第1話 私の葬儀の見積もりを、夫と彼女がしていた
天井の染みを、私は三日前から数えるともなく見ていた。首を動かすのが億劫で、視界に残っているものが、雨漏りの跡に似たあの地図みたいな形しかなかったからだ。
カーテンの向こうで、椅子を引く音がした。
「寝てる?」
「寝てますよぉ。さっき覗いたけど、ぴくりともしてなかったし。……千夏さん、ほんとに細くなっちゃいましたねえ。私には真似できないなあ、あそこまで尽くすの」
梨花さんの声だった。語尾にだけ砂糖をまぶした、貴文の会社の飲み会で何度か聞いた声。
「ねえ、それっていくら下りるんですか?」
「三千万。籍を入れる前に増額しといて正解だった」
「すごーい」
拍手でもしそうな声だった。
「おばあさまの土地のほうは?」
「名義はまだ祖母さんのまま。でも千夏が相続すれば、俺のものみたいなもんだろ。夫婦なんだから」
「じゃあ、おばあさまには長生きしてもらわないとですね。……あ、やだ。順番、変になっちゃう」
小さく笑う息が聞こえた。口元を手で押さえる仕草まで、見えるようだった。
それから二人は、葬儀の話をした。家族葬で十分、香典は受け取る、花は白ければ何でもいい。梨花さんが「私、喪服持ってないんですよね。買っちゃおうかな、ちょっといいやつ」と言い、貴文が「領収書切っとけば」と笑った。
私はカーテン一枚を隔てて、自分の葬式の見積もりを聞いていた。
怒鳴りたかった、と言えたら少しは格好がついたのだろうけれど、本当のところ、怒るための体力はとうに残っていなかった。給料も、祖母がくれたお金も、夜中までつけた家計簿も、沢渡の家に注いで、注いで、それでも足りないと言われ続けた三年だった。最後に頭に浮かんだのは涙でも恨み言でもなく、職業病みたいな一行の計算だった。
──私の人生、三千万と土地一筆で締めるつもりらしい。
安すぎる。
そう思ったのを最後に、天井の染みが滲んで、見えなくなった。
目が覚めると、天井に染みがなかった。
見慣れたシーリングライト。カーテンの隙間から差す白い光。息を吸うと、胸の奥までちゃんと届いた。私はしばらく、呼吸ができるというそれだけのことに驚いていた。
両手を目の前に上げる。血色のある手の甲。爪がピンク色をしている。跳ね起きても、めまいひとつしなかった。洗面所の鏡には、頬のこけていない女が映っていた。早瀬千夏、三十二歳。まだ「沢渡千夏」ではない私。
枕元のスマホをつかんで、表示された日付を三度読み直した。
結婚式の、三ヶ月前だった。
冷蔵庫には式場の見学予約のマグネットが貼ってあり、カレンダーには私の字で「ドレス試着」と書いた丸がある。通帳を開くと、沢渡の家への「結納のお礼」の振込が、まだ一件だけだった。これから毎月増えていくはずだった、あの行列の一件目。
夢、という説明は、お茶を一杯飲み終える頃には捨てた。夢にしては覚えすぎている。原理は分からないが、この回帰は一度きりかもしれない。保険金の額も、振込の日付も、喪服を買うと言った声の高さも。数字を忘れない性分が、こんなところで役に立つとは思わなかった。
最初に浮かんだのは、逃げることだった。今すぐ婚約を解消して、荷物をまとめて、祖母の家に帰る。簡単だ。電話一本で済む。
やりかけて、やめた。
顔合わせの席を思い出したからだ。貴文の母は、祖母の家の場所を三回聞いた。「畑も山も、広いんですってねえ」と、うっとりした声で。貴文は「相続って、生前にやったほうが得らしいよ」と、世間話みたいに言った。婚約の前から、あの家の食卓には祖母の土地が載っていたのだ。私と別れたところで、あの人たちが土地を忘れてくれる保証はどこにもない。祖母は電話のたびに「貴文さんは元気?」と聞く人だ。私が理由も言わずに逃げたら、次はあの善良な人のところへ、あの砂糖みたいな声が直接届くのだろう。
それに、今の私は何ひとつ持っていない。録音も、領収書も、保存したメッセージの一枚も。ここで婚約破棄をするのは、帳簿を締めずに店を畳むようなものだ。損だけが確定して、回収の道が消える。
経理事務を十年やってきた。回収の基本なら知っている。相手に警戒される前に、証憑を揃えること。
私は、知らないふりをすることに決めた。幸せな花嫁のままでいる。一周目の私は、本気でそうだった。二周目の私は、勘定科目だけ同じにして、仕訳を全部書き換える。
スマホが短く震えたのは、湯呑みを流しに置いたときだった。
「おはよう。ゆうべは電話できなくてごめんね。今日も一日がんばろうね。愛してるよ、千夏」
一周目のこの朝も、同じ文面が来た。嬉しくて、スクリーンショットまで撮って、何度も見返した文面だ。だから分かる。読点の打ち方まで、一言一句、同じだった。
二の腕に、鳥肌が立った。
定型文なのだ。宛名の欄だけ、差し替えられる。
私は一周目と同じ返事を打った。「私も愛してます。今日もお仕事がんばってください」。送信の音が、静かな部屋に落ちた。
それから私は、口角を上げた。誰かに求められたからでも、場を保つためでもなく、自分で決めて浮かべる笑みは、生まれて初めてかもしれなかった。
「ええ、私も——今度こそ、あなたたちを愛を込めて見送るわ」




