第2話 知らないふりの始め方
朝の経理部は、電卓の音と、ホチキスの針を送る音でできている。
私は精算書の束を揃え、いちばん上の一枚に日付印を捺した。手の動きは一周目と同じ。変わったのは、頭の中で回している帳簿が一冊増えたことだけだ。
記憶と現実の突き合わせは、毎朝続けている。今のところ、成績は微妙だった。給湯室の電気ポットが壊れたのは、記憶より四日早かった。総務の防災訓練の回覧は、逆に一週間遅れて回ってきた。部長の異動の内示は、まだ出ない。大筋は合っているのに、順番が入れ替わる。私の記憶は議事録ではなく、せいぜい酔った人の思い出話くらいの精度らしい。
笑って済む誤差ばかりでもない。順番が違うということは、あの病室で聞いた算段も、同じ順番では来ないかもしれないということだ。そして今の私の手元には、記憶のほかに何もない。まだ起きていないことは、証拠にならない。経理の言い方をするなら、私はまだ一行も仕訳を切っていない。
締め日の午後、営業部の精算書がまとまって落ちてくる。沢渡貴文の名前は、束の真ん中あたりにあった。婚約者の伝票を人一倍ていねいに確認するのは、公私混同ではなく、その反対だ。思えば一周目の私は、彼の伝票だけ確認を甘くしていた。
接待交際費。先々週の金曜、恵比寿のレストラン、二名。摘要は「取引先会食(丸栄物産)」。
丸栄物産との取引は、五月で終わっている。最後の入金を消し込んだのは私だ。
それから、先々週の金曜。私の手帳には「映画→中止」とある。ごめん、急な接待が入っちゃって——あの夜の彼のメッセージは、嘘ではなかったことになる。接待した相手が取引先だったかどうかは、別として。
店の名前にも見覚えがあった。過去分の綴りを棚から下ろして繰る。去年の十二月、同じ店、同じ二名様。私たちが婚約するより前の日付だった。伝票はいい。感想を言わないし、消えもしない。
夕方、桐生梨花がカウンターに来た。
「千夏さぁん、これお願いしますぅ。タクシー代」
領収書の日付は、同じ先々週の金曜。乗車は二十三時過ぎ、恵比寿から。会社の最寄りは恵比寿ではない。
「但し書きが空欄ですね。書いてもらえますか」
「はぁい。えっと、残業のため、っと」丸い字だった。ペンを置いて、彼女は私の左手の指輪にちらりと目を落とした。「千夏さんって、ほんと細かいとこまで見てくれるから安心ですよね。私、数字ぜんぜんダメで。……結婚してもお仕事続けるんですか? 偉いなあ。私だったら、ぜーったい養ってもらっちゃうのに」
「性分なので」と私は受領印を捺した。「お疲れさまでした」
彼女の書いた「残業のため」の丸い字を、私はもう一度だけ見た。
帰り道、文具店で大学ノートを一冊買った。表紙には何も書かない。最初のページに、日付と店名と、あの夜彼が私に送ってきた言葉だけを書く。感想は書かない。感想は証拠にならない。
夜、貴文からメッセージが来た。土曜の顔合わせの念押しと、それから——「式場、秋にキャンセル出たんだって。前倒しできたらよくない? 俺、もう待ちきれなくてさ」。
一周目、前倒しの話が出たのは、招待状の準備を始めた頃だった。また順番が違う。しかも、いつも早い方へずれる。
「相談しようね」とだけ返して、私はノートに二行目を書いた。
土曜。沢渡家の玄関で、郁恵さんは両手を広げるようにして私を迎えた。
「いらっしゃい、千夏さん。ああ、手土産なんて。そんな他人行儀にしなくていいのよ、もう家族みたいなものなんだから」
「みたいなもの」の使い方が、この人は上手い。
食卓には筑前煮と炊き込みご飯と、私の好物だと貴文が申告したらしい茶碗蒸しが並んだ。味は、覚えているとおりだった。
「な、母さんの筑前煮うまいだろ。千夏も今度習いなよ。俺、これで育ったから」
「ぜひ」と私は笑った。
「千夏さん、ビールはやめておきましょうね」郁恵さんが瓶を自分の側へ寄せた。「式の前はお肌に出るから。あなたのためを思って言うのよ」
「お気遣いありがとうございます」
湯呑みが替わり、食後のお茶になった。郁恵さんは急須を置いて、思い出したように首を傾げた。
「そういえば、おばあさまはお元気? 千夏さんのこと、それはかわいがっていらしたんでしょう。ご実家の、ほら、あの土地で畑もなさって」
「ええ、おかげさまで」
「そう、よかった」郁恵さんは微笑んだ。「千夏さん、おばあさまの土地の権利証、式の準備もあるし私が預かっておきましょうか。大事なものだから、若い方の手元より、うちの金庫のほうが安心でしょう」
湯呑みを包んだ手の中で、お茶の面が少しだけ揺れた。私は三秒、茶柱を探すふりをした。
「まあ、ありがとうございます。ただ、権利証は祖母が箪笥から出したがらないんです。名義も祖母のままですし——式が済んでから、祖母も交えてご相談させてください」
「あら。私はただ、あなたのためを思って言ったのよ?」
「ええ。お気持ちだけ、確かにお預かりしますね」
「……ふうん。まあ、千夏がそう言うなら」貴文の相槌が、少しだけ短くなった。
一周目、同じ言葉を聞いたのは、招待状の発送を終えた頃だった。指を折って数えるまでもない。三週間、早い。
帰りの電車で、私は窓に映る自分と目を合わせた。記憶は当てにならない。順番は入れ替わるし、いつも早い方へずれる。だったら、ずれないものを一行ずつ増やすだけだ。
今夜書くのは、日付と、あの台詞。それだけでいい。帳簿は、感想がなくても締まる。




