、結婚前に余計なことで揺れてほしくないんだよね」
一言一句、とまでは言わない。でも骨格は同じだった。悪い影響。余計なこと。俺は心配してる。一周目の私はこの三点セットを受け取って、少しずつ葵への返信を遅らせるようになった。式の頃には、招待客の名簿から彼女の名前を消すことにさえ、ほっとしていた。
「心配してくれてありがとう」私は微笑んだ。「でも約束しちゃったから。手土産、何がいいと思う?」
「……え? いや、だから」
「貴文さんの好きな最中のお店、葵にも買っていこうかな」
話の座標を菓子折りへずらすと、貴文は二秒ほど黙った。思い通りに進まないとき、この人は文が短くなる。
「……別に。好きにすれば」
「うん、そうする」
好きにすれば、を録音できなかったのは残念だけれど、文言はその日のうちにノートへ書いた。昼休み、給湯室前。葵さんは悪い影響がある友達。余計なことで揺れてほしくない。事実は並べておくと、あとで必ず利子がつく。
翌日の午後、営業部から内線が来た。国見物産との定例で支払条件の話が出るから、経理から一人同席してほしい、と。
商談室のドアを開けて、一瞬、足が止まりそうになった。
「お久しぶりです。国見です」
国見奏さん。取引先の二代目。一周目の記憶の中で、この人の名前には他と違う色がついている。請求書の締め処理で私が拾った転記の食い違いを、この人だけが「助かりました」ではなく「早瀬さんが照合の手順を変えたからですよね」と言った。誰が、何を、どうやったか。その順番で話す人を、私はほかに知らなかった。
「経理の早瀬です。本日は同席させていただきます」
「早瀬さん、ちょうどよかった。三月分の相殺の件、御社側の処理が早くて助かりました。あれは早瀬さんの起票ですか」
「はい。月末に寄せると御社の資金繰りに響くと伺っていたので、前倒しで」
「そうしてもらえると、うちは月内の見通しが立つ。ありがとうございます」
事実。判断。それから短い礼。飾りがひとつもない分、まっすぐ入ってくる。背筋が勝手に伸びた。この感じを、私は長いこと忘れていた。一周目、家の中では「気が利かない」のひと括りで済まされた私の仕事が、ここでは伝票一枚の単位で見えている。
商談が終わって席を立つとき、国見さんは言った。
「早瀬さんの数字は、突き合わせていて疲れないんです。また何かあれば、直接ご連絡しても?」
「はい。経理宛にいただければ」
「経理宛に、ですね」彼は少しだけ笑って、訂正をそのまま受け取った。
廊下に出てから、自分の歩幅がいつもより広いことに気づいた。単純なものだ、と思う。正しく数えてもらえただけで、人は廊下を速く歩く。
土曜の午後、駅ビル二階のカフェは混んでいた。葵は窓際の席で先に待っていて、私を見つけると片手を上げた。大学からの付き合いで、この人の手の上げ方だけで機嫌はだいたい分かる。今日は、低めだった。
「痩せた?」開口一番、葵は言った。
「そう? 変わらないと思うけど」
「ふうん」
最中の箱を渡し、近況をいくつか交換した。葵は化粧品会社の販促にいて、話が早く、遠慮の使いどころを間違えない。一周目、私はこの人を手放した。手放したという自覚さえ、最後までなかった。目の前でアイスティーのガムシロップを几帳面に半分だけ注ぐ横顔を見ていると、喉の奥が重くなる。ごめん、の中身を言えないままのごめんは、ただの重りだ。
「あのね、葵。折り入って頼みがあるの」
「うん」
「貴文さんのこと、結婚の前に、ちゃんと確かめておきたい。会社の外でどんな人なのか、私からは見えない角度があるから。……変なお願いだって分かってる。でも、証人になってほしいの。私が何か見落としていないか、隣で見ていてほしい」
理由は言えない。言えない理由があること自体を、この人はたぶんもう嗅ぎ取っている。外側だけ見れば、私の頼みは結婚前に不安になった友達の付き添いだ。その不釣り合いを、葵に背負わせようとしている。
葵はストローを置いた。長い付き合いで初めて見る種類の間だった。
「千夏さ」
「うん」
「あんた、昔から頼みごとの前に手土産の袋をこっちへ寄せる癖があるよね。今日、最中を私の側に置いたの、席についてすぐだった」
「……そうだった?」
「そうだった」葵は鞄から、スマホではなく、写真のプリントを一枚出した。機械で刷った、角の白い、小さいやつ。「証人って言うならさ、先にこっちの証拠物件、片付けていい?」
テーブルの上を、写真がすっと滑ってくる。
「ねえ千夏。あんたの婚約者、昨日駅前で後輩ちゃんと腕組んでたけど——これ、聞いていい話?」




