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第3話 権利証は渡さない

土曜の朝、私は水ようかんの箱を提げて祖母の家の木戸を押した。乾いた木の音に、縁側の茶トラが顔を上げる。こはくは私を認めると、板の間にごろりと転がって腹を見せた。安売りのしすぎだと思うけれど、この信用は悪くない。


祖母は縁側で、ざるいっぱいの隠元の筋を取っていた。

「あら、千夏。式の支度で忙しいんじゃないの」

「忙しいから来たの。甘いものは経費で落ちないし」

訳の分からないことを、と祖母は笑って、それでも手は止めない。筋を取る指は八十を過ぎても迷いがなかった。


茶を淹れて、世間話を三つ挟んでから、私は本題を回覧板の形で持ち出した。会社の総務から回ってきた注意書き。独り暮らしの年寄りを狙って、大事な書類や判子を「お預かりします」と持ち出す手口が増えているという話。半分は事実で、半分は口実だった。


「うちみたいな古家と、アパート一棟だよ。誰が欲しがるの」

「欲しがる人は、古いかどうかじゃなくて、名義と場所を見るの」

「経理さんは言うことが違うね」

「十年もやると、疑うのが給料のうちになるの」


祖母は湯呑みを置いて、少しの間、私の顔を見た。皺の奥の目は、笑ったままなのに測るような色をしていた。

「あんた、なんだか顔つきが変わったね。憑き物が落ちたみたいだ」

「落としたの。重かったから」

本当の理由は言えない。言えば心配されるのは私のほうで、疑われるのは私の正気だ。だから私は回覧板を盾にして、一番大事な一つだけを頼んだ。

「権利証とか実印とか、誰かが預かるって言っても——たとえ身内でも、渡す前に私に電話して。判子を押す前に、一本だけ」

「身内でも?」

「身内でも」

祖母はしばらく隠元の筋を取っていた。それから、ぷつ、と一本ちぎって言った。

「わかった。判子は貸さない。押す前に、あんたに電話する」

「道具は使う者の手元に置くもんだって、うちの人の口癖でね。証文も道具のうちだろ」

こはくが私の膝に顎を乗せた。同盟成立、ということにしておく。


十日後、結婚の報告を兼ねた集まりが祖母の家であった。母方の伯母夫婦が座敷に膳を並べ、そこへ郁恵さんが「ぜひ、おばあさまにご挨拶を」と加わった。貴文は仕事だと言った。都合のいいことに、と私は思い、口には出さなかった。


郁恵さんは玄関に立つなり、家より先に庭を見た。それから塀の向こうの二階屋根を扇子の先で指した。

「あちらのアパートも、おばあさまの?」

「ええ、まあ」と伯母が答える。

廊下を進みながら、郁恵さんの視線は仏間の前を素通りして、庭の広さをなぞっていった。

「こちらのお宅、登記は亡くなられたおじいさまのお名前のままですの? ご面倒がおありでしょうに」

「さあねえ。古いことだから」

祖母はそう言って、ゆっくりお茶の支度に立った。とぼけた声だった。


線香は、伯母が「どうぞお仏壇に」と促してからだった。郁恵さんは形のいいお辞儀をして、鈴をひとつ鳴らした。長さでいえば、庭を眺めていた時間の十分の一もなかった。数えてしまうのは職業病だと思う。


膳が進んで、座が温まった頃、郁恵さんは湯呑みを置いて姿勢を直した。

「あのね、千夏さん。あなたのためを思って申し上げるのだけれど」

来た、と思う。この前置きは請求書の頭に付く社判みたいなもので、続く中身はだいたい支払いの話だ。

「先日の顔合わせでも申し上げた、大事なお書類のこと。おばあさまはお独り暮らしでしょう。物騒な世の中ですもの、権利証だの実印だの、こちらに置いておくのは心配で心配で。うちには立派な金庫がございますし、もう身内も同然なんですから、私どもでお預かりしますわ。ねえ、おばあさま、そのほうがご安心でしょう?」


私は湯呑みを、音を立てずに置いた。

「お心遣い、ありがとうございます」

「ただ、その件はもう済んでいるんです。先日、祖母と相談して決めました。大事な書類は名義の本人の手元に置く。心配なら、祖母の名義で銀行の貸金庫を借りて、手続きには私が付き添う。——書類とお金は、名義のとおりにしておくのが一番揉めないんです。仕事柄、揉めたあとの帳簿を山ほど見てきましたので」

「まあ……」郁恵さんの扇子が、膝の上で止まった。「私、まるで疑われているみたいだわ。悲しい。私はただ、あなたがたのためを思って」

袖口が目元へ上がる。座敷の視線が私に集まって、失礼だと責めかける気配が座敷に満ちかけた、そのときだった。

「千夏の言うとおりでね」

祖母だった。急須を持ったまま、声だけが短くなっていた。

「証文と道具は、使う者の手元。うちはずっと、それでやってきたの」

それから急須を傾けて、郁恵さんの湯呑みに新しい茶を注いだ。

「お気持ちだけ、頂戴しておきますよ。熱いうちにどうぞ」

郁恵さんは袖口を下ろした。下ろしたあとの目元は、泣いた人のそれには見えなかった。彼女は注がれた茶を一口含み、それから初めて、値踏みをやり直すような目でまっすぐ私を見た——ように見えた。

「……千夏さんは、しっかりしていらっしゃるのね」

「恐れ入ります。経理ですから」

「ふふ。頼もしいこと」

声は柔らかいままだった。ただ、その日はもう、書類の話は一度も出なかった。話題は式場の花の色に移り、郁恵さんは終始にこやかで、帰り際の玄関で、廊下の陰のこはくに「猫ちゃん、またね」と手を振った。こはくは柱の陰から出なかった。尾の先だけが、二度、床を打った。


客が帰って、膳を片付けて、私は帰り道につく前のひと休みを縁側でもらった。夕方の風は、もう秋の匂いがした。膝に乗ってきたこはくが、丸くなって喉を鳴らし始める。祖母は急須の茶殻を替えながら、庭のほうを向いたままだった。

「あの姑さん、うちの人の仏壇より先に登記簿を見たよ」

ぽつりと、それだけだった。

私は膝の上の温みに手を置いた。

「……次に来るときは、お線香が先になるようにしておく」

「そうしておくれ」

こはくが、返事の代わりみたいに、ひときわ長く喉を鳴らした。

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